"やるせない気持ち"
「頼まれた物、持って来たぞ」
昼過ぎ、俺が以前頼んだ物を持ってうちの病院に来た。
「おぉ、ありがと……。そこ、置いといてくれ……」
「どうした?顔色が悪いが…」
「別に…、何でもねぇよ……」
実の所、さっきまで見ていたニュースが不穏なものだらけでいつも以上に辟易して、この気持ちをどうすればいいのか分からない。だからいつもの椅子に座りながら、飛彩に当たらないようにさっきからずっと顔を逸らしている。
少しばかり沈黙が降りると不意に優しく覆い被さる状態で抱き締められた。少し驚いて肩が小さく跳ねる。
「何があったか知らないが、貴方の事だ。きっと辛いもの、悲しいものを沢山見聞きして、負の感情を綯い交ぜにしたやるせない気持ちを募らせてしまったんだろう?」
そう言いながら、俺の頭を撫でてきた。撫でる度に髪を、サラサラ、と梳かれる。
「やめろ、餓鬼扱いすんな…」
「以前のお返しだ。恋人を癒したいのは俺も同じだからな」
などと返され何も言えなくなって背に腕を回し抱き締め返し、飛彩の胸元に顔を埋める。胸にわだかまりグチャグチャに縺れていた色々な負の感情が、次第に解され溶けてゆく。
「…ありがとよ。けど…、もう少し、このままで……頼む…」
「あぁ、承知した」
時間が許す限り、しばらく抱き合っていた。
"海へ"
以前来たあの海、帰る間際に「今度は日中に来よ」と約束し、その後お互いのスケジュールを確認して直近で空いている(午前だけだが)この日に来た。
夜ここに来た時とは全く違う。あの時は黒に月の青白い色が反射して月の道が出来ていて、あの時の海も綺麗だったが、水の中に青い絵の具を垂らして溶かしたような、澄み渡る青い海。空の青と大差ないその色は、間に雲が無かったら境目が分からなかっただろう。色が違うだけでこんなにも違く感じるのか。
あの時と違うのは色だけじゃない。あの時は飛彩の運転だったが、今回は夜勤明けの為俺の運転で。飲み物も近くの自販機で買ってきた麦茶。今でも十分暑いが、これからどんどん暑くなっていくこの時間帯には染みる冷たさだ。
「はぁ〜、気持ちいい〜…」
ベンチに座り、買ってきたばかりの冷たい麦茶を自身の首元に当てて涼む。すると横から小さな布が俺の前髪を掻き分けて額に、ポンポン、と当たった。見ると飛彩が、自身の持っているハンカチで俺の額の汗を拭ってくれていた。
「…ありがと」
「何、ドライバーへの礼だ」
照れくさく礼を言うと、そう言われた。少し照れ隠しに、ハッ、と小さく笑って正面を向く。
「別に夜勤明けでヘロヘロの奴にハンドル握らせたくなかっただけだ」
そう言うと「そうか」と返された。首元に当てていた麦茶を首元から離してキャップを開け、体の中へと流し込んでいく。火照った体の中にまで冷たさが染み渡って、また気持ちいい。
そしてしばらく…時間の許す限り、ゆっくり優しく響き渡るさざ波を聞きながら、2人でベンチに座り昼の海を眺めていた。
"裏返し"
「そういえば…」
いつもの休憩スペースで自販機のコーヒーを啜っていると、何かを思い出したかの様な口振りで話を切り出した。「なんだ?」と聞き返す。
「ある時を境に急にあからさまに距離をとったり、会話中院内の看護師に声をかけられ応対した後は、ムス、とした表情をして「どうした?」と聞くと「別に?」と口を尖らせ拗ねた言い方で、表情を変えることなくそっぽを向いて、スタスタとどこかに行ったり…」
「うっ…」
それは、飛彩に恋心を抱き始めた頃の俺の行動だった。あの頃の事を思い出すと本当、自分の女々しさに嫌気がする。
「初めはよく分からなかった。が、今思えばあれは裏返しだったんだな」
「…。んだよ急に」
むず痒さにコーヒーを啜って聞く。本当何でそんな事今思い出すんだよ。
