何かに夢中になったりすることがあまりない人間だった。出来る範囲で出来ることをやって、社会規範から外れない場所で適度な楽しいを享受する。
「本当に辞めるの?」
「辞めるんじゃない、辞めたんだ。退部届けは受理されてる」
昼休み、文芸部の部長から図書室に呼び出された。退部の件についてだった。
「文芸誌はどうするの? 」
「どうするって言われてもな……。既に部外者だし」
「それは無責任じゃない?」
責任か。部活動にはどれほどの責任が伴うのだろう。
「辞められると、困るんだけど」
「作品が集まらないからか?」
「そう」
「あんなに人がいるのにか」
部長は下を向いた。言い返す言葉は持ち合わせていないだろう。
「貴方が一番、作品を出していたのは認める」
「事実だ。認められるまでもなく」
「そうね、事実」
部長はスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「そんなに、何かに一生懸命になるのが嫌?」
部長が打ち出した方針のことだ。文芸誌にもコンクールがあり、そこで優秀賞を取りたいらしい。目的があるのは素晴らしいことだが。
「誰しもが、評価を欲している訳じゃない。みんなとわいわいやれるのが楽しくて所属してたやつらを排除したのは、あんただろ」
「排除だなんて、そんなつもりなかった」
ここらが踏ん張りどころだ。
「実際、尊敬するよ。何かに打ち込むのは熱量が要る。ただ、それについていけるやつとそうでないはいるだろ。それだけだよ」
「貴方はついてきてくれると思ってた」
「そうか。あてが外れたな」
訪れた沈黙に、今のうちにとでも言わんばかりに刺さる好奇の視線。逃げ出してしまえばいいと思っているのに、自分でも不思議なくらい意固地になっている。
「じゃあなんで、作品を出し続けたの? 貴方にも、熱はあったんじゃない?」
どうだろう。文芸部はそれなりに居心地の良い場所だったし、所属するからにはとやるべきことはやった。ただ、それは自分にとって必ずしも必要なことではなかったのも確かだ。
「私も、言いすぎたなって反省はしてる」
静観していた司書教諭がカウンターから出てくるのが、遠くにぼやけて見えた。
「貴方だけでも、戻ってきてほしい」
「他の奴らはどうでもいいのか?」
何故かその瞬間、明確な線引きが二人の間にされたように思う。一度出てきてしまえば、言葉は止まらなかった。
「俺が作品を出せる人間だから、引き留めたいだけだろ? あんたは反省なんかしてない。他の奴らにも、同じようにしてやったか?」
「それは、今からやるつもりだった」
「そうか。じゃあ頑張るんだな」
堪えきれなかったのは向こうも同じだった。部長は既に言葉を持たず、溢れる気持ちが涙になって流れていた。
「泣くのは、ずるいだろ」
泣いてほしくて話したんじゃない。けれど、何のためかと問われても答えはなかった。
事情を知らないのにざわつく外野も、彼女の肩を優しく擦る司書教諭も、馬鹿みたいに鳴り響く予鈴のチャイムも。世界の何もかもが煩わしかった。
言うべきことは言ったし、聞くべきことは聞いた。聞きたかった言葉を彼女はくれなかった。互いに押し付けあった理想は、言葉に切り刻まれて惨たらしく死んだ。
窓の外のカラスが、嘲笑うように高く鳴いた。
「乾燥で本の頁が上手く捲れなかった時」
それだけ言い放って、彼女は返却本を棚へ並べる作業に戻った。
「いまいち共感出来ないな」
「じゃああんたは? どんな時に冬だなって思う?」
どんな時に冬だなと思うだろう。
「コンビニの肉まんが食べたくなった時、かな」
彼女はハードカバーの小説を棚に戻しながら「なにそれ」と笑った。
「でも、嫌いじゃない」
「そうですか」
日焼けして装丁の色が薄くなった小説を、ラベルを頼りに棚へと並べる。
「食べ物じゃないけど、暖かいココアは冬って感じするかも」
ブラックコーヒーを好みそうなイメージが勝手にある。
「今、似合わないって思ったでしょ」
「まさか」
似合わないとは思っていない。意外だとは思ったけれど。
