ミミッキュ

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1/21/2024, 11:46:53 AM

"特別な夜"

──〜……♪
──ここはこれで決まりだな。
 夕食を済ませた後。居室の机の上に楽譜ノートを広げ、アレンジの続きに取り掛かっていた。
 だいぶ出来上がってきていて、あとはもうアウトロのみになっている。イントロと殆ど似た旋律になっているので、イントロの部分を流用して逐一調整しながら楽譜に起こしている。
 この調子なら、ついに今日完成する。そうなったら、明日から合間を見ながら練習だ。
──〜……♪
 調整の為に再びフルートを手に取り、音を奏でる。冬の澄んだ空気の中演奏するのは、やはり気持ちが良い。
「みゃ〜」
 フルートの音に合わせて、ハナが合いの手を入れる。いつもと変わらない声色だが、伸びやかな鳴き声を披露する。
──これで確定。
 フルートを置いて、続きのアレンジに入る。曲時間にして、残りあと数秒。つまり、本当にもうすぐでアレンジ作業が終わる。
 だいぶ長かった。息継ぎも運指も、なるべく負担が少ないようにと調整を重ねながら進めてきたアレンジ作業が、ようやく終わりを告げる。
 ハナを迎え入れた直後から一ヶ月間くらいはバタついていて、全く手を付けられなかった為に、思ったより時間がかかってしまった。
──〜……♪
──違うな。ここはもう少し……。
 フルートを置いて、消しゴムを手に取り、その箇所の符号を消してシャーペンで書き直す。
 長い時間がかかったからこそ、今までにない《何か》がふつふつと湧き上がるような心地になっている。
──〜……♪
 そして再びフルートを手に取って、アウトロのラストの音を奏でる。最後の一音を鳴らすと、ゆっくりと口から離して息を吸う。
「……」
 開かれた楽譜ノートを見据える。
「終わった……」
 唇の隙間から、小さく声を漏らす。静寂に包まれた室内の空気を揺らす。
──終わった。ようやく。本当に。
 嬉しさに唇の端が僅かに上がる。
──さ、シャワー浴びてこよ。
 あまり喜びは出さない。けれど確かな《達成感》が身体中を迸っている。
 ベッドの上に乗っているハナを毛布で包む。
「大人しくしてろよ」
「みゃあん」
 まだ生後三ヶ月程の小さな身体が、ふわふわの暖かな毛布に包まれている。まるで、おくるみに包まれた赤ん坊のよう。
 これは、ハナと距離を離れる時にいつもしている事だ。飼い主の匂いが付いた物で包むと落ち着く、とケージを撤去する少し前、獣医に聞いてからやっているが、思った以上に効果がある。包んですぐ目を閉じて気持ち良さそうに喉を鳴らす。
 ハナに優しく微笑んで、バスタオルと着替えを持って居室を出た。

1/20/2024, 12:26:54 PM

"海の底"

 用事を済ませた帰り道。数メートル先に見覚えのある建物が見えた。
──前に飛彩と行ったカフェがある水族館だ。
 あの時はカフェが目当てで、水族館の動物達はカフェから見える程度の、ほんの一部しか見ていなかった。
──ちょっと見ていくか。
 お留守番中のハナに申し訳ないけど、カウンターで入場料を払い水族館の中に入る。
──帰ったらいつもよりいっぱい撫でてあげなきゃな……。
 中に入るとすぐ、ペンギンやアザラシの他、水深が浅い所に住む魚達だろう。淡い青の空間の中、元気にすいすいと泳いでいる。
──元気いっぱいだな。まるでおもちゃで遊んでる時のハナみたいだ。
 猫じゃらしや蹴りぐるみで遊んでいるハナの姿を思い出す。改めて目の前の魚達と重ねると、とてもよく似ていて、なんだか可笑しくて小さく控えめに笑って奥へと歩みを進める。
 奥に進むと、深海に住む魚達だろうか、先程より暗く、深い青で満たされた空間が広がっている。中の魚達は、先程の水槽の中の魚達と違い、ゆったりした動きで泳ぎ回っている。
──綺麗……。
 優雅に泳ぐ姿に、その言葉以外に相応しい言葉が思い浮かばない。
 ふと気がつく。魚達のように、この空間に来る前より歩みが遅くなっている。この空間の照明と相まって、まるで深いプールの底を歩いているような足取りだ。
──そろそろ帰ろう。これ以上はハナが怒って爪を立ててくる。
 爪切ったばかりだけど。
 その後は歩きながら横目に魚達を見ていって、出入り口から建物の外に出る。
──今度はゆっくり見たいな。久しぶりにカフェにも入りたい。あの時食べたティラミス美味しかったから、また食べたい。
 そう思いながら、早足で帰路に着いた。

1/19/2024, 1:47:07 PM

"君に会いたくて"