「その会話していたのがここだったな、と…。丁度今の様な位置に座っている時だったな、と急に思い出した。それだけだ」
「…、あっそ…」
話しは終わりかと思ってコップに口をつけ、再びコーヒーを啜る。
「今の貴方は、そんな頃とは嘘の様に俺と一緒に居たがったり、2人きりの時はくっ付いてきたり、本当に可愛い」
「っ…!?」
急に恥ずかしい事を言われ噎せて、ゲホゴホ、と咳き込む。
「大丈夫か?」
と、俺の顔を覗き込んでくる。
「っ…」
お前のせいだろうが。咳き込みながら、キッ、と睨んで目で答える。
「済まない」
「ぜってぇ、ゴホッ、思ってねぇだろ、常習犯が…」
咳き込みながら悪態をつくと、「思っている」と微笑みながら背中をさすってきた。収まって顔を上げて横を見ると飛彩の顔が目の前にあって、驚いて思わず、ガタッ、と立ち上がって素早く後ずさってしまう。
「…フフ」
「っ、んだよ」
軽く笑われ、キレ気味で聞くと
「…。照れ屋で恥ずかしがり屋なところはいつになっても変わらないな、と」
反論しようと思ったが、実際に付き合い始めてから今も変わらずなのでなにも言えず、ぐぬぬ、と唇をわなつかせる。飛彩が元の席に戻ったため俺も元いた席に座る。座ると、気持ちを落ち着かせるために再びコーヒーを啜った。
"鳥のように"
空がどんなに高くとも、落ちるとこまで落ちた俺には絶望の要因にも進む事を止める要因にもならない。俺には失うものなんて何も無いのだから。どん底まで落ちたなら、上へ、前へと進むしかないのだから。絶望なんて怖くない。あの絶望に比べたら、全ての絶望なんてちっぽけなものだ。どんな悪夢に苛まれようとも、心を灯す夢があるからここまで来られた。あれから何度も立ち上がって走って、強くなった。
土砂降りのあの夜の答えはまだ分からない。けれど、あれが最適解だったと胸を張って言える。ヒカリは前に、前だけに射すから、前を向く限りヒカリを見失う事は無い。闇から逃げず、むしろ受け入れて前へ進む力にして、足を動かし続けてきた。
最初は上を見る事も、前を向く事も、顔を上げる事も怖かった。ただひたすらに俯いてた。苦しくて辛くて、無力な自分が悔しくて悔しくて、足元を見る事しか出来なかった。けれど今は、もう違う。ただがむしゃらに動くだけの、無力だった俺じゃないから。羽ばたこう、もう一度。あの時よりも高い場所へ。
"さよならを言う前に"
駅に電車が到着する事を知らせるアナウンスが響き渡る。まもなく電車が来る。身を引き締めて、皆に向き直る。
止めろよ…、そんな顔されたら……こっちだって辛いだろうが………。
鼻の付け根が、ツンッと痛くなるが、グッと堪えて言葉を紡ぐ。
「皆、改めて言わせてくれ。…短い間、沢山迷惑かけた。何度謝っても謝りきれない…。けど、それ以上に…短い間だったけど、楽しかった。皆と過ごして、あんなに笑ったり、がむしゃらになったりしたの、いつぶりだろ…。誰かと一緒にいて、こんなに楽しいって思ったのも、いつぶりだろ?何度楽しかったって言っても伝えきれない位、本当に楽しかった。…本当に、ありがとう」
全部は伝え切れてないけど、今伝えたい事を言い切って皆の顔を見る。出会った時からずっと、1番見てきた表情が浮かんでいた。
電車が到着し、ドアが開く。皆に背を向けて電車に乗り込む。
こんなに人との別れが辛いって思ったのも、久しぶりだな…。
また鼻の付け根が痛む。
まだダメだ、泣くのは…まだ。大人の俺がこんなんじゃダメだろ。ちゃんと笑顔で別れなきゃ。
身を翻して、皆に向き直る。鼻をすする音が聞こえる。
止めろよ、バカ……。
「さよなら。……ううん、またね」
そう言うと、皆がまた笑顔になって力強く頷いた。