"夫婦"
扉の方から小気味良いノック音が三回鳴った。
「来たか」
入れよ、と言いながら椅子を回転させて体を扉の方に向ける。体を向けた先にいたのは鏡飛彩だ。
先日頼まれていたデータが用意できた事を昼休憩の時にメッセージで伝えると、今日の夕方頃を指定されたので。
「ほらよ、頼まれてたデータ。あとこれ、それ見て俺が思った事要約して書いたメモ」
デスクの上に置いていた、無骨で黒い長方形のUSBメモリと文字や図形などが書かれたメモ用紙数枚を入れた茶封筒を手渡す。
「あぁ、確かに。いつも早くて助かる」
「いいって、礼は。…つーか『いつでもいい』って送ったのに、急ぎで必要とかじゃなかったはずだろ。別に今日じゃなくても、来週とかでも良かっただろ。…大丈夫なのか?」
付け足すように心配の言葉をかける。
送ったメッセージは『この前頼まれたやつ用意できた。来るのはいつでもいい』だ。外科医としても多忙のはずなのにメッセージを送ったその日に来るなんて、とてもじゃないが驚いた。多忙すぎてギアがかかりっぱなしになってるのかと心配になりながらも『分かった』と了承した。
──なら、俺がブレーキにならなきゃ。
「問題ない。今のところ、少なく見積もっても今日明日は時間に余裕がある。確かに急ぎで必要ではなかったが、早めに受け取って損はない」
そう言いながら、渡した茶封筒を鞄の中に仕舞う。そう言う顔は、いつも通りの顔だ。
「そうか、なら良い」
──良かった。ブレーキが壊れてしまったわけではないみたいだ。
心配で少々こわばっていた心が緩み、安堵する。
そして今朝焼いたクッキーを乗せた皿を、飛彩の前に差し出す。
すると飛彩の顔が、ふっ、と緩んだ。
──なんだ?腹減ってたのか?
頭に疑問符を浮かべながら飛彩の目を見る。
「案じてくれたのか。だが今は心配には及ばない。止まる時はちゃんと自分で止まれる」
俺の顔を真っ直ぐに見て言い切る。やはりいつも通りだ。
「…あっそ」
「俺が一人でから回っていたら、その時はブレーキになって欲しい。自分がから回っているかなんて、誰かから言われないと分からないからな」
そう言いながらクッキーを一枚取って齧る。サクリ、という音が室内に響かせ、美味しそうに咀嚼して嚥下する。
「…腹が空いていたのは事実だ。今日の昼は、簡単なものしか食べられなかった」
「そ、そうか…時間、余裕あんなら全部食ってから行け」
コーヒー淹れて来る、と言って一旦部屋を出る。食器棚から適当なマグカップを取り、コーヒー粉を入れ、お湯で溶かす。コーヒーと、角砂糖を入れたシュガーポットとコーヒーフレッシュをワンカップ、それとスプーンを手に部屋に戻り、今だにクッキーを頬張る飛彩にマグカップを差し出す。
済まない、と両手でマグカップを受け取ると、デスクにシュガーポットとミルクポーションを置く。シュガーポットの蓋を開け、中の角砂糖を二つほどとコーヒーフレッシュをコーヒーの中に入れる。ほらよ、と差し出したスプーンを受け取り、ありがとう、と礼を言うとかき混ぜる。黒い液体に白が混ざり、暖かなカフェオレの色になると、一口飲み下す。
飛彩は、あいつ程ではないが甘党だ。コーヒーには、いつも砂糖を入れて飲んでいる。だが入れる量は変わる。ケーキをお供にしている時はスプーン一杯分、なにも無い時は三杯分。そして、俺が作るクッキーは二杯分。ミルクの有無に決まりはないが、時間に余裕があるかどうかで大体分かる。
「いつも俺の必要なものを把握しているな」
「はっ、自惚れんな。勝手に覚えただけだ」
ふい、と顔を逸らして答える。
「そういえば、あの子猫の様子は?」
