0からの始まりで、親しい人とでも嫌いな人とでも繋がることの出来るものってなーんだ?
高校2年生の4月、まだそれぞれが探り探りで、コミュニティを形成しかけている時期だった。原文ママとはいかないけれど、クラスメイトの彼女が出したのはそんな問題だった。やることがないのでスマホを弄っていたところを見つかり、暇潰しの相手として選ばれたらしい。
「正解出来たら、ご褒美上げる」
「解答権は?」
「三回。一回間違える毎にヒントあげる」
親切な設計の問題だった。昼休みの遊びとしてはかなりマイノリティな気もするけれど、あいにく、これ以外にやることもない。
「じゃあまず一回目。趣味」
「ファイナルアンサー?」
頷きを返すと、長ったらしいタメの後に彼女は手でバツをつくった。文章の意を酌むなら『趣味』が分かりやすいと思ったけれど、そう安易にはいかないらしい。
「ヒント1、それは持っている側の人間と持っていない側の人間がいて、君は持っている側の人間です」
持っていると言うからには、持つものなのだろう。そういう意味では『趣味』も持っていると言える。しかしながら、他人が見て断定出来るものでは少なくともない。
「難しいな」
「簡単ではないかも」
話を聞いていたのだろう、彼女の友人達があれこれ耳打ちをしていた。反応を見るに、答えられた人間はいなかったようだ。
「二回目、」指をピースにして「人間関係」。
「ぶっぶー」
甘ったるい効果音だった。しかしそれはいい。どうせ分からないので、ヒントを貰うための捨て解答だ。
「ヒント2、それに言葉は含まれていません」
0から始まり、どんな人とでも繋がって、自分が持っていて、言葉の含まれないもの。
なるほど。
「3回目、電話番号」
「正解。よく分かったね」
「あれだけヒントを出されればな」
聞こえるようにため息を吐きながら、「つまんないの」と彼女は言った。
「というか、電話番号って全部0から始まってるわけではなくないか?」
家の電話番号とか、極端な話をするなら110番だって電話番号なわけで。
「そんな屁理屈をこねる奴には、ご褒美上げない」
「全くもっておかしな話だな。110番は電話じゃない、SOSだ」
これも屁理屈に入るのだろうか。
「まぁ、大したものじゃないんだけどね。はい」
言いながら、彼女から渡されたのは一枚の紙切れだった。白紙ではなく、11桁の番号がハイフンで3つに区切られて羅列されている。
「……、今どき電話?」
彼女はメッセージアプリをやっていないのだろうか。
「うるさい。嫌なら返してよ」
「いや、ありがたく頂くけど」
失くすことのないよう、スマホのケースに差し込んで入れる。
「今日の9時くらいは、暇だから」
「そっか」
「うん」
暇つぶしは終わって、0からの関係が、1つ始まったみたいだった。
「席、譲ってくれない?」
気紛れに入った大学の食堂で、そう声をかけられた。声の方を見やると、格好良いという形容詞がよく似合いそうな女性が立っていた。閉店時間が近づいていたので客は少なく、席なんていくらでも選べるはずだった。
「私、その席が好きなの」
何か言いたげな雰囲気を察したのだろうか、彼女はそう続けた。
「もちろん、ただでとは言わない。ジュースくらいは奢るから」
ちらりと手元を見る。よもぎ色のトレイには空になった食器が載っている。
「いえ、もうそろそろ出ようと思ってたので大丈夫です」
椅子から立ち上がってトレイを持ち上げる。波風が立たぬようにと軽い会釈をしてその場を離れようとしたけれど、それは出来なかった。
「ねぇ、君、もしかして文学部?」
「そうですけど」
知らない人から学部を言い当てられると、落ち着かない気分になる。
「一番好きな小説は何?」
せっかく席を譲ったのに、彼女は立ったまま話を続けた。持ち上げられたトレイと食器が、所在なさげにカタと音を立てた。
結局、持ち上げたトレイと食器を置き直して元の席へと座った。彼女は左隣の席へ腰を下ろした。
「それで、一番好きな小説は?」
「吉本ばななの『キッチン』です」
「へぇ、どんなところが好きなの?」
好きな小説はすぐに答えられるけれど、好きな理由を問われると途端に難しい。ぼんやりとした霧状の理由達を、どうにか言葉で繋げていく。
