"誰もがみんな"
人は誰しも、他人に見られたくない、知られたくない自分がいる。
そんな自分を知ったら、幻滅されるかもしれない、軽蔑されるかもしれない、嫌われるかもしれないという周りの人の評価への恐れ。《普段の自分》と《周りのイメージの中の自分》の相当な乖離。色々な理由がある。
俺の理由は、《周りを巻き込みたくない》。
痛い思いや辛い思い、苦しい思いをするのは俺だけでいい。
別に周りを信じてないとか、周りを過小評価してるとかじゃない。信じて動くところが多々あるし、十分すぎる程評価しているつもりだ。
それ故に『こいつならこう動くだろうな』『あいつならこう言いそうだ』と、ある程度予測ができる。その末が、そいつが傷付くような結果の時。
傷付くところを見たくないから、あからさまに、『自分はどうなってもいい』『どう思われてもいい』『恨まれてもいい』と手段を選ばずに、突き放す。
戦うのは、抗うのは、俺だけでいい。
"花束"
この前治した患者が来て、小さな長方形の箱を渡された。その人曰く、この小さな箱は《フラワーボックス》らしい。
リボンに括り付けられていた二つ折りのカードを取り出して開くと、万年筆で書いたような手書き風のフォントで【Thank you very much.】というメッセージが書かれていた。
──「いい」って言ったのに……律儀だな。けど、男に花敷き詰めた箱を贈るって……。俺が女だったら、もっとマシな反応できただろうな……。
そのメッセージの下に細字の活字で、説明が書かれている。ドライフラワーを詰めたフラワーボックスで、手入れする必要は無いらしい。飾り方の例も幾つか書かれている。
診察室に戻って、箱をデスクに置いて着席する。
──まぁ、中身は単純に気になるしな。
リボンの端を摘んで引っ張って解き、蓋を開ける。
対角線を境界にして二つの色の花が分けられていて、上部に青色の花が一種類と下部に緑色の花が二種類、小さな箱の中にたっぷり入っていた。
まるで、ラッピングを飛び出したせっかちな花束だ。
入っている花の名前も色別でカードに書かれていて、緑色の花は薔薇とカーネーション、青色の花は霞草と書かれている。
花の色と中身のレイアウトが、ゲームエリアを展開した時に出てくるドラム缶を彷彿とさせる。何故この花と色のチョイスなのか不思議だが。
けれど、とても綺麗なので、蓋を箱の底に重ねて、パソコンのディスプレイの横に立てて、ここに来た患者達にも見えるように角度を調整する。
「……こんくらいか」
感覚で良い感じの角度にすると、出入り口に立って見え方を確認する。
「……ん」
と、声を漏らして小さく頷く。
──花を飾ると、部屋全体が明るく見える。『男が花なんて……』って思ってたけど、性別関係なく花を見ると気分が明るくなる。
「さてと、ベッドメイキングの続き」
その場でくるりと方向を変えて廊下に出ると、診察室の向かいの部屋に行き、患者用ベッドの整頓の続きに取り掛かった。
"スマイル"
開院前、洗面所の鏡に向かって笑顔の練習をする。
口角をいつもの高さまで上げる。
「……」
周りから見れば微笑の高さ。だが体感では結構高くあげている。ここまでは大丈夫。そして更に口角を上げようと試みる。
五ミリほど上げる。
すると、口角周りの筋肉がプルプルと痙攣しはじめた。
「はぁ……」
すぐに口角を戻して、ため息を吐く。
──やっぱりダメか……。
「やっぱ俺なんかに笑顔は似合わねぇか」
鏡の中の自分に向かって小さく呟く。
小さく呟いた筈なのに、まるで反響して大きくなって耳に嫌に響き、それが反射して自分自身の心に強く突き刺さる。鏡の中の自分が、痛みに顔を歪ませる。
「みゃあ」
視線を落として足元を見ると、ハナが俺の足に前足をかけて立ちながら、俺の顔を覗き込んできた。
「なんだ、抱っこか?」
ハナを持ち上げて抱き込む。
「お前、この間測った時より重くなったな」
ハナの成長にしみじみ言うと、「むぅ」と今まで聞いた事の無い唸り声を漏らした。「悪ぃ悪ぃ」と背を撫でる。