他愛もないことを言い合っている内に作業は終了した。図書委員も楽な仕事じゃない。
返却本を入れていたケースを所定の位置へとかたづけて、ぐっと一つ背伸びをする。どこかの骨が愉快な音を立てた。
「あんた、これから暇?」
「あとは帰るだけ」
「じゃあさ、コンビニ行こうよ。言ってるうちに食べたくなってきた」
財布を確認する。買い食いに付き合うだけの資金はありそうだ。
作業が終わったことを司書教諭へと報告して図書室を後にする。外に出ると、ちらほらと星が顔を出していた。
朝は生徒でごった返しているコンビニも、下校時刻にはわりと空いていた。ホットの緑茶を手に取ってレジに向かい、一つしかなかった肉まんの代わりにピザまんを選んだ。
少し遅れて、肉まんとココアを装備した彼女がイートインスペースへと入ってきた。
「食べ合わせ悪くない?」
「いいの。こうしたいと思ったから」
意志の強いことだ。
「ねぇ、半分こして食べない?」
冷気に晒されて湯気立っている肉まんが、半分に割られてこちらに差し出された。
「急になんで?」
「あんた、私に遠慮したでしょ」
「してないよ。別にどっちでもよかった」
食べたいと思っている人間に食べられた方が、肉まんもましだろう。
「じゃあ、ピザまんも食べたいから、半分交換しよ」
「じゃあ、って……」
譲る気はなさそうなので大人しくピザまんを半分にして渡す。圧力に屈したトレードだ。先進国同士なら国際問題に発展するだろう。
「あんたは、今年サンタさんに何頼むの?」
口に運びかけた肉まんを落としてしまうところだった。隣を見やると、平然とした顔でピザまんを頬張っている。
「冗談」
分かりづらい冗談だ。
「サンタはともかく、欲しいものとかないの?」
「特にないな」
「そう、幸せなのね」
至って普通だよと言い返したかったけれど、口いっぱいにチーズの幸せな味が広がっていたのでやめておいた。
「そっちは? 欲しいものあるの?」
「欲しいもの、はない」
「含みのある言い方だね」
緑茶にそっと口をつける。快適に飲める温度まではまだ時間がかかりそうだ。
「イルミネーション、隣町でやってるじゃない? 毎年。あれ、観に行きたい」
「そっか」
脇腹をつつかれた。
「やり直し」
「は?」
「は? じゃなくて。返事、やり直して」
まっすぐ窓の外を見つめたまま、彼女の表情は伺い知れない。
「一緒に、行く?」
弾けては消える言葉達の中で、唯一残ったのがこれだった。
「ぎりぎりだけど、合格」
満足気に、彼女は合格を言い渡した。冬は始まったばかりで、約束はまだまだ遠い。
適温になったはずの緑茶の味が、何故か感じられなかった。
いつの間にか、帰り道を共有するようになった。正門から坂道をのぼって横断歩道を渡るまでの五分に満たない時間。
「フウね、いつか韓国に住みたい」
「韓国好きなの?」
「好き。韓国ってね……」
大抵はこんな感じで、彼女が好きなものや興味のあることについて話し、それに相槌を打つ。たまに相談事を持ちかけられ、誰にでも出来るようなアドバイスを送ったりすることもあった。
「……それでね、韓国語の本買いに行きたいんだけど、一緒に行こ?」
歩行者信号が青に切り替わるのを待っている時だった。いつもはここを渡ってまた明日と手を振るのだけれど、丁度欲しい本もある。
「いいよ。付き合う」
信号が切り替わって渡ろうとすると、袖を掴まれた。
「そっちじゃなくて、ショッピングモールの方に行きたい」
ショッピングモールは帰り道とは真反対にある。ここまで歩いてきたのだから、横断歩道を渡った先にあるレンタルショップの方に行くのかと思っていた。
「沢山あった方が見てて楽しいから」
踵を返してモールへと向かう。道中は彼女に流されるまま寄り道を繰り返して、十五分で着くところを倍近くの時間がかかった。
モール内の書店に着いてからは、新作小説のコーナーをさっと見渡した後に語学書のコーナーへと移った。表紙のイラストが可愛いとかカバーの手触りが良いとか、内容よりはその本自体を好きになれるかどうかを重視する選び方が、とても彼女らしい感じがした。
