受験勉強に身が入らないのはきっと暑さのせいだ。
母方の祖父母が住む田舎に帰省して三日目、早くも都会の喧騒が恋しくなってしまう。そこかしこで鳴いている蝉に疎ましさすら感じる中で集中力が持つはずもなく、意識は自然と散り散りになっていく。
蝉の鳴き声や古びた扇風機の首が軋む音、風に吹かれた草木が擦れる音の中に、微かに人の声が混じった気がした。勉強を中断する言い訳としては及第点ぐらいだろう。
スマホと財布を無造作にポケットへ突っ込み、縁側にあったサンダルをひっかける。
「あんた勉強は?」
庭で作業をしていた母に見つかってしまう。
「ちょっと休憩。散歩でもしてくるよ」
「陽がまだ高いから、帽子被ったら?」
「いや、大丈夫」
いってきますと残してから玄関をくぐった。
二、三分ほど歩くと、声の主はすぐに見つかった。畑を挟んで家の裏側にある広場で、少女が泣いていたのだ。
高いネットフェンスに囲まれた広場の真ん中、麦わら帽子のつばを両手でぎゅっと握りしめたその子は、強い陽射しの下、何に構うことなく大きな声で泣きじゃくっていた。元は真っ白であっただろうワンピースが膝辺りから汚れていていたたまれない。
気づけばその子に駆け寄っていた。
「大丈夫? どうしたの?」
少女は初め戸惑っていたけれど、やがて一生懸命に説明を始めた。嗚咽混じりの説明はあちこち飛んで要領を得なかったものの、母親とはぐれたこととビー玉を失くしたことは、なんとか理解出来た。
意外に力強く少女に手を引っ張られて、広場の隅にある草むらの方へ案内される。ビー玉探検隊にどうやら抜擢されたらしい。
草をかき分け、モンシロチョウと戯れながらしばらく探したものの、お目当てのビー玉は見つからなかった。これだけの労力があるなら帽子を被るべきだった。
「喉乾いたんじゃない?」
土をほじくり返していた少女に聞く。「かわいた!」と元気の良い返事があった。
少女の手を引いて、広場に付設した公衆トイレへと連れていく。爪の間に入った土汚れを落とし、出来る限り手を綺麗にしてから近くにある古い商店へと向かった。
「麦わら帽子、被った方がいいんじゃない?」
商店への道すがら、ふと聞いてみる。少女は麦わら帽子を首にかけていた。
「帽子きらい」
「でも、被らないと熱中症になっちゃうよ」
自分の事は棚に上げた。
「おかーさんが被らなくていいって言ってた。持ってればいいって」
間延びした『お母さん』に微笑ましくなる。母親にそう言われたのなら、注意されるいわれもない。
商店は去年と変わらず、風化して読めなくなった看板が掲げられていた。無愛想な顔をしたおじいちゃん店主に迎えられる。
田舎のコミュニティは狭い。ここも例外ではなく、故に店主ならこの子について知っていると踏んでいたけれど、空振りだったようだ。諦めて飲み物を吟味する。
「これ、ビー玉のやつ!」
少女が指さしたのはラムネだった。
「じゃあ、これにしよっか」
扉を開ける時にひんやりと気持ちいい。ラムネ瓶を二本手に取って、好きな駄菓子を選ばせてカウンターへと置く。
袋の中で涼し気な音を立てるラムネたちに気を遣いながら広場へと戻ってくる。
ゲートボールを楽しむ老人達のために作られた、打ちっぱなしのコンクリートで出来たベンチへと腰掛ける。無機質な冷たさがお尻に心地よく、日陰に入れるのも有難かった。
二人であくせくしながらラムネを開ける。栓になっていたビー玉が勢いよく落下して、代わりにラムネが溢れていく。少女には少し量があったようで、駄菓子を食んではちびちびと飲んでいた。
ベタつきの残らないよう公衆トイレの方で瓶や手を洗い、中からビー玉を救出する。それらの違いは正直分からなかったけれど、せがまれたので互いのビー玉を交換した。
疲れたのだろう、少女は程なくして眠ってしまった。太腿へと預けられた重さがくすぐったかった。
何気なく、ベンチに置かれた麦わら帽子を見ると、内側に小さく何かが書かれていた。それはハイフンで三つに区切られた十一桁の数字の羅列、つまりは電話番号だった。
「なるほど」
ポケットからスマホを取り出して、あまり使わないキーパッドを起動する。二回目で繋がった。
「もしもし、突然すみません。娘さんの麦わら帽子に書かれていた番号が、もしかしたら親御さんのものではないかと思って」