「お前女の子だもんな。猫でも体重気になるもんな」
「みゃあん」
控え目な小さい声で返事をする。
すると急に首を伸ばして、俺の口角辺りを舐め始めた。
「うおっ、ちょ、やめ……」
ふと、ハナと出会った時の事を思い出す。
──あの時もこんな風に、同じところ舐められたっけ……。
やめろ、とハナの頭を撫でていると、不意に鏡が視界に入った。鏡の中の自分は、先程一人で練習していた時より口角を上げていた。
──俺、こんなに笑えるのか……。
鏡の中の自分に驚く。けどすぐに落ち込ませる。
──けど人前でこんな笑ったら不気味がられるか、変に心配されんのがオチだな……。そもそもハナのおかげなのが大きいし……。やっぱり補助がないと無理か……。
落胆しながらハナを床に下ろす。
「さて、お前はそろそろ部屋ん中に行く時間だぞ」
そう言って傍に置いていたハナのトイレを持つと「みゃあ」と鳴いて、先陣を切って居室に入っていく。それについて行き、机の下にトイレを置く。
「じゃ、行ってくる」
「みゃあん」
ハナの声を聞いて、居室の扉を閉めた。
"どこにも書けないこと"
誰かと関わったり、何かをしている時、胸の何処か片隅に原因も理由も不明の不安や焦りが湧いてくる。それを口にしようものなら、原因も理由も分からない不安が伝染するし、いらない不安も煽る事になる。
それと同時に、モヤモヤとした黒い感情が湧いてきたりする。
その正体を知りたいと思わなくは無いが、『その感情の名前を知りたくない』『《そんな感情を抱いている自分》など、誰にも知られたくないし、見られたくない』と拒絶して、自分を覆い隠すように、自分の感情に蓋をする。
それがいつか自分一人で抱えきれなくなって爆発して、最悪な形で知られる事になると知っている。頭では分かっている。
けれど、どんなに小さなものでも、自分の弱いところを見せたくない。もし見せたら、幻滅されるかもしれない。これまで築き上げてきたものが水の泡になってしまうかもしれない。そのせいで動きづらくなったら。これまでできていた事ができなくなったら。
それだけじゃない。誰かに言ったり、自分だけが見る日記などに記して、その感情を可視化できるようにしてしまったら、自分自身に幻滅し、乖離して、俺が俺で無くなるかもしれない。
そうなるのが怖くて、表に出さず知らないフリをする。
それが良くない事なのは分かってる。けれど、言語化したくない。そんな自分を見たくない。
だから隠し続ける。秘め続ける。
誰になんと言われようとも。
"時計の針"
明日の準備を済ませると「んー……っ」と伸びをし、顔を上げて診察室の壁掛け時計を見る。
時刻は十一時五十九分と、秒針は十一十二のちょうど間の所を指している。もうすぐで零時になる。
カチ、カチ、カチ、カチ、
カチ
秒針、短針、長針が重なり合う。そしてすぐに秒針は動いて回り出す。
何かに弾かれたかのように、電源を落としたパソコンの黒いモニターを見る。
そこに写る自分自身と後ろにある棚やファイル等があるだけで、それ以外は何もない。
──なんで俺……今、モニターを見たんだ?
モニターに写る自分を見つめながら、モニターに写る自分に心の中で疑問をぶつける。
──あの感じ、まるで条件反射のようだった。一体何故……?何が条件となった?恐らく、見ていた時計だろう。けれど、それで何故あの行動になる……?
じっ、とモニターに写る自分自身を見つめながら悶々と考える。
「みゃあ」
「うおっ!?」
いつの間にかデスクの上に乗っていたハナに急に声をかけられ、思わず素っ頓狂な声を上げ飛び退く。その声にハナの身体がピクリと跳ねる。
「あ……、脅かして悪ぃ……」
ハナの頭を撫でる。気持ち良さそうに目を閉じて、頭を擦り付けてきた。
──まぁいい。考えても仕方ない。分かったところで、どうにかなる訳ではあるまいし。
考えるのを止め、ハナを抱き上げ「デスクの上に乗るな」と叱る。分かったのかは分からないが、「みぃ」と声を上げたので、理解したと思う事にする。診察室を出て居室に向かった。