助手席からの返事がいつの間にかなくなっていたことに気付いた時、既にユイは眠ってしまっていた。意味もなく流していた『不思議の国のアリス』の音量を下げて、暖房を弱めにかける。
ユイの電話に起こされたのは、夜中の一時を少し過ぎた頃だった。手繰り寄せたスマホをなんとか操作して出た電話の第一声が『車出して。眠れない』だった。彼女は時々、こんな感じで甘えるようになった。
中途半端に眠って重たくなった頭を顔を洗って起こし、見られても大丈夫なくらいの服に着替えて出発する。彼女の家は住宅の並ぶ埋め立て地にあり、到着したのは深夜二時にせまった頃だった。海風の運ぶ底冷えする寒さが、あらゆるものの活動を止めていた。
現在時刻は深夜三時を過ぎたあたりだ。車を出してから一時間弱の間に、ユイは眠ってしまったことになる。眠れないというのは何だったんだと思わなくもないけれど、本当に眠れないよりは全然良いので気にしないことにする。
数回に分けてブレーキをかけ、赤信号で一時停止する。どこに行こうか迷って、ユイの家に引き返すことにした。
低速で道路を独り占めしていると、助手席から物音がした。ちらりと見ると、ユイがゆっくりと目を開いた。
「ごめん、寝てた」
「おはよう」
「ん、おはよ」
ユイは背伸びをして、窓の外をきょろきょろと見回した。
「どこに向かってるの?」
「君の家」
「嫌。まだ帰らない」
嫌と言われてましても。そろそろこっちも眠気に襲われ始めている。他者の命を預かってる身で危険な運転は出来ない。それを説明すると、
「家の駐車場に停めて、一緒に寝たらいいじゃん。部屋から布団持ってくるよ」と言われた。彼女の家族に迷惑がかかるからと、丁重にお断りした。
ユイの家に着いた時には、時刻は四時をまわろうとしていた。彼女が降りやすい様、玄関に助手席を添わせる形で停止すると、エンジンを止めるように促された。
「車中泊はしないぞ」
「それは諦める。その代わり、ちょっとやりたいことがある」
車中泊をしないならとエンジンを止めた。ユイはシートベルトを外して肘掛を上げると、こちらに向かって両手を大きく広げた。
「ぎゅってして」
ため息を一つ吐く。言われるがままに、線の細い彼女の身体を抱きしめてやる。ちょっと胸の詰まるくらいに強く抱きしめられて、それが二分程続いたのち、名残惜しそうに彼女は離れた。
「おやすみ。今日はありがとね」
ドア越しに、ユイは手を振った。
「おやすみ。どうしても眠れなかったら、また電話していいよ」
家に着いたらメッセージ送るからと言い残して、車を発進させる。カーナビに映っているチャプター画面の白ウサギが、全てを見透かしたように、時計を覗き込んで笑った。
待ち合わせまで時間があったので持参した文庫本を読み耽っていると、ペちんと額に痛みが走った。電車は既に次の駅へ向かう助走をしていて、目の前には振袖姿のフユカさんが立っていた。
フユカさんの振袖姿を見た時、可愛いとか綺麗とかを思う前に、心臓を何かが這いずるよう様な気持ち悪さに襲われた。それは、日陰の中で燻っていた稚拙な独占欲が、彼女の明るさにあてられて芽吹いた痛みだった。
「どう? 似合うでしょ?」
成人式終わりのフユカさんはそう言って笑った。電車のプラットフォームには、彼女と同じような振袖姿の人がちらほらと見受けられる。楽しそうに袖を振る彼女はとても綺麗だと思ったし、とても似合っていた。だから、とても遠くに感じた。十八歳と二十歳、たかが二年だけど、それは確かな事実だった。自分はまだ大人ではなく、彼女はもう大人になったのだ。
「どうしたの?」
いつもと違う事に気付いたフユカさんが、心配そうにしていた。何を言うべきか考えて、何も言えなくなる。ただ唇を引き結ぶだけの自分が、情けなくて仕方なかった。
電車の利用客達が迷惑そうに避けていく。フユカさんに手を引かれる形で駅から出た。