 早朝の散歩から帰ってきて、裏口の扉を閉め錠を下ろす。カチャ、と乾いた音が響くと「みゃ〜」とジャンパーの中のハナが鳴いた。
 そのまま居室へと向かい、ハナをジャンパーから出して水で満たされた皿の前に下ろす。
「ほら、水飲め」
 それから間もなく、ピチャピチャ、と音が聞こえた。
 一緒に早朝の散歩をするようになってから、帰宅してすぐ水を飲ませている。因みに水は、散歩に向かう前に水を水用の皿に入れて、ご飯と同じ場所に置いてからジャンパーを着てハナを中に入れて出ている。
 するとハナの身体がピクリと動いた。視線は正面玄関の方を向いている。
 その後すぐに、タタタ、と居室を出て廊下を曲がって行ってしまった。それは来客が来た時と似た反応だった。
──こんな朝早くに誰だ?
 遅れて正面玄関に向かう。廊下の突き当たりにハナが立ち止まって廊下を曲がって消えて、その数秒後に声がして、その声に「みゃあ」と鳴いて挨拶をした。
 少し距離がある上に閉ざされた扉の向こうからの声。普通の人なら《誰か》までは特定するのは難しい。けれど俺は《誰か》すぐに分かった。
 早足になるのを何とか抑えてたどり着き、正面玄関の錠を外して扉を開ける。
「どうした、朝っぱらに」
「朝早くに済まない」
 飛彩は申し訳なさそうな声色で謝ってきた。
「別にいい。……で、急な調べもんの依頼か?」
 いつもの調子で問う。
──まさかこんな朝早くに会えるなんて……っ。
 と声が聞こえた時から思っていたし今でも昂っているが、表に出さぬよう必死に取り繕う。
 ふと飛彩の足元を見ると、ハナが飛彩の足に擦り寄っている。飛彩は「やめろ」と困った声色でハナの頭を撫でている。だが頬を擦り付けるのを止める気配が全くない。そんなハナを黙って見つめる。
「……」
──ずるい。俺だって、そうしたいのに……。
 そうは思うが、早朝な上に飛彩の身なりは明らかに出勤前で、そもそも二人きりでもそんなに分かり易く甘えた事をした事も無いので、実際にはできるはずもなく。嫉妬心で黒い感情が渦巻いているのを、何とか抑え込む為に目を閉じる。
──まさか猫相手に嫉妬する日が来るとは。結構嫉妬深いのかもしれない。
 自分を落ち着かせる為、バレないように静かに大きく息を吐く。
「いや、そうではなく……。ただ予定より早く支度が済んでしまって。貴方に会ってから出勤しようと……」
 そう言い切って再び足元のハナに「やめてくれ」とハナの頭を撫でる。
──……ん?今、なん……。
 一瞬少しパニックになる。落ち着いて先程の言葉を反芻する。
 すると、みるみるうちに自身の耳が熱くなっていった。こういう時程『髪に覆われてて良かった』と思う事は無い。
「そうか」
 恥ずかしさで震えそうになるのを必死に抑えて短く答える。
 正直、さっきから開いた扉から入ってくる風に若干震えていた。だが今は、先程の言葉のせいで熱くなった耳を撫でる風が逆に有難い。
「では、そろそろ行く。……会えて良かった」
 柔らかな笑みを浮かべながら言う。
「お……」
 思わず素っ頓狂な声を漏らす。
──心臓に悪い……っ!
 そんな声を出した俺に、首を傾げながら不思議そうな顔で見てくる。恥ずかしさに見てられなくて、咄嗟に顔を逸らす。
「おう、そうか。……なら早く行ってこい」
 我ながら無愛想極まりない言葉を発する。素直じゃない自分に嫌気が差してくる。
「あぁ。行ってくる」
 そう言って身を翻して、歩いていく。その後ろ姿を見送りながら『あぁもう、俺の馬鹿』と心の中で自分への文句を言い放つ。
 曲がって物陰で見えなくなる前に立ち止まってこちらを振り向き、手を振ってきた。
──そういうの、俺なんかじゃなくて女にやれ……。
 そう思いながらも口には出さないのは、結構重症だ。そんな自分に呆れながら、控えめに片手を上げて振り返す。
 ふっ、と笑いかけて物陰に消えていった。
 扉を閉めて、ハナが中にいる事を確かめる錠を下ろして早足で居室に入り、ベッドに飛び込んで枕を抱いて顔を埋める。
──なんだあれ。なんだあれ……っ!
 思わず出た、呻きに似た声が枕でくぐもった声になる。
──あんな……ずるい……。何もかも……。
「……もう」
 まだ朝食前で、朝食の準備をしようと思っていたが、胸がいっぱいで何も食べる気が起きない。
「みゃあ」
「……」
 ハナの鳴き声で我に返る。
──ハナの朝ご飯の用意するだけでいいか……。
 枕を離しベッドから降りて、ふらふらと台所に向かった。

1/18/2024, 12:31:17 PM

"閉ざされた日記"