子猫の近況を、クッキーをまた一枚手に取りながら尋ねてくる。
「あぁ、あいつか。少しずつ落ち着きがついて来てる。…まぁ、机の上に乗る回数は減ってきても完全には止めてくれねぇけど……。この前予防接種で獣医のとこに連れてったら、やっぱ俺に凄く懐いてるから俺が飼い主になってやれ、って言われた」
「良いんじゃないか?」
「んないい加減な…。ここで動物を飼うってのは…」
「できているだろ」
俺の言葉に食い入ってきた。思わず「はぁ?」と間抜けな声が漏れる。
「そうでなきゃ、今日までここで面倒を見れていない」
そんな事を言われ、少し拍子抜けする。
「そ、そう…か…?」
「そうだ。それにあの子猫は、お前にとても懐いている。子猫の意思を無視して引き離すなんて酷な事、誰もしたくないはずだ」
お前もそうだろう?、とコーヒーを一口含みながら目で訴えてくる。
それは勿論したくない。猫にも犬にも、生きているもの全てに意思がある。それを無視して、自分の勝手な理由で決めるなんて事はしたくない。
「けど俺は、あいつの今後の幸せを願ってる。俺より里親を選んでほしい」
ずっと一つの部屋の中に押し込まれるよりも、自由に家の中を走り回れる方がよっぽど自由で幸せだ。
「そうかもしれない。だが今は、だいぶ貴方に懐いている。他の人間が引き取るよりも、貴方がこのまま面倒を見る方がよっぽど良いと、少なくとも俺は思う」
「……」
驚いた。そんな事を言われるなんて思ってもみなかったから。少し間を開けて答える。
「…分かった。前向きに考える」
そう答えると、そうか、と頷いた。
「一人で難しい事は俺も協力するから、いつでも言ってくれ」
日頃の礼には足りないが、と付け足す。
「あっそ。…そん時は頼む」
そろそろ戻る、と立ち上がる。洗わなくていいから、と言ってクッキーを皿ごと渡し、外に出て姿が見えなくなるまで見送った。
「……ん?」
──それって、二人で子猫の世話をするって事…だよな?それってつまりそういう…。なんかまるで…。
そこまで考えて、あまりの恥ずかしさに頭を振って、頭に浮かんだ言葉を振り落とす。
──違う、断じて違ぇ!そんなんじゃねぇ!あいつはそんなつもりで言ったんじゃ…。
「はぁ……」
──少し冷してから中に戻ろう…。
"どうすればいいの?"
「はぁ…」
──こいつの事、マジでどうすっか…。
昼休憩中、居室で子猫のご飯を用意しながらため息を吐く。
トイレは数日で覚えられたし、鳴き癖も初めはあんなに鳴いていたのに鳴く事が少なくなってきた。が、本格的に里親探しをするにはまだ駄目だ。
頻度は減ってきたが、未だに机の上に乗ってくるから。
トイレがすぐに覚えられたのも、鳴き癖も、獣医のアドバイスのおかげ。夜間救急に連れて行った時ついでに聞いておいた。理由は、飼育に苦戦するのはトイレの覚えさせ方だ、と前に聞いた事があったからなのと、拾ってからずっと変わらず、何度も鳴いていたから。
けれど獣医からは『貴方に凄く懐いている様子なので、このままこの子の面倒を貴方が見てあげて』なんて言われた。
ケージの扉を開けて「ほらよ」とご飯を入れた皿を定位置に置くと、ブランケットの上に丸くなっていた子猫は待ってましたと言わんばかりに皿の前に陣取って食べ始めた。うみゃうみゃと声を上げながら咀嚼している。
「鳴きながら食べてる……」
いつもの事だが毎度驚く。拾って数日は空腹で思わず鳴きながら食べているのかと思っていたが、鳴きながら食べる日数がこうも続くと、ただの空腹ではないと分かった。
──こいつ思ったよりも食いしん坊なのか?