「言わなきゃ分からないって、いつも君が言ってるでしょ。お姉さんに話してみ?」
駅周辺にある噴水を丸く囲む形で設置されたベンチに腰掛けて、フユカさんはそう言った。喧嘩した時はいつもそう言って話し合っていた。なけなしのプライドと脆弱な信念を天秤にかけて、信念を取った。感じたこと、思ったこと、出来る限り言葉にしていく。フユカさんは、途切れながら吐き出されていくそれらをじっと聞いていた。
「君さ、たまに超可愛い時あるよね。普段は生意気なのに」
「なんですかそれ」
「私はね」フユカさんはそう言って、何もない空をぼんやりと見上げた。
「本読んでる君が嫌いだった。高校の時ね」
初耳だ。
「何を話しても曖昧に返事するだけで、こっちの話全然聞かないし、何時間もずっとそうしてるし」
「すいません」
「何より、自分とは違うって感じるのが、一番嫌だった」
遠くでクラクションが鳴った。雑踏と信号の音が、混ざって消えた。
「本、読んでみようって頑張った時期もあったけどね。全然ダメだった」
「そう、だったんですね」
「そうだよ。」
どこか拗ねたような顔をした後、フユカさんはいたずらっぽく微笑んだ。
「だから、今の情けない君は大好きだよ。私のこと本当に大切なんだなーって思うと、可愛くて仕方ない」
恥ずかしいのと情けないのが、声にならないくらいの吐息になった。
「それで? 私に何か言うことあるんじゃない?」
「本読んでる時、反応薄くてごめんなさい。以後気をつけます」
「他には?」
他にあるらしい。考えても分からなかったので、言えなかったことを言うことにした。
「今日のフユカさんも、綺麗だと思います」
「うん、ありがと」
フユカさんは勢いをつけて立ち上がった。手を繋いでいるので、つられて立ち上がる。上着のポケットに押し込んだ文庫本の重さを、今更のように思い出した。
「三日月よりはマウスっぽいけど、パソコンの」
クロワッサンは何語だろうと言うので、フランス語で三日月という意味だよと教えたらこんな風に返ってきた。
「ほら、握るといい感じじゃない?」
遠藤さんは持っていた袋からクロワッサンを取り出して、マウスのように握った。
「手、汚れるよ」
注意しながら、クロワッサンを一つ手に取る。言われてみれば、マウスのように見えなくもない。
「三日月と言えばさ、朝に出てる三日月についてくる星あるよね」
暗くなりかけている空をぼんやりと見ながら、遠藤さんはそう言った。足元の覚束無いのを、やんわりと袖を引っ張る。
遠藤さんの言う星は、きっと金星のことだろう。夕方にも見えることはあるけれど、朝方に見えるのは明けの明星と呼ばれる。見える時に必ず三日月かどうかは、正直知らない。
「ねぇ、話聞いてる?」
「ん、その星は金星だと思うよ」
「ほら、やっぱり聞いてない」
金星に思いを馳せる内に話題は移り変わっていたようだ。歩行者信号のボタンを小指で押す。
「何の話になったっけ」
「占いって信じてる? って話」
占い。あぁ、六占星術から派生したのか。金星人、水星人、エトセトラ。
「占いは、あんまり信じてないかなぁ」
小学生の集団とすれ違いながら、横断歩道を渡る。
「星座占いとかも?」
「星座占いとかも」
がさがさと袋を漁る。クロワッサンはあと一個だった。
「これラストだ」
「えー、私も食べたい」
どちらが食べるか、星座占いで決めることにした。
「私五位だった、かに座。あんたは、うわ、うお座一位じゃん」
「いぇーい」
出来るだけ均等になるよう、半分にして渡す。
「くれるのかよ」
「今日は運がいいらしいからね。お裾分け」
「鼻につくなぁ」
遠藤さんはそう言って笑った。
「あ、三日月。ラッキーだね」
遠藤さんは空に浮かぶ三日月を指さした。三日月というよりは半月に近い。何がラッキーなのかは分からなかったけれど、とりあえず頷いておく。
「遠藤さんは、占いとか信じてるの?」
