"閉ざされた日記"
「ハナー、昼飯……って」
──いない……。どっかに隠れてやがるな。
昼休憩。ハナの昼食を入れた皿を片手に居室の扉を開いて居室を見渡す。どんなに注意深く隅々まで見ても、ハナの姿が見当たらない。
いつもなら、扉を開けた途端すぐ足元から「みゃあん」と鳴いて出迎えてくる。猫は人間より体内時計が正確なので、いつもご飯を与えている時間になると余程の事がない限り、こちらがアクションする前に催促の鳴き声を上げたりする。
──まさか物影で丸まって震えたり吐いたりしてるんじゃ……。
最悪の想像が頭をよぎる。
一旦ハナの皿を机に置いて、机の下やベッド周りを入念に探す。
──いない……。あいつ、どこに隠れやがった……。
ハナは白に黒いぶち模様なので、すぐに分かる。念の為机やサイドテーブルの引き出しの中も探したがいない。
「ハナっ、……ハナっ。返事しろっ」
扉を閉めているとはいえ、患者がいる。声を抑えながらハナの名前を呼ぶ。
──ハナ……。本当に……。
嫌な想像が現実味を帯びていく。頼りなく視線を彷徨わせる。
ふと、半開きになっている収納スペースの扉が目に映った。ゆっくり近付いて、扉を開ける。ここは、ノートや夏服等を仕舞っているスペース。ここならもしかしたら、と思い中を見回していく。
するとダンボール箱の傍で、横たわっているハナの姿を見つけた。
「ハナ……っ!」
よく見ると、お腹が緩やかなリズムで上下している。たまたま開けて入ったここで、遊んでいる内に疲れて眠ってしまったのだろう。
「この……っ」
──本気で心配したんだぞ。全く、心配して損した。
すぐ傍のダンボール箱を見ると、中が見える程度に開いていた。その開いた隙間から、細長い紐のようなものが伸びている。恐らく、これで遊ぶのに夢中になってたのだろう。紐を辿って箱の中から一つ取り出す。
「……っ」
電気が走ったような衝撃に襲われる。
それは一冊の日記帳だった。ただそれは、ここ数年で書いて埋めた物では無い。それらは別の収納スペースの中の、ダンボール箱の中に時系列順に並べて入れてある。
このスペースの中にあるもう一つのダンボール箱には見覚えがある。衣替えの時に見つけた、医学生時代に使っていたノートや参考書等が入っている箱。日記帳の裏表紙を開くと、【start】の横に年月日が書かれていた。
《あの日》の、一ヶ月程前。
そのすぐ下、【end】の横には、何も書かれていない。
《あの日》の前日までの自分の言葉が綴られている。
そして使い切る事なく、この日記帳の存在を忘れて、最終的にこんな場所に押し込んでいた。
正直、とても開ける物では無い。
あの頃の自分を思い出すだけで、胸の奥がジクジクと膿んでいくような不快な痛みをおぼえる。
あまりの不快さに、胃の中の内容物がせり上って来るような感覚を覚え、片手で口元を抑える。
だらり、と収納スペース内の台に乗せていたもう片方の手に暖かく柔らかな物が触れる。それと同時に、ゴロゴロという音が鼓膜をくすぐる。
手を見ると、いつの間にか起きたハナが、俺の手に喉を鳴らしながら擦り寄っていた。
ハナの温もりが、胸の中にわだかまっている不快感が幾らか稀釈してくれる。次第に吐き気が収まっていく。
「……ありがと」
擦り寄られていた手でハナの頭を撫でる。
「みゃうーん」
気持ち良さそうに目を閉じて喉を鳴らす。その様子に頬が緩んでいくのが分かった。
「さ、飯だ飯」
ハナを抱えて床に下ろす。思い出したのか「みゃあん」と催促の時と同じ声の高さで鳴いて定位置の前に陣取った。
「お前……」
呆れに似た声を漏らす。机の上に置いていたハナの皿を定位置に置く。
「みゃうん」
一声鳴くと、もぐもぐと咀嚼し始めた。
「はぁ……」
盛大にため息を吐く。
──けど、ハナがいなかったら、耐えられなかった。
──……ありがとう。
胸の中で、お礼の言葉を転がした。
1/18/2024, 12:31:17 PM