"視線の先には"
ふと隣を見ると、ハーネスを着けたハナと戯れながら夕焼け空を眺める大我がいた。
穏やかな優しい微笑みを浮かべており、まるで母性が溢れているような、柔らかな雰囲気を纏っている。
夕焼け空と相まって、有名な絵画のような神秘さを感じた。
夕焼けの景色を受けた大きな目は橙色に瞬いて、とても美しい宝石のように輝いている。
「……」
しばらく見惚れていると、恥ずかしそうに目を細めながら、おずおずとこちらを向いた。
夕日に照らされているが、なんとなく頬が赤い。
「……なんだよ」
「いや、何でもない」
「そうかよ」
訝しげに顔を歪ませると、大我の腕の中に収まっているハナが、構って欲しそうにこちらに視線を向けながら「みゃあ」と鳴いた。近付いて頭を撫でてやると、気持ち良さそうに目を閉じて喉を鳴らしだした。
「綺麗だな」視線を上げて口に出す。
「そうだな」
視線を夕焼け空に向けて、同意の言葉を発した。
去年に引き続き、俺の『綺麗』は夕焼け空に向けていると勘違いして同意した。
いつか『綺麗』が自身に向けられている言葉だと気付く日が来るのだろうか。もし気付いたら、どんな反応をするのだろうか。
"私だけ"
ドライヤー後のハナを堪能できるのは俺だけ。
ドライヤーを終えたハナは普段以上にふわふわで、猫用シャンプーのいい匂いで、ハナの後頭部やお腹に顔を埋めると癒される。
飼い主の特権だから、教えないし教えたくない。
まぁ、こんな事してるなんて恥ずかしくて知られたくないからなんだけど。
"遠い日の記憶"
《あの頃》の記憶は、一日だって忘れた事無い。
酷く魘される事は無くなったけれど、見なくなった訳では無い。
忘れる事を許されない。俺自身だって《あの頃》を忘れたくない。たとえ許されたとしても、だからって無かった事にしたくない。
《あの頃》の俺がいたから、今の俺がある。
喜びも悲しみも、怒りも、どんな過去であれ、色々なものと繋がり合いながら《今》になった。
どんな過去でも、俺の大切な過去。いつまでも覚えていたい過去。
誰になんと言われようとも、抱えていたい過去。
"空を見上げて心に浮かんだこと"
「いい天気だな」
「雨よりはいいが、暑い」
なんでほぼ無風なんだよ、と続ける。
中庭のベンチで横並びになって、お互い空を見上げながら言葉を交わす。
「あ」
空に浮かぶ一つの雲に目が止まり、思わず声が漏れる。
「なんだ?」
反応して、不思議そうに聞いてきた。
「いや、その……なんでも──」
ねぇ、と続けようとしたが、向けてくる回答を待つ純粋な目に声が詰まり、言葉が途切れる。
この目は答えるまで離してくれない目だ。
観念して、口を開く。
「……あの雲。湯船に浸かってる時のハナのだらけた格好にそっくりな形してんなって」
雲を指しながら説明する。
恥ずかしさで僅かに声が震えた。説明を終えた後、みるみる顔が熱くなってくる。
ちらりと横を見るとすぐ近くに綺麗な横顔があり、俺が指した雲を見つけると「あれか」と至近距離で呟いた。心臓が、トクン、と跳ねる。
「お前はあの雲の形で、入浴している時のハナの姿が浮かんだのか」
「……だからなんだよ」
「確か、形状から何を連想したかで心理を分析する性格診断法があると、前に聞いた事があったのを思い出してな」
「ふーん」そんなものがあるのか、と思いながら相槌を打つ。
「ただ『そんな方法がある』と聞いた事があるだけで、どのような診断法かまでは知らない」
「だろうな」
自分の専門外のものには殆ど興味を持たない。今はだいぶマシになったが昔はもっと極端だったから、存在だけ聞いて具体的な事までは耳に入れていないのは当然だと思った。それが言葉となって唇の隙間から漏れた。
言ってしまった、と咄嗟に片手で口を覆う。だが苦笑しながらこちらを向き「当然の感想だ。なんとも思わん」と、まるで昔の自分に呆れた表情を見せるように言ってきた。
「そろそろ時間だ。行くか」
腕を持ち上げ、その手首に巻かれた腕時計を覗き込みながら立ち上がった。
「ん、あぁ。もうこんな時間か」
俺も自分のスマホの時計を見ながら呟き立ち上がり、どちらからともなく歩き出した。
"終わりにしよう"
成功して、関係を終わらせるのは、俺の役目だと思ってる。
あの日告げられて、答えようにも、色々な理由が頭を駆け巡った。
了承するのはその後に続く言葉は何となく想像できた。俺のせいで周りからどう見られ言われるか分からない、怖い。
断るのは自分の心を殺す行為。そんな事をすれば見抜かれ、どうにかこうにか本音を引き摺り出そうとする。
どう答えるのが正解か分からず黙りこくっている俺の心を読んだかのように言われたのが、《条件》。
答えを言えずにいた俺の為に出してくれたものだから、その時が来たら、俺が終わりを告げる。