「帰り道って、なんで短いんだろ」
無事に買い物を終えて、いつもの帰り道まで戻ってきた時だった。
「歩いても歩いても前に進まない道があったらいいのに」
「怖い話だ」
「怪談は無理。でもお化けと仲良くなってみたい。数学のテスト中にこっそり答え教えてもらう」
「悪い話だ」
折悪しく、互いの帰路を分ける横断歩道に捕まってしまう。
「寄り道したらいいんじゃない?」
歩行者信号をじっと見つめる。
「今日みたいに。」
続きはあった。けれど言葉は上手く出てきてくれなかった。歯科医院の看板のキャラクターが自分を見ている気がした。
信号が青に変わる。二人は止まったままで、左折を試みるドライバーが訝しげな視線を投げかける。
「する。寄り道、たくさんする」
唸りを上げて車が左折していき、歩行者信号が赤に切り替わる。
近くにいるのに遠回りして。帰り道は、まだ終わりそうになかった。
きっかけはフランス語の講義だった。言葉を学ぶ以上話し相手は必要であり、講義の場合その役割は隣の席にいる人が担う。友人や知人同士でそれぞれがペアを作る中、余り者にいたのがノンさんだった。
フランス語では肯定を「ウィ」、否定を「ノン」という。それが名前を呼ばれている様で恥ずかしいのだとノンさんは語った。面白がってあらゆる質問に否定で返した時から、少しずつ打ち解けていった。
ある日の講義で、三十分ほどのショートフィルムを鑑賞して感想を述べ合う課題が出た。フランスのパリを舞台にしたロマンスで、それなりの面白さだった。
講義の後半で、ビズが話題になった。頬と頬を寄せあってリップ音を軽く鳴らすフランス式の挨拶で、親しい間柄で行われるらしい。文化や風習という言葉をこれほど意識したのは初めてかもしれない。
講義が終わって昼は何にしようかと考えていた折、ノンさんから図書館へ行かないかと誘われた。特に断る理由もないので了承する。その意図するところが何なのか、気になるのももちろんあった。
「借りたい本でもあるんですか?」
食堂に向かって行軍する人々の流れに逆らって、図書館へと歩いていく。木についた新緑が眩しく、風が初夏の香りを運ぶ。ノンさんの長い髪が吹かれて揺れる。
「あの、少し、気になる本があって」
それから会話はなく、ただ歩幅を合わせて黙々と歩く。
五分ほど歩き、図書館に辿り着いた。学生証を機械に読み込ませて中に入れば、館内はいつもより閑散としていた。腹が減っては勉学にも勤しめない。
検索コーナーへと向かうものだと思っていたけれど、ノンさんは地下一階にある、年代に分けられた古書の棚へと向かった。階段は金属製で、丁寧に降りても音が反響した。
ほとんどの人間が、目的がなければ古書に用はないらしい。フロアには誰もいないようで、ノンさんを追いかけてぐんぐんと奥まった場所へ行く。結局、フロアの隅っこにある棚の前で足は止まった。
「ここら辺に、気になる本があるんですか?」
棚に置かれた本を一冊手に取る。かなり古い材質の装丁が手に馴染まず、ぱらぱらと捲ると中は漢字だらけで読める箇所が一つも見当たらない。
「あの、ごめんなさい」
謝罪される事柄に心当たりがなかったので、首を傾げることにした。
「その、気になる本があるというのは、嘘、なんです」
「なるほど?」
本を棚に戻す。
「その、ビズ、してくれませんか」
一瞬、ビズという単語が処理されずに脳を通過していく。再試行したインターネットみたいに、遅れて理解がやってくる。
「したいんですか?」
小さな頷きが返ってくる。
「いいなって、思って」
「分かりました。やりましょう」
戸惑っているノンさんの肩を優しく掴んで頬を寄せる。リップ音というよりかはタンギングといった感じの音が鳴った。
「どうでした?」
「映画の、ヒロインになった気分です」
ビズされた方の頬を両手で押さえながら、ノンさんは恥ずかしそうにはにかんだ。
用件は本当にそれだけだったようで、図書館はその本分を果たすことなく終わった。せっかくだからと一緒に昼食をとることになり、お礼ですとりんごジュースを奢ってもらった。
