待ち合わせは十一時だったけれど、交通網の都合により十時に到着した。目印にしている県立図書館の方へ寄ってみたものの、勿論相手は居なかった。図書館の中で本を読みつつ待つプランと、図書館以外の施設へ足を運ぶプランで悩んで、後者を選ぶことにした。
県立図書館は複数の施設と合併していて、建物の二階にはゲームセンターや百均、クレープ屋さんもあった。丁度よく十時からの開店だったらしく、本日第一号のお客様として丁寧なお辞儀で迎え入れられる。
クレープには心惹かれるものがあったけれど、どうせなら一緒に食べた方がいいので我慢して、ゲームセンターの方へ向かう。一万円を千円に、千円を百円に崩して中を物色し、無難にUFOキャッチャーをすることにした。暇つぶしなのでどれでもよく、取れそうな難易度のやつに挑戦する。
一回目はぬいぐるみの真ん中を狙って、一瞬持ち上がった後するりと滑り落ちてしまった。持ち上げて移動するのは難しそうだ。どうしようかと腕組みをして、一つアイデアを思いつく。二回目、今度は出口から少し遠い方へアームを降ろしていく。ぬいぐるみのお尻だけが持ち上がる格好になって、狙い通り出口へと滑り落ちていった。結構な勢いで落下したのにぬいぐるみの表情が全く変わらないのが、当たり前なのに少し可笑しかった。
都合二百円、片手で抱きかかえるのに丁度いい大きさのぬいぐるみが手に入った。一度成功体験を積むと楽しくなってくるのが人間というもので、名前だけは知っている有名なキャラや待ち合わせ相手が好きだと言っていたキャラに狙いを定めてがんがん取っていく。気づけば三千円以上をUFOキャッチャーに投資して、ついでに隣接するガチャガチャのコーナーで千円ほど使い、両手で足りないからと百均で買った紙袋の中も戦利品で溢れんばかりになっていた。
いつの間にか自分以外の客も増えていて、特に子供達からの視線が熱かった。どこか誇らしげな子供っぽい感情が沸き立つのを感じた。しかしそれは、スマホにポップアップされた一通のメッセージでかき消されてしまう。
『随分と楽しそうにしてるね』
慌てて周りを見渡すと、子供連れや外国人観光客の中にハルカさんの姿を発見する。スマートフォンの画面には、無情にも十一時二分と表示されていた。
「おはようございます。どうしてここに?」
ガサガサと鳴る荷物を揺らしながら、彼女の方へ駆け寄っていく。
「図書館前に君がいなかったから、暇でも潰してようと思って」
「奇遇ですね。俺も待ち合わせの時間まで暇潰そうと思って遊んでたんです。よかったら一緒にやります?」
心なしか、いつもより腕組みに迫力がある気がした。
「すみません。暇潰しに熱くなっちゃいました」
一つため息を吐いて、ハルカさんは「今度からは連絡しなさいよ」と言った。
過程はどうであれ遅刻は事実なので、クレープで手打ちにすることになった。ハルカさんは別にいいよと言っていたけれど、申し訳なさを引きずるのもなんだからと了承させた。
「それで? どんなの取ったわけ?」
注文を終えて二人がけの席に着き、戦利品を一つずつ紹介していく。会話の中で言い訳を適度に挟みながら、十時からの行動を明らかにしていく。ハルカさんは柔らかな相槌を打ちながら、楽しそうに話を聞いてくれた。
「結構な額使ったね」
「こいつは二百円で、こいつらは千円くらいです」
「生々しいね」
「悔いはないです」
「ねぇ、この子なんだけど」
ハルカさんは遠慮がちにぬいぐるみを指さした。好きだと常から言っていた例のキャラだ。
「あげますよ。あげるために取ったんで」
「そうなの? めっちゃ嬉しい」
ハルカさんはその子を抱き上げると、ぬいぐるみの細かいところを確認し始めた。
「ありがと」
「暇潰しがメインなんで」
机に広げたぬいぐるみやらを片付けている途中に、溌剌そうな店員さんがクレープを運んできた。いただきますと手を合わせて、真ん中から豪快に食べていく。
口の中に広がっていく甘さに、ハルカさんは満足そうな顔を浮かべた。