「結構信じてる」
「そうなんだ」
「うん、都合の良いやつだけ信じるの。これ占いのポイント」
何て都合の良い考えだろう。上手い付き合い方だ。
「都合のいいって、例えば?」
遠藤さんは「聞きたい?」と何故か勿体ぶった。
「凄い聞きたいかと言われると分かんない」
「食いついてよ」
言いたいみたいなので、聞いてあげることにした。
「かに座とうお座はね、相性良いの。都合いいでしょ?」
確かに、それは都合の良い考えだ。
「なんか、星座占いを信じてみたくなったかも」
「なにそれ、意味分かんない」
どちらともなく笑って、暗くなってきた住宅街に忍び笑いが響く。隣にいる遠藤さんの表情を、三日月は照らしてくれなかった。
英語の授業中のことだった。隣の席の相模さんが、少なくとも周りからは理不尽に感じられる理由でお叱りを受けた。英語の教師から見れば、彼女はノートの取り方がなっていないようだった。
その英語教師はマイチョークを持ち歩いていて、授業終わりの黒板はかなりカラフルに仕上がる。品詞や単語の役割によって色を分けているらしいのだけれど、相模さんは何故か黒と赤だけで板書していた。要は、黒板の通りに板書をしろということだった。ちらりと見えた彼女のノートはとても丁寧に取られていて、それで駄目なら自分も怒られて然るべきだなと、雑にまとめられた自分のノートを見た。
「災難だったな」
英語の次は現代文で、暇だったので相模さんに話しかけた。
「ううん、ちゃんとノート取ってないのは本当だから」
控えめなことだ。
「色、あんまり使わないタイプなのか?」
「うん」
ノートを取るのが上手な人間は文房具に詳しいと勝手に思っていたので、なんというか意外だった。
「でも、次は取らないとな。面倒かもしれないけど、怒られるよりましだろ」
歯切れの悪い返事があった後「私語は慎むように」と現代文の教師から形ばかりの注意を受けた。
昼休みはいつも通り購買で弁当を買って、友人のクラスに出向いて食べた。その内の一人を見た時に、ある可能性に思い至る。
「なぁ、お前さ、何色が分からないんだった?」
そいつは急にどうしたと茶化しながら「赤とか緑とかは、条件によるけど見分けづらいな」と言った。だからビリヤードの時困るんだよなとそいつは自虐した。
お礼に唐揚げを一つ渡して、雑な味の炒飯をかきこんでレモンティーで流した。断りを入れてその場を離れる。
教室に姿が見えなかったので、相模さんと親しそうな女子達に訊ねると、図書室にいるのではないかと言われた。図書室へ足を運ぶと、彼女はパーテーションで区切られた席で文庫本を読んでいた。声をかけて隣に座る。
「なぁ、間違ってたらというか、言いたくなかったら別にいいんだけど」
そう切り出す。
「もしかして、見分けづらい色があるんじゃないか?」
相模さんのことはよく知らない。でも、彼女の表情が驚きに満ちたことだけは理解出来た。
「友達にいるんだ。ビリヤードの球の色が見分けづらいってやつが。そいつは赤と緑が分からないって言ってた」
「私も、赤と緑です」
文庫本に栞を挟んで置き、相模さんはそう言った。
「ごめん。何も知らないのに、余計なこと言った」
この謝罪も自己満足だ。自分の中で消化出来ない何かを、吐き出しただけの。
「ううん。分からないのが普通だから」
だから大丈夫なのか。それでは英語教師と同じではないか。
「相模さんって、部活やってる?」
「やってないけど?」
首を傾げる仕草が、妙にらしかった。部活をしているのかも分からないのに、何故かそう感じた。
「今日の放課後暇? 詫びと言ってはなんだが、一緒にペン、買いに行かないか? 英語の授業で必要だろ」
一息に言い終えてしまってから、先走り過ぎたと後悔する。ペンを買う時に色を見分ける人間が要るだろうと思ったけれど、それは自分である必要はないし、そもそも店なら色は書かれている。
「私、色ペン持ってるよ」
