なのか

Open App

へんてこな講義を取ってしまったと後悔しても、単位は必要なので後戻りは出来なかった。
先々週は引き寄せの法則について学び、先週はテスラとエジソンの電力を巡る争いについて学んだ。今週は何が飛び出るのだろうと思ったら、パーソナルスペースについてだった。
講義の半ば、恋人がいない人という条件の元、教授に指名されて黒板の前へと出ていく。自分の他にもう一人、大原という女学生が立候補して前に出てきた。哀れな単位難民なのだろう。
大原さんと三メートル程の距離で向かい合うよう指示される。向かい合う二人をよそに教授はパーソナルスペースの説明を続けた。簡単に言うと、他者に近づかれると不快になるスペースのことらしい。
「五十センチずつですか?」
教授に確認する。大原さんに少しずつ近づいていき、不快だと言われるまでそれを繰り返すことで、パーソナルスペースの大きさを測ろうということらしい。酷い話だ。
まず一歩目。
「大丈夫です」
二歩目。
「大丈夫です」
アクションを起こす度に無責任にざわめく教室を無視しながら、三、四歩目をクリアする。
五歩目はかなり勇気が必要だった。大原さんとの距離は小さい前へならえ程度に縮まり、どちらかのバランスが前へ傾けばもつれ合って倒れてしまいそうだった。
「大丈夫です」
教室から歓声が上がる。完全に見せ物気分だ。
「あの、普通にこっちが照れるんですけど」
大原さんの視線から逃れるように身を捩らせて教授に申し出たけれど、男側の意見は聞き入れないということで続行になった。実に時代錯誤だ。
五十センチ縮めると触れてしまうので、もう半分だけ前に出ることになった。靴一足分を目安に慎重に前へ踏み出す。
自然と息が詰まるような距離感。黒板の方へ視線をずらして空気を求める。シャンプーなのか香水なのか分からないけれど、微かに爽やかな香りがした。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないです!」
両手を上げてバックステップの要領で後退りする。教室は様々な種類の笑い声がこだまして、教授の拍手がトリを飾った。
その後は、肩が触れてしまいそうな距離で横並びにさせられて、正面と横ではパーソナルスペースに差が出るのだと説明がされた。
災難な講義だったけれど、終わってしまえば諦めもつく。周りに何かを言われる前にと思い、さっと机の上を片して教室を後にする。
「あの、すみませーん」
とりあえずご飯にしようと食堂への道を歩いていると、後ろから声をかけられる。さっきの講義で何度も聞いたので、声の主には覚えがあった。
振り返ると、大原さんが息を切らせて近づいてくるところだった。
「あの、食堂でご飯食べるんですか?」
「そうですけど」
「よかった。よければ、一緒してもいいですか?」
何がよかったのかは分からないけれど、自分のやることは特に変わらないので了承した。
「講義の出席日数足りてないの?」
食堂で並んでいる間、興味本位で聞いてみる。
「どうしてですか?」
「いや、あんなのに立候補してたから。余程評価が足りてないのかと」
よもぎ色のトレイを二人分取って、一枚を大原さんへと流す。大原さんは小さく頭を下げて、賞状みたいに恭しく受け取った。
「あー、そっか。そうですね」
ゆるやかな空気の返事は、宙を彷徨って消えた。
「大変だね、お互い」
フルーツとサラダ、ネギトロ丼を載っけて会計を済ませる。中心は幾つかのグループが大挙して騒がしかったので、人の寄り付かない端っこのカウンター席に二人並んで座る。
「そうですね。これから大変そうです」
大変そうだという言葉のわりに、大原さんは微笑みを絶やさない。
いただきますと手を合わせてから、しばらくは黙々とご飯を頬張る。
「そういえば、講義の時『大丈夫じゃないです』とか言ってごめん。こっちも頑張ってたから出ちゃっただけで。別に嫌だったわけじゃないです」
隣に存在を感じるのが面映ゆくて、そっぽを向いてしまう。
「私の方こそ、ごめんなさい。面白くって、つい頑張っちゃいました」
くすぐったい声だった。
Tシャツの裾を引っ張られて、彼女の方を見やる。こちら側にぐっと彼女の身体が傾けられて、あの時と同じような香りがした。
「今も、結構頑張ってるんですよ?」
何も理解していないのに「なるほど?」と相槌を打った。触れてはない。まだ、触れてはいないだけの距離で、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。

12/1/2023, 3:54:58 PM