"とりとめもない話"
「ん……」
意識が浮上する。それと共にゆるゆると瞼を開ける。
部屋の中──少なくとも今視界に入っている範囲は真っ暗で、今が夜中である事を認識する。
「ごほっけほっ……」
「みゃん」
「お、起きた」
咳をすると耳元からハナの鳴き声。それとほぼ同じ方向から、無邪気な少年のような声が聞こえた。
「っ……!」
身を固くして息を飲む。
──まだ喉に違和感がある。
喉の痛みがまだ残っている。喉に障らないように、悲鳴を上げそうになるのを何とか耐える。
幸い金縛りはないが、身体中の不快感は今朝と変わらず消えていない。
声を頼りに首だけを動かし、恐る恐る声の主を視界に入れる。
「んだよ、てめぇか……脅かすな……」
一気に身体中が弛緩し、緊張と警戒で溜めていた息を吐き出し、「けほっ」と軽く咳をして酸素を取り込むように呼吸をする。
「俺の事、お化けだと思ったのか?」
声の主──パラドがいつもより控え目な声量で聞いてくる。図星を突かれて肩が小さく跳ねたが、取り繕って「違ぇよ」と答えて言葉を続ける。
「覚めて、いつもはしねぇ声が、ごほっ……突然近くから聞こえたら誰だって驚く。ごほっごほ……」
途中咳き込みながらも言葉を続けた。慌てた声色で「あんまり喋るな」と水の入った薬呑器を差し出して、俺の言葉にいつもの明るい顔で「そっか」と返事をする。
薬呑器を手に取り受け取ると、何かに弾かれたように身を跳ねさせて「あ、でも」と顔を曇らせて口篭る。
「でも、驚かせたのは変わりない……ごめん」
「いいって、謝んな。……けほっけほっ」
「だから喋るなって」
「はいはい」と小さく笑って「悪ぃ」と謝罪する。
そんな俺に「絶対分かってないだろ」としかめっ面を向けてきた。込み上げてくる笑いを堪え、手に持っている薬呑器に口をつけて中の水を流し込み、喉を潤す。
「ところで、何でてめぇここにいんだよ?」
誤魔化す訳ではないが、気になった事を口にする。パラドは「あぁ」と思い出したような声を漏らして答えた。
「永夢達に頼まれた。スナイプが寝た後に「夜中はお願い」って」
「今何時だ?」
そう聞くと、サイドテーブルの上の目覚まし時計を手に取って液晶画面を俺に向けた。
液晶画面には【PM9:13】と表示されている。
「こんなに寝てたのか」
「結構ぐっすりだったからな」
目覚めてから数時間後看病され、ゼリー飲料を腹に入れて薬を飲んでから半日近く経っている。
あの後あいつらが来て、ハナのご飯の用意に俺の看病までして、しかも上に俺が高熱を出した事を連絡して、上官命令で休むように言われた。
なので仕方なく看病されて、市販の風邪薬を飲む為に昼食にゼリー飲料を腹に入れるように言われて薬を飲んで、そのまま横になり……。そこから先は覚えていない。
風邪薬の睡眠作用で眠っていたからと言って寝すぎだ。
まだ首元の近くで丸くなっているハナに「悪ぃ」と小さく声をかけると、布団から腕を出してルームランプの明かりを付ける。ルームランプの暖かな光が周りを包む。
「目ぇ冴えちまった、けほっ……から、話し相手になってくれ」
小さく咳き込みながら頼み事をする。
「なんでもいいのか?」
「あぁ、けほっ……何でもいい。今朝起きた時からベッドの、ごほっ……上で退屈なんだよ」
そう言うと「分かった」と答えて、近況やら最近遊んだゲームやらを話し始めた。
楽しそうに話すパラドにゆっくり相槌を打ちながら聞いて、俺も少し話す。それを繰り返し、たまにハナの相手をしながら時間を潰した。
"風邪"
「んん……」
瞼を開き、小さな呻き声を出す。
──今何時だ……?