「確固たる理由は特にないですけど、強いて言うならスッキリしている感じが好きです」
「もう少し詳しく」
「難しいですね。えっと、無駄な言葉が少ないというか、無駄なシーンが少ないというか、まぁそんな感じです」必要なものが必要なだけある感じと言えば、もう少し正確だったかもしれない。
「別に、大仰な文体が嫌いというわけでもないんですけど」
誰に怒られる訳でもないのに、言い訳みたいにそう付け加えた。
「自分からも、質問いいですか?」
「いいよ」
頬杖をつきながら、彼女は頷いた。
「なんで、学部知ってたんですか?」
「普通、こういう時って同じ質問を返すものじゃない?」
「好きな小説は何ですか?」
彼女はたっぷりと余韻を残しながら笑った。一通り笑い終わった後、
「面白いから、二つとも答えてあげる」
そう言ってピースサインをした。もちろん、シャッターは切っていない。
「まず、何故君の学部を知ってるかだけど、単純な話、私も文学部だからね。見かけたことがあっただけだよ」
「そうなんですね」
なんとなく、それは納得のいく回答だった。他人が読む本に興味を持つのは、つまりそういうことだろう。
薄っぺらい反応に少しだけ唇を尖らせて、彼女は続ける。
「好きな小説はね……、」
それからは、交互に質問をする形で話をした。全然知らない話題もあれば、上手く口の滑る共通の話題もあった。Q&Aはついに閉店まで続いて、BGMに追い出される形で食堂を後にする。
「明日もさ、ここでご飯食べる?」
「食べます」
「よかったらさ、明日も一緒に食べようよ。結構楽しかったし」
彼女は注文をしておらず、自分も既に食べ終えた後だったので一緒に食べたとは言えないけれど、提案自体は悪くない。
「ラスト一個、質問に答えてくれたら、いいですよ」
聞きたいことがあった。
「いいけど、何?」
「あの席が好きって、嘘ですよね?」
座り直した時に、彼女は何も言わなかった。
「てっきり、名前訊かれるかと思ったのに」
「名前、何ですか?」
「ユズカ。じゃあ、約束通りまた明日ね、サイトウくん」
一つの答えともう一つの謎を残して、ユズカさんは帰っていった。少なくとも、明日一番目にする質問には、困りそうになかった。
黒い風になったような気がした。地面を強く蹴る度に、ぐんと身体が前へと進む。街路樹の新緑が景色と共に後ろへと流れていって、春先のまだ冷たい空気を吸い込んで肺が悲鳴を上げる。今の自分ほどメロスの心情を理解する人間は、きっとこの世にいないと確信する。
『私の為に何が出来るわけ?』
高校進学を控えた春休みのことだった。合格を機に買ってもらったスマホの画面に、そんなメッセージがポップアップした。
送り主は松田だった。誰彼構わず優しくするなと咎められ、言い返したことで喧嘩に発展して解決しないまま今に至る。彼女も不安になることがあるんだなと、失礼なことを考えた。
『割とあると思うけど』
『例えば?』
すぐに返事が来る。具体例を挙げろと言われても、正直浮かばない。彼女の為に何か出来ることはあるだろうか。
『分かんないんでしょ』
見透かしたようなメッセージだ。時間を空けたのがまずかったかもしれない。
『まぁ 正直思い浮かばないな』
すかさず、謎のキャラクターがバットを振り回すスタンプが大量に投下される。処理が遅くなるのでやめていただきたい。
『やってほしいこと言ってくれたら 可能な限り対応するよ』
『じゃあ』
メッセージは続く。
『今すぐ私のところに来てよ』
『どこにいるの?』
『家の近くのコンビニ』
『待ってて 今行く』
メッセージを送ってから、慌てて着替えて靴紐を結ぶ。彼女が言うコンビニまでは3kmほどだ。ぐっと筋肉を伸ばしてから、勢いよく走り出す。
走っている途中、スマホに着信があった。今は誰であろうととることは出来ない。全てを投げうって、全力で駆ける。
「バカじゃないの?」
息を切らして松田の元へ到着したというのに、第一声がそれだった。手に持っていた水を押しつけられる。
「とか言って、ちゃっかり、水、用意してるじゃん」
「別に。自分用に買ったやつだから。可哀想だからあげただけ」
水を軽く口に含んで、少しずつ飲んでいく。
「なんか、あったの?」
「……あんた、自分がモテるの自覚ないでしょ」
「ないね」