クレープを後回しにしておいて正解だったねと、ぬいぐるみ達が言っているような気がした。
いい加減な生き方しかしてこなかったので、サンタさんは来てくれなかったらしい。
「大人だからでしょ?」
冷蔵庫から缶ビールとコーラを取り出した梨花さんが、こんなにも馬鹿げた会話はないとでも言いたげに答えた。緊張を紛らわせる為の他愛ない話のつもりだった。
「大人、出来てますかね」
お礼を言ってコーラを受け取る。中身に違いはないのだろうけれど、缶の方が何故か好きだ。
「だって二十一歳じゃん」
「そうですね」
「もうお酒だって飲める」
ベッドに腰掛けて、梨花さんは缶ビールを軽く振った。
「君は飲まないんだろうけどね」
高低差のある乾杯をしてそれぞれのプルタブを起こす。さっき振った影響か、ビールが縁から溢れた。梨花さんの右手とジャージの太もも辺りが濡れる。
「やっちゃった」
「格好つけるから」
タオルの場所を簡単に説明してもらって、洗面所のそばにある棚へと辿り着く。洗濯して綺麗に畳まれたタオルが、種類別にきちんと並べられている。ハンドタオルを上から一枚取ってリビングへと戻る。
いつの間にか点けられていたリビングのテレビには、都内のイルミネーションスポットが映し出されていた。白い息を吐くレポーターの質問に、嬉しそうに男女が答えている。
「梨花さん」
呼びかけると、少し肩を震わせて梨花さんは振り返った。
「びっくりした。あ、ありがとね」
タオルを受け取った梨花さんは缶や手を素早く拭いてから「ちょっと着替えてくるね」と言い残して着替えと共に洗面所の方へと消えた。
やることもないし下手に動き回れないのでぼんやりとテレビを眺める。テレビに接続されたゲームが気になったけれど、それは触らない。
ザッピングくらいは許されるだろうと番組を意味もなく切り替えていると、パタパタと足音をさせながら梨花さんが戻ってきた。
「おまたせ」
梨花さんが部屋着で戻ってきた後は、当初の予定通り机に食べ物を広げたり二人で協力するタイプのゲームをしたりした。
「イルミネーションとか、観に行きますか?」
ゲームが一段落ついて、僅かに訪れた静寂に背中を押される形で、言葉が口をついて出た。気づいた時には遅く、梨花さんは目を丸くしてこちらを見ていた。
「君は、観に行きたいの?」
「正直興味無いですけど、梨花さんと一緒ならどこで何しててもいいなって」
梨花さんは笑った。ゲームをクリアした時より、ビールの一口目より笑顔だった。
「観に行こ、イルミネーション。ごめんね、気を遣わせちゃった」
「別に遣ってないので、早く着替えてください。結構時間ないですよ」
梨花さんが再び着替えている間、スマホを使って近くのスポットを調べる。日付けが変わるまでイルミネーションが催されている公園にチェックを入れて、脱いでいたパーカーに袖を通した。
二人してばたばたと準備を済ませて、アパートの裏側に停めてある軽自動車へと乗り込む。シートベルトを確認して、音声案内に従って発進する。
公園に着いたのは閉園まで三十分と迫った頃だった。十分にイルミネーションを堪能した人々が施設から吐き出されていく。ワンコインの入場料と引き換えに、クリスマスツリーが浮き出て見える謎のカードを貰ってゲートをくぐる。
「綺麗」
公園に並ぶ木々やオブジェ達がイルミネーションによって彩られていた。淡く光る二段の雪だるまや、首や尻尾を振る電飾の犬も、景色の中に溶け込んでいた。
「想像してたより、感動してます」
「普通に感動してると言えないの?」
「普通に感動しました」
耳たぶを抓られる。冷えていてむしろ心地よかった。
公園の広い敷地の中には特別に屋台が並んでいた。せっかくだからと、大きな綿あめを一つ買った。
「はい、あーん」
ふわふわもこもこを容赦なくちぎって、梨花さんはこちらに手を伸ばした。
「自分で食べます」
「クリスマスプレゼントだから」
「それは、」