首を動かし、目覚まし時計の液晶画面を見る。液晶には【AM5:01】と表示されていた。
──まだ時間じゃねぇのか。今日は午後からだし、今朝はいつもよりゆっくり準備出来るな。
起き上がろうと両腕に力を入れ上体を起こす。
「……っ」
突然脳が揺れたような感覚に襲われ、思わず片手で頭を抑える。
──なんか、ボーっとする……。
すると今度は寒気が来て、ぶるりと体を震わせる。
「……けほ、けほっ」
今度は急に肺から空気が迫り出してきて、それを吐き出す為の咳を二つ。
──なんか嫌な感じがする……。
片手で頭を抑えながら、緩慢な動きでサイドテーブルの引き出しを開け、体温計を手に取って電源を押して脇の下に挟む。
数秒待つと、ピピピっという電子音が鳴り響き、引き抜いて液晶に表示された数字を見る。
──うげ……。
数字を見て思わず顔を顰める。
「……」
──まぁ、見間違いかもしれねぇし……。
目を逸らし一旦見なかった事にして、もう一度見る。
液晶には変わらず【38.8℃】という数字が表示されている。
立派な風邪だ。
──くっそ……。体調管理を怠った事なんて無いのに、俺もまだまだか……。どこが甘かったんだ……?
考えを巡らせるが、一瞬で止める。
今は原因よりも、これからどうするかを考えなくては。
「どうすれば……」
──今日は午後からだし、午前中に下げればいいんだけど、この熱を午後までに下げるのは、流石にムズいか……。仮にできたとして、この咳はどうする?そもそもハナの飯どうしよ……。
立ち上がる事が難しい状態で、ご飯を用意するのは危険すぎる。下手すると大怪我、最悪頭を強打する事になる。
とりあえずこのまま上体を起こしているのは体に障るので、もう一度横になる。
「みゃあ」
枕に頭を預けたのとほぼ同時に、ハナが寝床から鳴き声を上げた。
「……おはよ」
喉が痛いせいか、いつもより声量が無く消え入りそうな声だった。
するとハナがケージから出てきてベッドの上に飛び乗ってくる。飛び乗ると俺の顔を覗き込むように近付いてきて、ベッドの中に潜り込む。
「なんだ?寒いのか?」
すると掛け布団から顔を出して、俺の首元を枕にしてきた。
「ハナ?」
「みゃん」
名前を呼ぶと短く鳴き、程なくして喉を鳴らしだした。
──なんなんだ、急に……。
一瞬不思議に思うが、すぐにその疑問が消え失せる。
「お前、俺を心配してんのか……?」
「みぃ」
そう聞くと返事をするように鳴いた。寝言のような声色だったが。
多分これは、ハナなりの心配なのかもしれない。
絵空事かもしれないが、そう思う事にする。
首元のハナの温もりに意識を向ける。
──……暖かい。
小さくてふわふわで、暖かい。生命《いのち》の温もりを肌で感じて、身体の不快感が和らいでいく。
──今日はどうするか決まってないけど、今はハナの温もりに身を委ねる事にしよう。
"雪を待つ"
「ご馳走様でした。……さて」
居室で昼食を摂り終え、残りの昼休憩を午後の準備にあてようと椅子から立ち上がる。
椅子から離れて立ったのと同時に、ハナが皿から離れ軽快に窓のヘリに飛び乗って窓の外を見上げる。
「どうした?」
疑問の声をかけるが、こちらを振り向くどころか返事すら無い。ただ黙ってじっと窓の外を見上げている。
──一体どうしたんだ……?
窓に近付いて、見上げるハナの横顔を見る。
──まるで何かを待っているような目だ。
ハナの見上げる目に、そんな感想を抱いた。
──ならこいつは、何かを待ってるのか?一体何を……。
深く深く思考を巡らせていると、ハナの髭が微かに動いた。
「みゃあん」
そう思ったのと同時に、『待ってました』と言わんばかりの鳴き声を上げ、空を見上げる。
白い綿のようなものが、ふわふわと舞いながら落ちてきた。
「……これを待ってたのか」
ハナが待っていたものは、雪だった。けれど一体なぜ?