モテる方かは分からない。男女ともに良い友人に囲まれているとは思う。
「全員に優しくしてると、不安になる。多分、私じゃなくてもここへ来たでしょ?」
「多分、そうかもね」
松田はため息を吐いた。
「素直すぎるのもなんかムカつく」
どうすればいいんだ。
それ以上何も言われなかったので、コンビニでタオルと制汗剤を買って汗に対処する。松田は何故か制汗スプレーを買っていた。
思い出したようにスマホの着信を確認すると、これまた松田からだった。
「なんで電話かけたの?」
「来てくれなかった、凹むから。来なくていいよって言うつもりだった」
「水まで用意してたのに?」
「うるさい」
「多分、誰の為にも走るけどさ。」まだ整いきらない息を、なんとか押さえつける。
「誰かを選ばくちゃいけないなら、松田を選ぶよ」
松田は「そっか」とそっけなく言って、制汗スプレーをこちらに吹きかけた。駐車場の止め石に鎮座する猫が、迷惑そうにこちらを眺めていた。
美しい文章というのが、どうも納得いかなかった。誘われて入った文芸部はそれを知っている人間ばかりの集まりだったので、そこに私の居場所はあまりなかった。
とはいえ、その審美眼を育てなければ良い文章は書けない。と顧問の先生が仰っていたので、仕方なく文豪達の真似をしてみたりした。自分でもよく分からぬままに書いた作品が褒められたりして、独り歩きする文章に気持ち悪さを感じた。
ある日のことだった。いつものように物真似の文章を書いていた私に、ある機会が訪れた。放課後、偶然に図書室を訪ねていた同級生に、作品を読ませてくれないかと頼まれたのだ。
その同級生は、名前を琴子といった。肩甲骨の辺りまで伸ばした髪が特徴的で、それ以外にはあまり印象に残らないような人間だった。
自分の作品を読ませるというのは、つまり自分の脳みそを覗かれるようなものなので、私は初め渋い顔をして断っていた。しかしながら、彼女があまりにもしつこいので、一つだけならと了承した。
実を言えば、この時の私は期待に満ち溢れていた。人よりは確実に多くの文を書き、まがりなりにも名文、あるいは美文と呼ばれる類のものを参考にしてきたのだ、素晴らしいと褒めそやされることはなくとも、まずまずの反応が見られるはず。
そんな私を知ってか知らずか、琴子さんは原稿用紙を食い入るように見つめて、一枚、また一枚と読み進めていった。最後の一枚を読み終わるまで、随分と長いことそうしていたように思えたけれど、都合十分ほどの時間しか経っていなかった。
待つのがいたたまれずに、自ら、どうだった? と感想を促した。琴子さんは、悪い意味に捉えないでほしいんだけどと前置きをして、
なんか、空っぽだね。と言った。
その一言で、私が積み重ねていた空虚な自信はジェンガのように崩れていった。
これではいけない。私の中にふつふつと何かが沸き起こった。それは復讐に似た感情であり、過去の自らと決別するための覚悟であった。
それから、私は琴子さんを満足させるだけの文を書こうと躍起になった。目の前の人間一人納得させられずして何が物書きかと自分に言い聞かせながら、書いては読ませ、読ませては書いてを繰り返した。それは小説であったり、詩であったり、ときには戯曲の形式を取ったものもあった。
そうして過ごしていくうち、私は琴子さんがとても美しい人であることに気づいた。文字を追う眼差しも、口許を隠して笑う仕草も、その全てが美しく思えた。メダカを好まぬ人間が鰭の美しさを語れぬように、数理に疎い人間が美しい数式を解けぬように、触れようとしないだけで、美しいとはそこここに眠っているものなのだ。
「これで終わり?」
琴子さんは続きを探すように原稿用紙を蛍光灯にかざした。彼女の奇怪な行動に、図書室の利用者達が遠目からこちらを見ている。
「そんなことやっても続きは出てこないよ」
「これは、新手の告白だったりするの?」
どうだろう。思ったことを連ねただけで、毎度訪れて勝手に読んでいるのは、彼女の責任だ。
「というか、君って一人称『私』だっけ」
「癖が抜けない」
文豪達は、『私』というもう一人の私を持っている。そうやって彼ら彼女らは、自らの美しくない部分を文にしたためて切り離しているのかもしれない。
「言うならちゃんと言ってよ。文じゃ聞いてあげないからね」