「君が買ったやつでしょ。いいから、君はプレゼントを貰わなくちゃだめなの」
意味は分からなかったけれど、一応食べておく。
「どう?」
「甘いですね」
「そういうところだよ。まったく」
梨花さんがちぎって、どちらかが食べてを繰り返して、綿あめはあっという間になくなった。
「味は変わらないけど、なんかこっちの方が好きです」
何かを言いかけていた梨花さんを遮るように、閉園のアナウンスが響き渡った。
「帰ろっか」
屋台が畳まれていくのを横目に、客達が出口の方へと流されていく。綿あめの纒わり付くような甘さは、まだいなくなってくれそうになかった。
いつしか、晴れた空を見上げるのが癖になっていた。澄んだ青色が目に眩しく、吹き抜ける風に運ばれていくもこもことした雲を眺めているだけで、何故か胸がすくような感じがする。
「私の影響?」
「多分ね」
日曜日の昼下がり、課題や単位という言葉を平日に放っておいて訪れたのは、広い原っぱが魅力的な地元の公園だった。
「私、そんなに空見てるかな?」
「自覚ないんだ。」
子供連れの家族や近所の子供達で周りは賑やかだ。彼女の選んだキャラもののシートを広げて、朝二人で作った弁当をガチャガチャと並べていく。手を合わせていただきます。
「んぅ、美味しい!」
とても一口では収まらなさそうなサンドイッチを豪快に頬張って、彼女の唇はバターだらけになっている。つくづく、見ていて気持ちのいい人だ。
「おぉ、自分達で作ると満足感がある」
同じようなものは人生で幾度か食べているはずだけれど、今日のサンドイッチが一番美味しい気がした。頬張るタイミングと相槌が被って、ハムスターのようになった彼女から、何語なのか分からない肯定語が発せられる。
「話の続きだけど、私そんなに空見てる?」
「そう言われると自信ないけど。高校の時、よく見上げてた気がする」
彼女が教室の窓から空ばかり見上げるものだから、どうやって話しかけようか大いに迷った覚えがある。迷いに迷って、結局『良い天気だね』だなんて話しかけたのだ。
「その時に、『良い天気だから、今日の私は良い気分です』って言ってたでしょ」
「よく覚えてるね。私も思い出した」
「でしょ? 空ばかり見てたよ」
「あの頃は、空を見るくらいしかやることなかったから」
ジリジリと鳴く蝉の声や走り回る子供達の騒がしい感じが、耳に痛かった。返答の代わりに水筒からお茶を汲んで渡す。サンドイッチと緑茶も悪くない。
緑茶を堪能していると、彼女が「なるほど」と何かに納得した。
「だから、初デートは天体観測だったんだ」
「だからという訳でもないけど」
「違うの?」
違わないけれど、なんだか癪なので何も言わなかった。
「私はてっきり、君が空を好きなんだと思ってた」
「そうなんだ」
「だって君、窓の方ばっか見てたから。だから勉強したんだよ私、一緒に空の話が出来るように」
「そっか」
気恥しい沈黙に促されて苺を一つ手に取る。じんわりとまとわりつく暑さに苺の冷たい甘さが染み渡る。
用意したものは粗方食べ終えてしまった。結構な量を用意したけれど、空の下という開放感が二人を大胆にしたのかもしれない。ごちそうさまと手を合わせて、弁当をガチャガチャと片付けシートを綺麗に折り畳む。彼女に任せると変な折り目がついてしまうので、こういうのは自分が担当する。
「空を見てたんじゃないよ」
「ん? 何?」
愛車の後部座席へとリュックを置く。
「空じゃなくて、君を見てた」
呆気に取られる彼女のことは気にせずに車へと乗り込む。慌てて彼女も助手席に乗り、シートベルトとエンジンをかける。
「ねぇ、手、繋いでいい?」
「危ないからダメ」
「じゃあ、そっちにもたれとく」
肘掛けが軋んで、控えめな重さが肩へとかかった。一緒に見上げた空の記憶が、最高のサンドイッチと共に、夏に刻まれた。
「夜明け?」
七宮さんはオウム返しして首を傾げた。
「はい」
冷めないうちにと牛丼を食べ進める。夜のデートとして牛丼屋が適切かは分からないけれど、七宮さんの発案なので特に言及はしない。