里親は今の内にある程度絞ってから探すのが、一番確実に見つかる方法だ。と、思ってあたってみたが全員に、要約すると『俺に凄く懐いてるんだから俺が世話しろ』だと。
うちは短期的に見ると平気だが、長期的に見ると難しい。
ここは医療機器や治療に使う道具がある。医療機器は精密機械だ。子猫が遊んでぶつかってしまったら、故障してしまうかもしれないし、多少頑丈に作られていたりするから、ぶつかった箇所によっては子猫自身も怪我をしてしまうかもしれない。治療に使う道具の中には、包帯を裁断するのに使う裁ち鋏もそうだが、家庭のものよりも鋭利な刃物だってある。
それに、元々ここはそれなりに大きい病院だったのだ。今まで使ったフロアはとても少ないし使うフロアを広げてもいない。けれど、子猫の身体能力を鑑みて、俺が行ったことのない部屋まで軽々と向かってしまうだろう。俺が言ったことのない部屋、つまり…数年間まともに掃除がされていない部屋。そんな所にこいつを入れる訳にはいかない。
けれどそれは、行ってほしくない場所に柵を設置するなどの対策をすれば解決だ。
だが一番懸念している問題は、建物自体の保温性。子猫はまだ体温調節が上手く出来ない。ここに来るのは体温調節ができる人間。勿論子どもも来る事はあるが、多少はできる程に成長している。俺がクーラーやストーブをつけたり窓を開けたりと、要望に答えながら室内温度をある程度調整している為人間は平気だが、ここに来る子どもよりも体温調節ができない子猫をここに置いておくだなんて、とてもじゃないができない。
俺だって、ずっと一緒にいてやれる事は難しい。用事や買い出しなどでここを空ける事だってある。留守番を任せるにしても、最低でもあと数ヶ月はまだ一人にはできない。
──けれど、獣医もあいつらも同じ事言ってきたし…。もう俺にあてなんてねぇよ…。
「はぁー…」
先程よりも大きなため息を吐きながら頬杖を着く。
──まぁ…とりあえず様子見で面倒見るか…。それで無理だと判断したら、改めてあいつらに持ちかけてみよう。もう一度聞いても駄目だったら、あの獣医に誰か紹介してもらうってのも手か…。けどなぁ…。一度あぁ言われてるわけだし…。俺がいくら様子見で面倒見た所で、帰ってくる答えは一緒だろうし…。そりゃあ、飼ってやりたい、けど…でも…。
「うぅ〜…」
頭を抱えながら自分もお昼を食べようと、自分の昼ご飯を取りに居室を出た。
俺がこんなに悩んでいるというのに、そんな事などお構い無しに美味そうにご飯を食べ続ける子猫を横目に見ながら。
"宝物"
「…ん?」
診察室、使ったファイルを仕舞おうと棚の引き戸を開けると、奥の方に何かが挟まっているのが見えた。手を伸ばして《それ》を掴み、棚から出して確認する。
《それ》はすぐに分かった。一本の黒い万年筆。高級感のある黒いボディが、蛍光灯の光を滑らかに反射する。
その万年筆は、俺が医大を卒業した時に貰った物だ。『いつか、これが似合う大人になりなさい』って言葉と共に、この万年筆を渡された。
使った事は一度もない。けど、持っていると不思議と心が落ち着いて冷静になれる。俺の大切な物。
それが何故こんな所から、答えはすぐに分かった。
一ヶ月ほど前、資料の整理で沢山のファイルを仕舞った時に何を思ったのか、何故かポケットから出して棚の扉の近くに置いて、それを忘れて棚の奥へとファイルに押し込まれた。整理が終わった後無くなっている事に気付いて、思いつく所を全て探した。次の日も、その次の日も、一週間ほど探したが見つからず、諦めていた。
まさかこんな所から出てくるとは、誰も想像できないだろう。
「良かった…」
──それと、…ごめん。
万年筆を両手に抱いて、心の中で謝罪する。
大切な物をおざなりに扱った事の申し訳なさと、自分への怒りを込めて。
そして、一度棚から離れてデスクの上のペン立てに入れる。
──もう、離さないから。
心の中で呟くと、棚に向き直って改めてファイルを棚に仕舞い、扉を閉めた。
"キャンドル"
「はぁー、やっと終わった…」
今日一日の全ての業務やら炊事やらを終わらせ、居室に戻り部屋の明かりをつける。
「みゃーん」
「んだよ。まだ起きてたのか?」
ケージの中にいる子猫が鳴き声を上げる。ちらりと皿を見ると、完食したようで皿の中は空っぽだった。
「良かった…。今日も全部食べたか」
「みゃあ」
漏れた安堵の声に呼応するように鳴く。
