この世の春はどこへやら。
四月の半ば。
桜はだいぶ散って、菜の花やたんぽぽなどの力強そうな(しぶとそう、とも言えるか?)花々が川沿いに伸びる砂利道の脇で咲き乱れていた。
……暑い。
私は昼間の空を見上げながら、川沿い近くのベンチに座り、服の襟をつまんでパタパタと扇ぐ。
何なんだ今日は、クソ暑い。
まだ四月だろう? どうしてこんなに暑いんだ。
外気温は? 30度?
それもう夏じゃん、ふざけんな。
「あーづーいー……」
私は呻くように文句を言った。
そしたらようやく、待ち人たちの声が聞こえてきた。
「ごめーんっ、お待たせー!」
「買ってきたぞー?」
「待ってたよぉー……」
私は二人からそれぞれ飲み物と譜面を受け取る。
この譜面は、今年の文化祭で私たちが演奏する曲だ。
なんだかんだいって、高校生活の三年間、三人で練習してきたなぁ。
去年も、一昨年も、文化祭で演奏して、すごく楽しかったな。
今年もきっと、楽しくなる。
何なら今までよりも、楽しくなる。
きっと。
ベンチ脇に置いていた電子キーボードのケースを引っ掴んで、私は立ち上がった。
空は快晴、絶好の練習日和。
強めに吹く風が、私の髪を乱雑に撫で上げた時。
熱で蒸されたような草の香りがした。
「じゃ、練習しよっか」
「おー!」
「おーぅ」
【快晴】
八月が終わる。
朝から鳴きっぱなしのセミは声量を下げ。
吹き抜ける風はだいぶ涼やかになった気がする。
風に揺られる草葉はまだ青々しくて。
空は青に朱色が混ざり始める、そんな時間帯。
二十歳になった僕は、夕暮れ時の空に浮かぶ入道雲を見つめていた。
家に帰っても、なにもない。
知っていた。
誰も僕に興味はないって。
僕が良い子でいる時に限って、興味がない。
僕は僕で、良い子を辞める勇気がない。
だから、父も母も、僕に興味がない。
ずっと、ずうっと。
道端に生えている、青々とした雑草が強い風になびく。
そういえば昔、この場所で……。
このときになってようやく、かつて僕を気にかけてくれた人がいたことを思い出した。
名前を知らない、顔も覚えていない、何歳くらいの人かもよくわからない。
僕より年上の女性だったことだけは覚えてる。
「どうしたの」
彼女はそう言って、僕に歩み寄った。
今思えば……小学生の男子がひとりで公園にいるのは、おかしなことだったのだろう。
だから彼女は、心配したのだ。
けっして連れ去るつもりじゃなかった。
けれど僕は怯え、身構えた。
彼女は、そう、そうだ。母とよく似ていたから。
身構えた僕を見て、彼女は言った。
「なんにもしないよ」
それから彼女は、ポケットに突っ込んでた財布から、小銭を取り出した。
二枚の100円玉を、僕が座るベンチの手すりに置く。
「これでジュースでも飲みな」
「受け取れません」
母の言いつけどおりの言葉を返した。
彼女は聞こえなかったみたいで、そのまま歩き去ってしまった。
僕は、恐る恐る小銭を手に取る。
……かなり迷ったが、スーパーで1枚だけ使うことにした。
紙パックのリンゴジュースを買って、すぐに飲み干した。
美味しいとか、そんなことは思わなかったけど。
体が元気になった、気がした。
あれ以来、女性とは会っていない。
お礼をしたい、あの時もらった200円を返したい。
そして、できるなら名前を知りたい。
どこの誰なのか、知りたかった。
近くの公園に、女児がいることに気がついた。
彼女はひとりでブランコに座っている。
日はだいぶ傾きはじめている。
こんな時間に、どうしたんだろう。
僕は、彼女に声をかけた。
夏の公園特有の、青臭い香りが鼻腔をかすめた。
【夏草】
