なのか

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二十歳になってから約四年が過ぎた。目の前の出来事をなんとか片す毎日が繋がって、いつの間にか大人になっていた。大学を辞めてから三年のフリーター期間のち、塾講師という職にありついた。
面白味のない機械的な翻訳と英作文を繰り返して、生徒からのくだらない質問をいなしながら今日も仕事は終わった。
「ねぇ、塾の先生やってんの?」
仕事終わり、愛車の停まっている駐車場に向かっているときのことだ。走る車も少なくなってきた夜、信号機の淡い光源に照らされて歩道に立っていた彼女はそう言った。美しい声だった。
返す言葉を持ち合わせずに戸惑っていると、彼女はおもむろに塾の方を指さした。
「あそこから出てきた」
「はぁ、何か用ですか?」
一方的な彼女の言動に辟易して、思わず返事をしてしまった。無視してしまうのが正解だと思っているのに、気付けば言葉が出ていた。
受け入れられたと思ったのだろうか、彼女はちゃちなサンダルをパタパタと鳴らしながらこちらに歩いてきた。
「いや、別に用はないんだけど。暇だったから話しかけた」
吹く風が温くて嫌気がした。
「話すことはないんで。それじゃ」
ボタン式のキーで解錠をすると、慌てたように足音が早くなった。
「待って待って。あたし未成年じゃないよ? ほら」
言いながら、財布から取り出したのは身分証明書だった。単に億劫で恐ろしいだけなのだけれど、彼女は大人のようだ。まだ成り立てではあったけれど。
「大人なら節度は守ってください」
きっぱりと言い放つと、彼女は言いかけていた言葉を飲み込んで首肯した。その姿に何故か揺さぶられた。
「知らない人にだる絡みするのには、理由があるんですよね?」
「話してもいいの?」
「……十分くらいなら」
彼女はすらすらと話し始めた。大学受験に失敗したこと、浪人のプレッシャーから逃げるようにギャンブルにハマったこと、家に居づらくなってしまったこと。全部自業自得なんだけどね。と痛みのある笑顔を浮かべながら付け足して、彼女は話を終えた。
「それで、道行く人に話しかけてると」
「話しかけるのは今日が初めてだよ」
「それはラッキーな話だ」
とんでもなくというより、とんでもな幸運だった。
「偶然じゃないよ。近くを通る度に見てたから」
「どうして?」
もしこの瞬間に戻れるなら、どうしてなどと軽はずみには聞かなかった。文字通りそれは過去のことであって、ifによって導かれる過程もまた、起こり得ないことではあるけれど。
「あたしももっと勉強してたら、違ったのかなって」
さらりと言葉が流れたのが、逆に沈黙を際立たせた。
教室の光に後押しされるように帰路へ着く子供たちを、彼女はどんな気持ちで眺めていたのだろうか。
「もう十分経ったね」
ありがとと歯切れよくお礼を言って、彼女は踵を返した。その細い背中に何を言おうか迷っている自分に驚きながら、独り歩きする玩具の兵隊みたいに、言葉は前に進んでいた。
「フリーター経験があるから分かるけど、肩書きがないっていうのは想像してるより辛い。だから、やることないなら取り敢えず働いてた方がいいぞ。働きながら、余裕を作って、それで、次を考えればいい」
そんな計画性なんて持ち合わせていない人間のくせに、それっぽいだけの助言を贈った。
「分かった。働いてみる」
あっさりとそう言って、彼女は今度こそ何処かへと去っていった。たなびく不安のほつれだけを一本残して、車へと乗る。多分この記憶もまた、積み重なって繋がっていく日々の中で過去形へなっていくのだろうと思いながら、アクセルを踏んだ。

4/28/2024, 4:35:44 PM