「あぁ……。こないだ雪降ったのを見たからか」
あの時、居室にいたハナも舞い散る雪を見ていたらしい。その時に雪に魅入られたのだろう。
──だからもう一度見たくて、窓に近付いたのか。
そして、改めて窓の外を見上げる。
舞いながら落ちてくる様が綺麗で、再びスノードームの中にいるような感覚になり、空に引き込まれるように舞い散る様を見上げる。
「……っと、駄目だ駄目だ。早く戻らねぇと……」
頭を振り、何かに弾かれたように身を翻して扉へと向かう。そして振り返り
「そんじゃ、また行ってくる。大人しく待ってろよ」
窓辺に座るハナに言葉をかける。
「みゃあ」
俺の顔を見ながら、返事の一声を上げる。その鳴き声を聞き扉を閉めて診察室に向かい、定位置に着いた。
"イルミネーション"
太陽が地平線へ吸い込まれ始めた頃、病院近くの大通りの街路樹の横に設置されているベンチに座っている。
ハナは、ダウンジャケットの鳩尾辺りから顔を出し喉を鳴らしている。
ハナが顔を出せるように、と元々胸元まで下げていたファスナーをベンチに座った時に更に下げた。
──おかげで少し寒いけど、我慢我慢。
ハナの頭を指先で撫でながら顔を上げると、視界に待ち人が映った。撫でていた手を止め、片腕を上げて呼ぶ。
「おう、こっちだ」
「みゃあ」
俺の姿を捉えると、こちらに真っ直ぐ歩いてくる。
待ち人──飛彩が俺の数メートル先まで来ると、立ち止まって口を開く。
「済まない。少し遅れた」
「んや、約束の時間の十分前くらいだ。俺が早く来すぎただけから気にすんな」
そうフォローを入れると小さく頷く。『申し訳ない』と言いたげな顔をしながら。
真面目さに小さく息を吐くと、口を開いて聞いてきた。
「ところで、話しとは?」
早速本題への質問をしてくる。一呼吸置いて言葉を紡ぐ。
「もう聞いてるかもしれねぇが、こいつを俺が飼う事にした」
「みゃあ」
メッセージで伝えた方がいいのだろうが、俺にとってとても大切な事なので直接伝えたいと思い、CRの奴らには今日の昼間CRに行って直接伝えている。
その時飛彩は手術中で不在だった為、メッセージで待ち合わせを取り付け、遅れての報告になった。
あいつらから言伝に聞いているだろうが、先程言った通り直接伝えたい事なので戻った後メッセージを送って待ち合わせをした。
伝えると飛彩は「そうか」と嬉しそうな顔でこちらを見る。
「本当はこないだ飼う事に決めたんだが、名前が決まるまではと思って報告はちょい遅れた」
「という事は、名前決まったのか」
「あぁ。名前は《ハナ》だ。たまに力強い鳴き声出すし、どんどん成長していく様を見て『道端に咲く花みてぇだな』って思って」
そう言った後、弁明するように「俺の名前から取ったんじゃねぇから。たまたまだから」と言うと「分かっている」と少し笑い声を漏らす。
──絶対分かってねぇな、こいつ。
少し咳払いをして「済まない」と居住まいを正す。
「子猫の事を良く見て付けた、とても素敵な名前だ」
「……そうか」
少し照れくさく答えると、少し身をかがめてハナの頭を撫でる。「良き名前を貰えて良かったな」とハナに話しかけると「みゃあ」と鳴いて、『もっと撫でろ』と言わんばかりに飛彩の手の平に擦り寄る。
飛彩は一瞬戸惑いの目を向けるが、ハナの要求通りに撫で続ける。
そんな光景を眺めていると、視界の端に光が灯った。少し驚くいて、顔を上げて周りを見渡す。
周りはすっかり暗くなっており、それに合わせ大通りに生えている街路樹の幹に巻き付けられていたライトが黄金色の光を放ち、大通りを彩っている。
「そういえば、今夜からだったな」
飛彩がそう呟くと、そういえば今ぐらいの時期からだったなと思い出し「あぁ」と小さく声を漏らす。
「みゃあ」