「革命の夜明け的な?」
「違います。比喩的なものではなく、夜明けそのものです」
「へー。ロマンチストだねぇ」
七宮さんはにやりと笑った。
聞かれたから答えたのに。
「夜明けを見るのが好きなの?」
「そうです」
「好きになったきっかけは?」
「牛丼、冷めますよ」
七宮さんはそれ以上追及せずに「そうだね」と相槌を打って牛丼を食べ始めた。
「小六の冬休みの時に、夜更かししてゲームをしてた時があって」
あの時はただ、夜更かししてするゲームが楽しいだけだった。親の目を盗んで、布団に潜ってやっているのが妙に可笑しくて、そのままのテンションで何となく外に出てみただけだった。
「別の世界に来てしまったような感じでした」
東の空から始まりはやってくる。寒色のグラデーションが色鮮やかで、そこに柔らかなオレンジが混ざって朝が顔を覗かせる。冷めきって止まっていた何もかもが、発条の巻かれたオルゴールみたいに動き出す。静けさを鳥の鳴き声が破って、正常な一日が始まる。
「感動で、その時は言葉が出ませんでした。朝食の席で親に一生懸命話したけれど、やっぱり上手く言葉に出来なくて」
今も変わらないなと思う。
七宮さんは相槌を打つだけで、何も言わなかった。その後は何も話さず、黙々と牛丼を食べ終えて会計を済ませた。
「夜明けを見に行こう」
助手席に座ってシートベルトを引っ張っていた時だった。ハンドルを握って、フロントガラスを真っ直ぐに見据える七宮さんがそう言った。
「明日、普通に大学ですけど?」
「いいの。私は今、君と一緒に夜明けが見たいと思った。だから見に行く」
こっちも普通に講義があるのだけれど、ハンドルを握っているのは七宮さんだ。どちらにせよ選択権はない。
夜明けまではかなりの時間があったので、カラオケだったりネットカフェだったりで時間をつぶした。この時間で仮眠を取ればと思ったけれど「小六の君とおんなじがいいの」と却下された。
程よく時間は流れて、夜明けまであと少しとなった。アプリの音声案内に従って道を進み、辿り着いたのは港だった。近くにあった公園の駐車場に車を停めて、海を見渡せるスポットで柵にもたれかかる。
「寒いねぇ」
海風が頬をびりびりと撫でていく。眠気と寒さが入り交じって、身体がふわふわとしていた。
やがて、夜明けは始まった。途切れがちな雲が少し漂っていたけれど、彼ら彼女らが流されていくのも見ていて楽しかった。波の音が不規則に耳を打つのは、隣にいる七宮さんがじっと押し黙っているのを意識しているからだろうか。目の前で起こる劇的な変化の奔流に流されて、言葉は塵となって消えた。
「ねぇ、キスしよ」
「ここでですか?」
「今、ここで」
七宮さんの声は鋭かった。丹念に研がれた刀を、喉元に添えられた気分だ。
「言葉に出来ないの。だから、もう触れることでしか私たちは分かり合えない」
そう言って、七宮さんは目を閉じた。考えることを止めて、キスをした。
眠気と寒さで鈍っている身体に、触れた唇の確かな熱を感じる。磨り硝子越しの世界に、甘やかで柔らかい何かがじんわりと広がっていく。
「何か分かりました?」
恥ずかしくなって、冗談が口をついてでる。
「私ね、生きてて良かった、って本気で思ったの初めてかも」
「そうですか」
それからしばらくの間は、水面を優雅に飛ぶ水鳥達を眺めた。頬に刺さる海風と繋がれた手の温かさだけが、ここが現実であることを確かにしていた。
へんてこな講義を取ってしまったと後悔しても、単位は必要なので後戻りは出来なかった。
先々週は引き寄せの法則について学び、先週はテスラとエジソンの電力を巡る争いについて学んだ。今週は何が飛び出るのだろうと思ったら、パーソナルスペースについてだった。
講義の半ば、恋人がいない人という条件の元、教授に指名されて黒板の前へと出ていく。自分の他にもう一人、大原という女学生が立候補して前に出てきた。哀れな単位難民なのだろう。