一生懸命背伸びをする子供を見た時のように微笑んで、相模さんはそう言った。
「なんだ、持ってるのか」
一人空回りをしていたのが急に恥ずかしい。それならいいんだと返事をして踵を返そうとしたら、相模さんが「かき氷、で許してあげます」と言った。
「お詫びなんでしょ? ペンじゃなくて、かき氷がいいな」
相模さんなりの気遣いだろう。
「近くにあるのか?」
「歩いていけるよ」
「分かった。じゃあ、放課後、な」
同じ教室に戻るのに、そう言って別れた。彼女の瞳を通して見た自分はどんな風に見えるだろうと、乱れた夏服の襟を正した。
生まれてこの方、雪なんて見たことなかった。
「そっか。こっちじゃ降らないもんね」
菅原さんは窓の外を見ながらそう言った。彼女の出身地では、雪が降り積もっている季節だ。
「今日でも割と寒い方ですよ。こっちでは」
「私だって寒いよ? 風が冷たくて痛い」
「そうなんですか」
菅原さんは湯気の立ったコーヒーをかき混ぜながら「そうだよ」と言った。
「雪が降る。って、どんな感じです?」
カップに軽く触れる。ホットココアはまだ飲めそうな温度ではなかった。
「どんな感じって言われてもなぁ。私にとってはそれが当たり前のことだったし」
「それもそうですね」
「強いて言うなら、『鬱陶しい』かな」
鬱陶しい、か。まぁ、それが雪国出身の人達の本音なのかもしれない。少し寂しさの残る結論だけど、寂しさを感じるのは、知らない人間の身勝手さだ。
渋い緑色のエプロンを着けたウエイトレスが、パンケーキとワッフルを運んでくる。お礼を言ってお皿を受け取り、菅原さんの方へワッフルを置く。
「美味しそうだね」
言葉には頷きを返した。手を合わせて相手を伺う。視線でタイミングを測りながら、いただきますと声を合わせる。雪国出身でも島国出身でも、このくすぐったさは同じなんだろうか。
「雪、見てみたいの?」
パンケーキを食べ終えて、菅原さんがワッフルを頬張るのをぼんやりと眺めている時だった。
「そう見えました?」
「ちょっとだけ、感じたかも」
もう温くなったコーヒーを、菅原さんは優しくかき混ぜた。別に飲みたくなったわけじゃないのに、ホットココアに手を伸ばした。
「違う世界。って感じがするんです」
そこかしこに雪が積もって、歩くと足が埋もれていってざくざくと愉快な音を立てる。視界は真っ白に染まって、吸い込む空気の冷たさに冬の厳しさが混ざっている。
「でも、今はニュースで見られますからね」
雪かきの大変さを語る大人達と共に。それにがっかりしなくなったのは、自分も子供ではなくなってしまったからだろう。
「ここは、海が綺麗だよね」
「ですね」
菅原さんは何故か笑った。
「塩害がーとか、きっと君は言わないんだろうね」
「それは、海の美しさを否定することにはならないですからね」
「そっか、そうだよね」
菅原さんは何かに納得して「そろそろ出よっか」と言った。ごちそうさまも忘れずにしてからカフェを出た。
「君はさ、私のことどれくらい好き?」
次の目的地は少し遠くにある。そこまで一本で行けるバスを求めバス停探しの旅をしていたら、菅原さんが突然そう言った。繋いだ手が、少し強く握られた気がした。
「どれくらい、ですか」
「例えばさ」考える暇を与えずに、菅原さんは続けた。
「来年の今頃、私の故郷に一緒に行こうよって言ったら、ついてきてくれるくらいには好き?」
そう結ばれれば、言いたいことは伝わる。
「菅原さんが一緒なら、どこにだって行けるくらい、です」
どこまで行けるくらい好きだろうと考えたら、地球を一周した。どれくらいと聞かれれば、そう答えるしかなかった。
「南極とかも?」
訂正、南半球は想定外だったかもしれない。
「……善処します」
菅原さんは満足そうに笑った。とりあえず、防寒具を買い揃えないといけないなと、雪景色の中に立つ自分を想像して、そう思った。