なのか

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「席、譲ってくれない?」
気紛れに入った大学の食堂で、そう声をかけられた。声の方を見やると、格好良いという形容詞がよく似合いそうな女性が立っていた。閉店時間が近づいていたので客は少なく、席なんていくらでも選べるはずだった。
「私、その席が好きなの」
何か言いたげな雰囲気を察したのだろうか、彼女はそう続けた。
「もちろん、ただでとは言わない。ジュースくらいは奢るから」
ちらりと手元を見る。よもぎ色のトレイには空になった食器が載っている。
「いえ、もうそろそろ出ようと思ってたので大丈夫です」
椅子から立ち上がってトレイを持ち上げる。波風が立たぬようにと軽い会釈をしてその場を離れようとしたけれど、それは出来なかった。
「ねぇ、君、もしかして文学部?」
「そうですけど」
知らない人から学部を言い当てられると、落ち着かない気分になる。
「一番好きな小説は何?」
せっかく席を譲ったのに、彼女は立ったまま話を続けた。持ち上げられたトレイと食器が、所在なさげにカタと音を立てた。
結局、持ち上げたトレイと食器を置き直して元の席へと座った。彼女は左隣の席へ腰を下ろした。
「それで、一番好きな小説は?」
「吉本ばななの『キッチン』です」
「へぇ、どんなところが好きなの?」
好きな小説はすぐに答えられるけれど、好きな理由を問われると途端に難しい。ぼんやりとした霧状の理由達を、どうにか言葉で繋げていく。
「確固たる理由は特にないですけど、強いて言うならスッキリしている感じが好きです」
「もう少し詳しく」
「難しいですね。えっと、無駄な言葉が少ないというか、無駄なシーンが少ないというか、まぁそんな感じです」必要なものが必要なだけある感じと言えば、もう少し正確だったかもしれない。
「別に、大仰な文体が嫌いというわけでもないんですけど」
誰に怒られる訳でもないのに、言い訳みたいにそう付け加えた。
「自分からも、質問いいですか?」
「いいよ」
頬杖をつきながら、彼女は頷いた。
「なんで、学部知ってたんですか?」
「普通、こういう時って同じ質問を返すものじゃない?」
「好きな小説は何ですか?」
彼女はたっぷりと余韻を残しながら笑った。一通り笑い終わった後、
「面白いから、二つとも答えてあげる」
そう言ってピースサインをした。もちろん、シャッターは切っていない。
「まず、何故君の学部を知ってるかだけど、単純な話、私も文学部だからね。見かけたことがあっただけだよ」
「そうなんですね」
なんとなく、それは納得のいく回答だった。他人が読む本に興味を持つのは、つまりそういうことだろう。
薄っぺらい反応に少しだけ唇を尖らせて、彼女は続ける。
「好きな小説はね……、」
それからは、交互に質問をする形で話をした。全然知らない話題もあれば、上手く口の滑る共通の話題もあった。Q&Aはついに閉店まで続いて、BGMに追い出される形で食堂を後にする。
「明日もさ、ここでご飯食べる?」
「食べます」
「よかったらさ、明日も一緒に食べようよ。結構楽しかったし」
彼女は注文をしておらず、自分も既に食べ終えた後だったので一緒に食べたとは言えないけれど、提案自体は悪くない。
「ラスト一個、質問に答えてくれたら、いいですよ」
聞きたいことがあった。
「いいけど、何?」
「あの席が好きって、嘘ですよね?」
座り直した時に、彼女は何も言わなかった。
「てっきり、名前訊かれるかと思ったのに」
「名前、何ですか?」
「ユズカ。じゃあ、約束通りまた明日ね、サイトウくん」
一つの答えともう一つの謎を残して、ユズカさんは帰っていった。少なくとも、明日一番目にする質問には、困りそうになかった。

2/17/2024, 12:36:38 PM