「ハナー、昼飯……って」
──いない……。どっかに隠れてやがるな。
 昼休憩。ハナの昼食を入れた皿を片手に居室の扉を開いて居室を見渡す。どんなに注意深く隅々まで見ても、ハナの姿が見当たらない。
 いつもなら、扉を開けた途端すぐ足元から「みゃあん」と鳴いて出迎えてくる。猫は人間より体内時計が正確なので、いつもご飯を与えている時間になると余程の事がない限り、こちらがアクションする前に催促の鳴き声を上げたりする。
──まさか物影で丸まって震えたり吐いたりしてるんじゃ……。
 最悪の想像が頭をよぎる。
 一旦ハナの皿を机に置いて、机の下やベッド周りを入念に探す。
──いない……。あいつ、どこに隠れやがった……。
 ハナは白に黒いぶち模様なので、すぐに分かる。念の為机やサイドテーブルの引き出しの中も探したがいない。
「ハナっ、……ハナっ。返事しろっ」
 扉を閉めているとはいえ、患者がいる。声を抑えながらハナの名前を呼ぶ。
──ハナ……。本当に……。
 嫌な想像が現実味を帯びていく。頼りなく視線を彷徨わせる。
 ふと、半開きになっている収納スペースの扉が目に映った。ゆっくり近付いて、扉を開ける。ここは、ノートや夏服等を仕舞っているスペース。ここならもしかしたら、と思い中を見回していく。
 するとダンボール箱の傍で、横たわっているハナの姿を見つけた。
「ハナ……っ!」
 よく見ると、お腹が緩やかなリズムで上下している。たまたま開けて入ったここで、遊んでいる内に疲れて眠ってしまったのだろう。
「この……っ」
──本気で心配したんだぞ。全く、心配して損した。
 すぐ傍のダンボール箱を見ると、中が見える程度に開いていた。その開いた隙間から、細長い紐のようなものが伸びている。恐らく、これで遊ぶのに夢中になってたのだろう。紐を辿って箱の中から一つ取り出す。
「……っ」
 電気が走ったような衝撃に襲われる。
 それは一冊の日記帳だった。ただそれは、ここ数年で書いて埋めた物では無い。それらは別の収納スペースの中の、ダンボール箱の中に時系列順に並べて入れてある。
 このスペースの中にあるもう一つのダンボール箱には見覚えがある。衣替えの時に見つけた、医学生時代に使っていたノートや参考書等が入っている箱。日記帳の裏表紙を開くと、【start】の横に年月日が書かれていた。
 《あの日》の、一ヶ月程前。
 そのすぐ下、【end】の横には、何も書かれていない。
 《あの日》の前日までの自分の言葉が綴られている。
 そして使い切る事なく、この日記帳の存在を忘れて、最終的にこんな場所に押し込んでいた。
 正直、とても開ける物では無い。
 あの頃の自分を思い出すだけで、胸の奥がジクジクと膿んでいくような不快な痛みをおぼえる。
 あまりの不快さに、胃の中の内容物がせり上って来るような感覚を覚え、片手で口元を抑える。
 だらり、と収納スペース内の台に乗せていたもう片方の手に暖かく柔らかな物が触れる。それと同時に、ゴロゴロという音が鼓膜をくすぐる。
 手を見ると、いつの間にか起きたハナが、俺の手に喉を鳴らしながら擦り寄っていた。
 ハナの温もりが、胸の中にわだかまっている不快感が幾らか稀釈してくれる。次第に吐き気が収まっていく。
「……ありがと」
 擦り寄られていた手でハナの頭を撫でる。
「みゃうーん」
 気持ち良さそうに目を閉じて喉を鳴らす。その様子に頬が緩んでいくのが分かった。
「さ、飯だ飯」
 ハナを抱えて床に下ろす。思い出したのか「みゃあん」と催促の時と同じ声の高さで鳴いて定位置の前に陣取った。
「お前……」
 呆れに似た声を漏らす。机の上に置いていたハナの皿を定位置に置く。
「みゃうん」
 一声鳴くと、もぐもぐと咀嚼し始めた。
「はぁ……」
 盛大にため息を吐く。
──けど、ハナがいなかったら、耐えられなかった。
──……ありがとう。
 胸の中で、お礼の言葉を転がした。

1/17/2024, 11:35:04 AM

"木枯らし"

 早朝のいつもの散歩道。今日はよく晴れていて気持ちの良い朝だ。
──けど、こんな晴れてると午後の天気が心配だ……。
「帰ったら午後の天気見なきゃな……」
「みゃ」
 手袋を着けた手でハナの頭を撫でる。気持ち良さそうに喉を鳴らしながら擦り寄ってきた。ハナが動く度に後頭部の毛が、シャツの襟から出ている肌を撫でて少しくすぐったい。
 すると急に、強い向かい風が吹いてきた。風の影響で木の枝が揺れ、乗っていた雪が音を立てながら落ちる。
「……っ!」
 その音と、首元を素早く撫でていった刺すように冷たい北風に肩を跳ねらせて身を震わせる。
 『木枯らし』によく似た強い風。木枯らしは、晩秋から初冬にかけて吹く北よりの(やや)強い風。それによく似た北風が吹いてきたのだ。そんな北風に、ジャンパーの中にいたハナも相当堪えたようで、中に潜って丸まっている。
「今日はとっとと帰ろう、さっさと帰ろう」
 早口で言うと、足の動きがいつもの二倍早くなる。踏みしめる度に自重──とハナの重さ──で雪が圧縮される、ぎゅ、という音が鼓膜を揺らした。

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