一息に説明を終えてしまう。疑念から安心に変わった女性の声と、広場にいることをやり取りする。
十分とかからず、母親は広場へやってきた。
丁重すぎるほどにお礼の言葉を述べて、母親は少女を抱きかかえた。少女を起こしてお礼をさせようとしたのは、悪い気がして止めた。
祖父母の家に帰ると案の定「遅かったね」と言われた。事情を説明するのも面倒だったので軽く受け流し、さっとシャワーを浴びる。
部屋に戻ると、開きっぱなしのテキストの頁が風に煽られ進んでいた。ビー玉を筆箱へとそっと入れる。
蝉の声は、もう疎ましくなかった。
「静電気ばちってさせるのやりたい」
助手席に座っていた先輩が突然そう言い出した。詳しく聞けば、昼間に観ていたテレビ番組で特集が組まれていたらしい。
「一人でやってくださいよ」
闇に浮かぶ信号を注視しながらハンドルを切る。特に目的地のないドライブだから、どの道を通るかでいちいち悩んでしまう。深夜一時を回っているので車通りが少ないのが、唯一ありがたいことだ。
「えー、やろうよ」
「やりません。意外と痛いんですよあれ」
忌々しいことに、十一月も半ばを過ぎて本格的な冬が到来しつつある。静電気とは長い付き合いだけれど、一向に仲良くなれる日は来ない。
隣から聞きなれない音がし始めたのでちらと見やると、先輩はセーターの裾を掌まで引っ張りあげて、懸命に左右の手を擦っていた。摩擦によって帯電させようとしているのだろう。
「セーター伸びますよ」
「それは困る」
すぐさま手を止めて、先輩はセーターに謝罪をした。そんな謝罪ではセーターも納得しないだろうという実にラフなものだったけれど、それは当人同士の問題なので黙っておく。
「新しいやつですか」
黄色は止まれだ。段階に分けてブレーキを踏んでいく。車が停止するまで返事がないので不安になり隣を見てみると、先輩もこちらをまじまじと見ていた。
「何の話?」
「セーターの話です。去年は見たことないやつだなと思って」
風船から空気が抜けた時のような返事があった。
「これね。実は君のセーター」
先輩は何故か助手席の窓に向かって話しだした。
「先輩が着てるじゃないですか」
「正確には、君のクリスマスプレゼントになる予定だったやつ」
先輩の着ているセーターを改めて見る。
「そのふわふわモコモコがですか?」
「文句あるのか」
「特には」
先輩が前方を指さした。見ると信号が変わっている。少し慌てがちにアクセルを踏み込み、車はのっそりと走り出した。
「ほら、あるでしょ。写真で見るとめちゃくちゃ美味しそうなのに、いざ手元に運ばれてくるといまいちなパフェとか」
実体験のありそうな例え話だ。
「作ってみたはいいものの、イメージより小さいのが出来ちゃったって感じ」
感じも何も、そのまま全て言った気がする。
言われてみれば、男性向けファッションにありそうなモノトーンの配色をしている。
「似合ってますよ」
「取ってつけたように褒めるな。褒めるならちゃんとやって」
「ふわふわモコモコが、普段サバサバした感じとのギャップ萌えでとても良いです」
肘掛けに乗せていた左腕に、先輩が自分の腕を擦り始めた。
「悔しいから静電気を貯めてやる」
「やめてください」
「観念しやがれ」
言いながら、先輩が手を強く握ってくる。静電気はおろか、特に何も起きなかった。
「手、暖かいね」
「ひんやりしてて鳥肌立ちました」
「よし、そこのコンビニに入れ。でこぴんしてやる」
特に逆らう意味も無かったので素直に従う。広いスペースがあると駐車が楽だ。ヘッドライトを消して、エンジンを切る。
「何か買いますか?」
「暖かい飲み物」
先輩がドアを閉めたのを確認して、運転席の扉を閉めようとした時、中指に一筋の痛みが走った。
「いてっ」
反射的に声が出てしまう。別に痛みがなくなるわけじゃないのに、意味もなく手を振った。
「天罰が当たった」
「別に悪いことしてないんですけど?」
先輩が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「仕方ないからでこぴんは許そう。代わりにココア奢って」
「『許す』って、難しいですね」
「簡単だよ。たったの二百円だし」
車の鍵を閉めてから、どちらともなく手を繋ぐ。残念ながら、静電気は流れなかった。