部屋に入り、サイドテーブルの上のデジタル時計を見る。PM11:38と示している。
「うわぁ…、今日も日付変更ギリギリ…」
あとは寝間着に着替えて日記をつけて、ベッドに潜って眠るだけ。
このところ、寝る前に読書する暇が殆どない。寝間着に着替えて日記をつけて、ベッドに入ったら瞼が重く意識も急激に離れていってしまう。
寝る前に本を読むのは習慣で、ルーティンのような感じだったから、最近調子が少し悪いように思う。
──せめて別の方法で、少しでもリラックスしなくては…、また明日に響く。
鍵付きの引き出しから日記帳と、卓上のペン立てからシャーペンと小箱から消しゴムを取り出すと、卓上の脇に置かれた小さな箱を手に取り、箱を開け中を取り出す。
箱の中に入っていたのは、アロマキャンドル。この前通りがかった雑貨屋で見つけたのだ。とても良い香りで思わず買ってしまったが、いつ使おうか困っていた。
──丁度いい。今が使う時だ。
卓上の引き出しからマッチが入った小箱を取ってマッチ棒を一本出し、小箱のへりでマッチ棒の先を擦り火をつけて、その火をアロマキャンドルに移す。アロマキャンドルに火が灯ったのを確認してマッチ棒を振り、棒の先の火を消して一度席を離れ部屋の明かりを消す。
部屋の中が柔らかく暖かな橙色に照らされて、とても幻想的な空間だ。机に近づいて椅子に座ると、ふわりと優しい香りが鼻腔をくすぐる。
日記帳のページを捲り、空白のページで開く。日記帳の上に、ゆらゆらと揺れる橙色がうつる。シャーペンを手に取って、さらさらと書き始める。
優しい香りと優しい火のゆらめきで、先程までひりついていた心が少しずつ溶けて、落ち着いていく。日記を書く手も、心做しか滑らかに動いている気がする。
「……ふぅ」
ペンを置いてペン立てに差して、日記帳を閉じ鍵付きの引き出しの中に仕舞い、鍵をかける。消しゴムも小箱に仕舞って、鍵をいつもの場所に隠す。
──今日はなんだか、気持ち良く眠れる気がする。
席を立ち、ケージの中の子猫に「おやすみ」と言うと「みゃー」と返事をした。
ふっ、と口角を上げるとベッドに入って瞼を閉じる。
急激な意識の剥離とは違う。まるで暖かな水の中に揺蕩うような、そんな気持ちの良い感覚に包まれながら、ゆっくりと意識を手放して眠りについた。
"たくさんの想い出"
「みゃあ!」
「げっ…」
居室で書類作業中、コーヒーが無くなったので空のマグカップを片手に給湯室へ行き、熱々のコーヒーで満たして部屋に戻ると、子猫が机の上に乗って、戻ってきた俺を見るやいなや大きな鳴き声を上げた。──居室で作業する時は、なるべくケージから出してあげている。──
「おい、机の上に乗るな。…全く、どうやって乗ったんだ?こんな高いとこ」
マグカップを書類の脇に置いて、呆れた声で呟く。
子猫を拾ってから数時間後、動物病院で診てもらいその時に、詳しくは分からないが恐らく生後約二、三ヶ月程だろうと聞いた。
椅子に飛び乗って机の上に乗ったのだろうが、それにしても相当な筋力だ。この前ケージから脱走した時にも思ったが、これは思った以上にちゃんと躾しなくては。里親を探すのはそれからだ。
「はぁ…」
ため息を吐きながら椅子に座り、再開しようと机に向く。
──まぁ、邪魔さえしなけりゃ別にいいか。
書類に手を伸ばしかけて、ふと机の上に乗った子猫を見る。子猫が机の上の《何か》にちょいちょい、と前足を動かしてじゃれついていた。その《何か》を認めると、慌てて子猫を両手で持ち上げる。
「あぁ、こらっ。やめろっ」
その《何か》は、貝殻の首飾り。子猫を膝の上に置いて首飾りを持ち上げ、状態を確認する。
──良かった…ほつれも欠けもない。
首飾りが無傷であると確認して、胸を撫で下ろす。
この首飾りを見ていると、貝殻を拾った時の匂いや音や温度感、会話。そして、共に作ったチャームを渡した時のあいつの表情…。全部が昨日の事のように思い起こされる。
身に着けたのはあの時の一回きりだが、いつもこの首飾りをポケットの中に入れている。居室で作業する時は卓上に置いている。
首飾りを見ていると、不思議と心が凪いでリラックスするから。
「みゃあ」
首飾りを手に呆けていると、子猫の鳴き声で我に返る。
「おぉ…」
視線を下げると、子猫が俺の膝の上に丸まってリラックスしていた。
──暖かい…。
驚かさないよう慎重に書類を手に取って、作業を再開した。