「夜明け?」
七宮さんはオウム返しして首を傾げた。
「はい」
冷めないうちにと牛丼を食べ進める。夜のデートとして牛丼屋が適切かは分からないけれど、七宮さんの発案なので特に言及はしない。
「革命の夜明け的な?」
「違います。比喩的なものではなく、夜明けそのものです」
「へー。ロマンチストだねぇ」
七宮さんはにやりと笑った。
聞かれたから答えたのに。
「夜明けを見るのが好きなの?」
「そうです」
「好きになったきっかけは?」
「牛丼、冷めますよ」
七宮さんはそれ以上追及せずに「そうだね」と相槌を打って牛丼を食べ始めた。
「小六の冬休みの時に、夜更かししてゲームをしてた時があって」
あの時はただ、夜更かししてするゲームが楽しいだけだった。親の目を盗んで、布団に潜ってやっているのが妙に可笑しくて、そのままのテンションで何となく外に出てみただけだった。
「別の世界に来てしまったような感じでした」
東の空から始まりはやってくる。寒色のグラデーションが色鮮やかで、そこに柔らかなオレンジが混ざって朝が顔を覗かせる。冷めきって止まっていた何もかもが、発条の巻かれたオルゴールみたいに動き出す。静けさを鳥の鳴き声が破って、正常な一日が始まる。
「感動で、その時は言葉が出ませんでした。朝食の席で親に一生懸命話したけれど、やっぱり上手く言葉に出来なくて」
今も変わらないなと思う。
七宮さんは相槌を打つだけで、何も言わなかった。その後は何も話さず、黙々と牛丼を食べ終えて会計を済ませた。
「夜明けを見に行こう」
助手席に座ってシートベルトを引っ張っていた時だった。ハンドルを握って、フロントガラスを真っ直ぐに見据える七宮さんがそう言った。
「明日、普通に大学ですけど?」
「いいの。私は今、君と一緒に夜明けが見たいと思った。だから見に行く」
こっちも普通に講義があるのだけれど、ハンドルを握っているのは七宮さんだ。どちらにせよ選択権はない。
夜明けまではかなりの時間があったので、カラオケだったりネットカフェだったりで時間をつぶした。この時間で仮眠を取ればと思ったけれど「小六の君とおんなじがいいの」と却下された。
程よく時間は流れて、夜明けまであと少しとなった。アプリの音声案内に従って道を進み、辿り着いたのは港だった。近くにあった公園の駐車場に車を停めて、海を見渡せるスポットで柵にもたれかかる。
「寒いねぇ」
海風が頬をびりびりと撫でていく。眠気と寒さが入り交じって、身体がふわふわとしていた。
やがて、夜明けは始まった。途切れがちな雲が少し漂っていたけれど、彼ら彼女らが流されていくのも見ていて楽しかった。波の音が不規則に耳を打つのは、隣にいる七宮さんがじっと押し黙っているのを意識しているからだろうか。目の前で起こる劇的な変化の奔流に流されて、言葉は塵となって消えた。
「ねぇ、キスしよ」
「ここでですか?」
「今、ここで」
七宮さんの声は鋭かった。丹念に研がれた刀を、喉元に添えられた気分だ。
「言葉に出来ないの。だから、もう触れることでしか私たちは分かり合えない」
そう言って、七宮さんは目を閉じた。考えることを止めて、キスをした。
眠気と寒さで鈍っている身体に、触れた唇の確かな熱を感じる。磨り硝子越しの世界に、甘やかで柔らかい何かがじんわりと広がっていく。
「何か分かりました?」
恥ずかしくなって、冗談が口をついてでる。
「私ね、生きてて良かった、って本気で思ったの初めてかも」
「そうですか」
それからしばらくの間は、水面を優雅に飛ぶ水鳥達を眺めた。頬に刺さる海風と繋がれた手の温かさだけが、ここが現実であることを確かにしていた。
12/2/2023, 7:32:25 PM