俺の小さな声に呼応するように鳴いた。
「綺麗だな」
「あぁ……そうだな」
そう答えて視線を下げてハナを見ると、光で綺麗に彩られた周りを興味津々な眼差しで見渡している。目に黄金色の光が映る。
──この景色が、猫の目にどう映っているかは分からない。けれど、
「ハナの目にも、綺麗に映っているといいな」
俺が心の中で思っていた言葉を引き継ぐように言ってきた。
少し驚いたが、表に出さぬように顔を上げて改めてライトアップされた大通りを見渡す。
「……だな」
──俺達と見えている景色が違っていても今の、この景色がハナの目にも綺麗に映っていたらいいな……。
「しばしこのイルミネーションを見てから帰るか」
「俺は良いけど、てめぇは大丈夫なのか?時間……」
顔を飛彩に向けて聞く。
──確かメッセの中に「夜中にも手術がある」って書かれてたはずだけど……。
「問題ない。少しくらいの時間はある」
そう言って俺の隣に座ってきた。
「……そうか」
少し口篭るように返事をする。
──男二人並んでイルミ見るとか……。
そう思いながらも、三十分程冬の寒空の下で二人と一匹、同じベンチでイルミネーションを眺めた。
"愛を注いで"
「ご馳走様でした、と」
自分の夕飯を済ませて食後の片付けをする。
「おぉ、今日も綺麗に食ったな」
「みゃ」
子猫のご飯皿を回収しにしゃがんで皿の中を見る。皿の中に入っていたはずのドライフードが一粒残らず綺麗に無くなっていた。
数日前獣医から「ドライフードを出していいよ」と言われたので、その日からドライフードを出している。
「みゃん」
獣医にOKを貰ったものの、ちゃんと噛めるか、そもそも口に合うかどうか不安だったが杞憂で、初めてそのままで出しても綺麗に完食してくれた。
手の平で子猫の頭を優しく撫でる。俺の手の平に頬を擦り付けて来た。
「……」
──名前、いい加減そろそろ決めないと……。
検診の時獣医に、子猫の飼い主になる事と名前がまだ思いつかない事も話していた。その時に「ゆっくりでいいよ」と言われたが、名前はとても大事なものだ。いつまでも名無しだなんて駄目だ。
だからなるべく早く決めなくては。
──けど、焦って決めるものじゃねぇよな……。獣医には「大体は身体的特徴で決める」って聞いたし、こいつの特徴を名前にするか。けど言うほど名前にできそうな身体的特徴は無い。それに、安直なのは避けたい……。
「そういや……」
獣医は「性格的特徴で決める人もいる」とも言っていたなと思い出す。
名前に繋げられそうな特徴が無いか、これまでの子猫の行動をできるだけ多く思い出していく。
「……あっ」
該当する特徴があった。
時折出す力強い一声。体の大きさと共にすくすく育っていく身体能力。
もう、これ以外思い浮かばない。
ゆっくりと口を開き、声帯を揺らす。
「……《ハナ》」
子猫の耳がピクリと動き、こちらを見上げる。もう一度、発する。
「《ハナ》」
すると今度は確かな眼で俺を見る。子猫の小さな目に、俺の姿が映る。お気に召してくれるか、緊張で耳の奥から鼓動が聞こえる。
「……みゃあ!」
「うおっ」
大きな一声を響かせ、驚いて思わず少し仰け反る。
お気に召したようだ。
「今日からお前は《ハナ》だ」
「みゃ」
そして再び、名を呼ぶ。今度はしっかりとした、揺るぎない声色で。
「《ハナ》」
「みゃ」
子猫──《ハナ》が返事に、短い鳴き声を上げる。
「これから改めてよろしくな、《ハナ》」
「みゃん」
《ハナ》の返事を聞くとご飯皿を回収して立ち上がり、自身の食器を共に持つ。
「じゃ、ちょっと出てくな。大人しく待ってろよ、《ハナ》」
「みゃん」
《ハナ》の鳴き声を背に聞く。首を動かし微笑んで見せると、食器を洗いに部屋を出た。