「別に断らないんで、今度何かする時は普通に誘ってください」
食堂のおばちゃん特製のカレーを雑に頬張る。
「それなら、もう一つ、あるんですけど」
「何ですか?」
バッグをごそごそと漁り、ノンさんはスマホを取り出した。
「連絡先、交換したいです」
「そういえば、してませんでしたね」
メッセージアプリを開いて、QRコードを読み込ませる。ビズより先にやるべきでしたねという言葉は飲み込んだ。その代わりに一枚、隣で頬を撫でているノンさんを写真に収めて、『交換記念です』というメッセージと一緒に送信する。
『これからよろしくお願いします。』
律儀に読点のついた返信に、思わず笑みが溢れる。流石に今回ばかりは「ノン」とは言えなかった。
いつも浴びているシャワーの温度が少し温いなと感じた時、微熱があることを悟った。測ってみれば案の定、三十七.一度というなんとも言えない数字が出てきた。トーストも緑茶も問題なく喉を通ったけれど、親と相談した結果、大事を取って高校は欠席することになった。
制服からスウェットに着替え、共働きの親をそれぞれ見送る。平日の家に一人でいる違和感が、足元を少し揺らした。
せっかくの機会だと思いテレビを点けてみたけれど、朝の情報番組ばかりが流れていて男子高校生には退屈な内容だった。学校を休んで観るテレビは面白いと聞いていたのに、全くもって期待外れだ。テレビは音量を絞って流しっぱなしにしたまま、結局スマホを起動させる。
動画投稿アプリを惰性で流し見ていたけれど、面白かったのは一時間ほどだった。次第に時計が気になり始め、学校に行ってれば今はこれこれの授業を受けているとか、そういうことばかりが頭をよぎる。
これではいけないと思い、昼飯を作ることにした。どうせなら手間のかかるものをと考え、メニューは餃子に決まった。
足りない具材は近くのスーパーで買い足した。いつもみている街並みが心臓に牙を立てた感覚がした。
家に戻り、手洗いうがいを済ませてキッチンに立つ。スマホで調べた手順を拙く真似しながら餃子を作っていく。分量を間違い四十個を焼き終えたところで、時刻は十三時に迫っていた。
食べる前に片してしまおうとフライパンやらを洗っていると、食卓に置いていたスマホに着信があった。
『もしもーし。生きてる?』
着信は級友の一人からだった。ビデオ通話になっていて、そいつだけではなく何人かが思い思いの面白いポーズを取っている。向こうも丁度、昼休憩に入ったようだ。
「スマホ取られるぞ」
『大丈夫、弁当箱で隠してっから』
大丈夫というなら止めはしない。サプライズ的な嬉しさを感じたのも確かだった。
食卓に餃子と白飯を、奴らは机に弁当を並べ、いただきますを合唱する。通話によるズレはご愛嬌といったところだ。あとは各々の昼ご飯を食べながら、ズル休みに違いないとか暇すぎて餃子を作り始めたとか、とてもくだらない話をした。
昼休みも終盤に差し掛かった頃、運悪く担任が教室を訪ねてきた。いかに隠しているとはいえ違和感は残る。スマホを使っているのがバレてしまった。
何事かが遠く知らないところで言い争われ、先生が『ここに俺も映ってるのか?』と画面を指さした。
「見えてますよー」
声をかけると、先生は嬉しそうに手を振った。
『ちゃんと水分取ってるかー?』
教室中に響き渡る大きな声で訊かれる。
「取ってますよ。身体は全然平気です」
先生は『そうかそうか』と鷹揚に頷いた。
『早く治して学校ちゃんと来いよ』
「明日はちゃんと行きます」
嵐のように訪れ、嵐のように先生は去っていった。去り際に『次は普通に没収するから、これが普通だと思うなよ?』と釘を刺すのも忘れなかった。
『じゃ、そろそろ昼休み終わるから切るな』
「おう、ありがと」
通話が終わってからは、時間割に合わせてその教科の勉強をした。いつもは退屈なテキストが案外面白く、スマホを触っているより胸が踊った。
翌日の朝、浴びたシャワーは肌に温かく刺さり、制服の袖に勢いよく腕を通した。心なしか、昨日着たそれよりも軽くなっていた気がした。