きっかけはフランス語の講義だった。言葉を学ぶ以上話し相手は必要であり、講義の場合その役割は隣の席にいる人が担う。友人や知人同士でそれぞれがペアを作る中、余り者にいたのがノンさんだった。
フランス語では肯定を「ウィ」、否定を「ノン」という。それが名前を呼ばれている様で恥ずかしいのだとノンさんは語った。面白がってあらゆる質問に否定で返した時から、少しずつ打ち解けていった。
ある日の講義で、三十分ほどのショートフィルムを鑑賞して感想を述べ合う課題が出た。フランスのパリを舞台にしたロマンスで、それなりの面白さだった。
講義の後半で、ビズが話題になった。頬と頬を寄せあってリップ音を軽く鳴らすフランス式の挨拶で、親しい間柄で行われるらしい。文化や風習という言葉をこれほど意識したのは初めてかもしれない。
講義が終わって昼は何にしようかと考えていた折、ノンさんから図書館へ行かないかと誘われた。特に断る理由もないので了承する。その意図するところが何なのか、気になるのももちろんあった。
「借りたい本でもあるんですか?」
食堂に向かって行軍する人々の流れに逆らって、図書館へと歩いていく。木についた新緑が眩しく、風が初夏の香りを運ぶ。ノンさんの長い髪が吹かれて揺れる。
「あの、少し、気になる本があって」
それから会話はなく、ただ歩幅を合わせて黙々と歩く。
五分ほど歩き、図書館に辿り着いた。学生証を機械に読み込ませて中に入れば、館内はいつもより閑散としていた。腹が減っては勉学にも勤しめない。
検索コーナーへと向かうものだと思っていたけれど、ノンさんは地下一階にある、年代に分けられた古書の棚へと向かった。階段は金属製で、丁寧に降りても音が反響した。
ほとんどの人間が、目的がなければ古書に用はないらしい。フロアには誰もいないようで、ノンさんを追いかけてぐんぐんと奥まった場所へ行く。結局、フロアの隅っこにある棚の前で足は止まった。
「ここら辺に、気になる本があるんですか?」
棚に置かれた本を一冊手に取る。かなり古い材質の装丁が手に馴染まず、ぱらぱらと捲ると中は漢字だらけで読める箇所が一つも見当たらない。
「あの、ごめんなさい」
謝罪される事柄に心当たりがなかったので、首を傾げることにした。
「その、気になる本があるというのは、嘘、なんです」
「なるほど?」
本を棚に戻す。
「その、ビズ、してくれませんか」
一瞬、ビズという単語が処理されずに脳を通過していく。再試行したインターネットみたいに、遅れて理解がやってくる。
「したいんですか?」
小さな頷きが返ってくる。
「いいなって、思って」
「分かりました。やりましょう」
戸惑っているノンさんの肩を優しく掴んで頬を寄せる。リップ音というよりかはタンギングといった感じの音が鳴った。
「どうでした?」
「映画の、ヒロインになった気分です」
ビズされた方の頬を両手で押さえながら、ノンさんは恥ずかしそうにはにかんだ。
用件は本当にそれだけだったようで、図書館はその本分を果たすことなく終わった。せっかくだからと一緒に昼食をとることになり、お礼ですとりんごジュースを奢ってもらった。
「別に断らないんで、今度何かする時は普通に誘ってください」
食堂のおばちゃん特製のカレーを雑に頬張る。
「それなら、もう一つ、あるんですけど」
「何ですか?」
バッグをごそごそと漁り、ノンさんはスマホを取り出した。
「連絡先、交換したいです」
「そういえば、してませんでしたね」
メッセージアプリを開いて、QRコードを読み込ませる。ビズより先にやるべきでしたねという言葉は飲み込んだ。その代わりに一枚、隣で頬を撫でているノンさんを写真に収めて、『交換記念です』というメッセージと一緒に送信する。
『これからよろしくお願いします。』
律儀に読点のついた返信に、思わず笑みが溢れる。流石に今回ばかりは「ノン」とは言えなかった。
11/27/2023, 10:31:06 PM