大原さんと三メートル程の距離で向かい合うよう指示される。向かい合う二人をよそに教授はパーソナルスペースの説明を続けた。簡単に言うと、他者に近づかれると不快になるスペースのことらしい。
「五十センチずつですか?」
教授に確認する。大原さんに少しずつ近づいていき、不快だと言われるまでそれを繰り返すことで、パーソナルスペースの大きさを測ろうということらしい。酷い話だ。
まず一歩目。
「大丈夫です」
二歩目。
「大丈夫です」
アクションを起こす度に無責任にざわめく教室を無視しながら、三、四歩目をクリアする。
五歩目はかなり勇気が必要だった。大原さんとの距離は小さい前へならえ程度に縮まり、どちらかのバランスが前へ傾けばもつれ合って倒れてしまいそうだった。
「大丈夫です」
教室から歓声が上がる。完全に見せ物気分だ。
「あの、普通にこっちが照れるんですけど」
大原さんの視線から逃れるように身を捩らせて教授に申し出たけれど、男側の意見は聞き入れないということで続行になった。実に時代錯誤だ。
五十センチ縮めると触れてしまうので、もう半分だけ前に出ることになった。靴一足分を目安に慎重に前へ踏み出す。
自然と息が詰まるような距離感。黒板の方へ視線をずらして空気を求める。シャンプーなのか香水なのか分からないけれど、微かに爽やかな香りがした。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないです!」
両手を上げてバックステップの要領で後退りする。教室は様々な種類の笑い声がこだまして、教授の拍手がトリを飾った。
その後は、肩が触れてしまいそうな距離で横並びにさせられて、正面と横ではパーソナルスペースに差が出るのだと説明がされた。
災難な講義だったけれど、終わってしまえば諦めもつく。周りに何かを言われる前にと思い、さっと机の上を片して教室を後にする。
「あの、すみませーん」
とりあえずご飯にしようと食堂への道を歩いていると、後ろから声をかけられる。さっきの講義で何度も聞いたので、声の主には覚えがあった。
振り返ると、大原さんが息を切らせて近づいてくるところだった。
「あの、食堂でご飯食べるんですか?」
「そうですけど」
「よかった。よければ、一緒してもいいですか?」
何がよかったのかは分からないけれど、自分のやることは特に変わらないので了承した。
「講義の出席日数足りてないの?」
食堂で並んでいる間、興味本位で聞いてみる。
「どうしてですか?」
「いや、あんなのに立候補してたから。余程評価が足りてないのかと」
よもぎ色のトレイを二人分取って、一枚を大原さんへと流す。大原さんは小さく頭を下げて、賞状みたいに恭しく受け取った。
「あー、そっか。そうですね」
ゆるやかな空気の返事は、宙を彷徨って消えた。
「大変だね、お互い」
フルーツとサラダ、ネギトロ丼を載っけて会計を済ませる。中心は幾つかのグループが大挙して騒がしかったので、人の寄り付かない端っこのカウンター席に二人並んで座る。
「そうですね。これから大変そうです」
大変そうだという言葉のわりに、大原さんは微笑みを絶やさない。
いただきますと手を合わせてから、しばらくは黙々とご飯を頬張る。
「そういえば、講義の時『大丈夫じゃないです』とか言ってごめん。こっちも頑張ってたから出ちゃっただけで。別に嫌だったわけじゃないです」
隣に存在を感じるのが面映ゆくて、そっぽを向いてしまう。
「私の方こそ、ごめんなさい。面白くって、つい頑張っちゃいました」
くすぐったい声だった。
Tシャツの裾を引っ張られて、彼女の方を見やる。こちら側にぐっと彼女の身体が傾けられて、あの時と同じような香りがした。
「今も、結構頑張ってるんですよ?」
何も理解していないのに「なるほど?」と相槌を打った。触れてはない。まだ、触れてはいないだけの距離で、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。