琴子さんは原稿用紙を整えてこちらに突き返した。今日もだめだったらしい。
この時間が終わらなければいいのにと安易な表現で気持ちをまとめてから、僕は原稿用紙を折り畳んだ。
市立図書館は休館日だった。休館のスケジュールは知っていたので、今日は返却ポストに返しにいくだけのつもりだったけれど、図書館の入口で妙な光景を目にした。
入口に置かれている休館日の看板を、角度を変えてパシャリパシャリとスマホで撮っている女生徒がいた。遠目では制服以外の特徴が分からなかったけれど、近づいてみればなんと、同じクラスの新田さんだった。あまり話したことはないけれど、小中高と同じなので顔は覚えている。
返却ポストも入口の方にある。彼女の行動が終わるまで待とうか迷い、別に気にすることでもないかと構わず向かう。
近づいてくる足音に気づいたのだろう、新田さんはぱっと振り向いてこちらの存在を認識すると、同じクラスの人間だと気づいたのか、なんだか気恥しそうに会釈をしてどこかへと行ってしまった。
返却ポストへ一冊ずつ滑り込ませた後、ふと好奇心にかられて看板を見てみることにした。トランプタワーのような形の看板で、真ん中を支える骨組みを加えると、横から見た時にアルファベットのAに見える。裏面には何もなく、表に大きく休館日と書かれていて、左下辺りに今月の休館日がカレンダーに記されていた。何の変哲もない看板のように思える。少なくとも、写真を撮ろうとは思わない。
看板をじっと見つめる。一瞬、休館日のカレンダーを写真に撮ったのかもしれないと思ったけれど、それなら何度もカメラに収める必要はない。新田さんは角度を変え体勢を変え、何度か撮っていた。
内側に秘密の暗号でもあるのかなとぐっと顔を近づけた時、中からかさかさと大きな蜘蛛が出てきた。辺りに響くような大声を上げて、反射的に身体を反らせる。心臓が口から出てしまうかと本気で思った。
これでは謎解きどころではない。ちょっとしたパニックで真っ白になった頭は、自然と帰宅へシフトしていく。もう帰ろう、変な詮索はよそうと歩き始めると、視界に制服姿が映った。さっきどこかへ行ったはずの新田さんが、何故か遠巻きにこちらを見ていた。
「こんにちは」
二度も目が合って挨拶しないのもなんなので、歩み寄って挨拶をする。新田さんは「こんにちは」とお辞儀をして「あの、何かあったんですか?」と続けた。先程上げた悲鳴が、彼女を呼び寄せたようだ。
「白状すると、新田さんの行動が気になって看板を見てた」
「やっぱり、見られてましたか」
「うん。それで、何で看板の写真撮ってるんだろうって気になって見てたら、蜘蛛が出てきてパニックになっただけだよ」
何とも情けない説明だけど、全て事実である。
新田さんは首を傾げた。ラッキーなことに、彼女は蜘蛛を見ていないのだろう。
「私、看板の写真なんか撮ってないです」
「撮ってたじゃん。スマホで」
新田さんは「あー、なるほどです」と言って、ポケットの中からスマホを取り出して、何やら操作し始めた。
「心の準備、してください」
新田さんが画面をこちらへと向ける。そこに映っていたのは、さっき目が合った蜘蛛だった。身体の仰け反りそうになるのを必死に抑える。
「蜘蛛、好きなの?」
声を何とか絞り出した。新田さんは嬉しそうに「蜘蛛も好きです」と言った。
謎は全て解けた。ついでに寿命も縮んだ気がするので、養生するために早く帰ろう。
「じゃあ、自分こっちだから」
「私もそっちです」
小中が同じなら、校区も同じかと納得する。別にそうする必要はないけれど、何となく連れ立って歩き始める。
「本、好きなんですか?」
「そうだね。人並みに好きだと思う」
「私、本も好きなんです」
それもそうか。わざわざ蜘蛛を撮るために図書館へは足を運ばない。
「小説?」
「はい」
「今まで読んだ中で、一番好きな本は?」
読書をする人間なら百回は聞かれる質問だ。読んだ本で相手を知ろうとするのは、本好きの性だろう。
「私は、『ダレン・シャン』シリーズが好きです」
新田さんはそう言って笑った。オチがついたとでも言いたげな感じだった。
疲れの交じる笑みを浮かべる。自分の好きな本は、また明日学校ででも話そうかと考えながら、良い趣味だねと乾いた賞賛を贈った。