ふと、婆ちゃんによく似た声が聞こえた気がして振り向いた。
けれどそこにいたのは、婆ちゃんじゃなかった。
夏の暑さが少し和らいだ、昼下がりの公園。
私は2人用のベンチに座り、コンビニ弁当を食べていた。
そんな私のところに、そいつはやってきて言った。
「どーしたのぉ」
「……婆ちゃんのマネしないで」
「寂しそうだったから、つい」
それはまるで、凍てつく水面に素足のまま浸っているかのような。痛みのある会話だった。
幼馴染であり、腐れ縁でもある彼は言う。
「他にも人がいるのにな」
棘のある言葉。
確かに私には、他にも家族が多くいる。
友達も、親戚の人たちも、けれど。
「あたしの婆ちゃんは、ひとりだけだよ」
私はベンチを立つ。
「婆ちゃんにしか頼らないから、他のやつなんてどうでもいいってか?」
「どうでもいいんじゃないよ」
「じゃあなんだよ、興味ないってか」
そうだ、と言ったらどうなるか。
分厚い氷に、ヒビが入っていくかのようだった。
私にとって婆ちゃんは、かけがえのない存在だ。
だから……その穴を埋めようとしてくる彼らが、ひどく憎かったんだ。
頼ってほしいなんて、言われたくなかったんだ。
【素足のままで】
大切な友達が、目の前で横たわっていた。
雨の中、わざわざ水たまりの中へ放られたかのように。
大切だった友達が、ボロボロの体で捨てられていた。
なんで? どうして、こんなことを。
湧き上がる憎しみの熱も、雨に打たれてすぐ冷える。
つめたい雨水が体を伝い、指先はブルブルと震えるほどに凍えだした。
なぜこんなことに。
私のいない間に、なにがあったの。
誰がやった。一体、誰が。
こんなこと本人が望むわけないのに。
悪意がなきゃ、こんなことにはならないはずなのに。
それなのに。
友達に一歩、近づく。
友達は動かない。
その目にはなにも映していない。
表情はずっと無感情のままだった。
もう、笑ってくれないんだと悟った。
「あえ……」
呂律が回らない私の脚が、言うことをきかない。
あと一歩、もう一歩進めば、友達の頬に触れられる。
その顔を、温められるのに。
「なんでぇ」
泣きそうに疑問を口にして、気づく。
私が目を逸らしている事実。
……もう会えないんだっていう、現実に。
うそだ、そんなのありえない、そうでしょ?
何度そう思っても、友達に近寄りたくても、脚が動かない。
そんな自分がいることを、信じたくない。認められない。
けれども私は、一歩を進めないままだ。
この一歩を踏み出せば、泣き崩れてしまうから。
そしたらきっと友達はひどく悲しむ。
友達が悲しむ理由を、知っていたから。
あと一歩だけが足りない。
【もう一歩だけ、】
これはまだ先の話。そう、未来の話だ。
白く光り輝く刻印『勇者の証』を受け取った俺は、王様と国民たちに見送られながら、はじめて足を踏み入れた王城をその日のうちに出ていくことになる。
旅の途中、資金が尽き行き倒れていた魔術師ユーナを拾い。
聖騎士の称号を剥奪された元騎士団長ハロルと意気投合し。
巨大な鳥に乗って俺らの荷物を奪い、追い回され、結局捕らえられた盗賊団の一人娘ヤンと『ちょっと嫌味な約束』を交わし。
一年半もの時間をかけ、魔王城へと攻め込み……そして負ける。
俺以外の仲間全員が息を引き取った後の世界については、多くの説明を省くが。
端的に言えば、惨たらしい世界となる。
それはまだ先の話。そう、未来の話だ。
では、なぜ今俺がそんな話をしたのか。
それは――阿鼻叫喚の世界が、いつの間にか。
一年半以上前に訪れ旅立った王城の中だったからだ。
呆然としてしまった。
これは一体なんだ、夢か?
それとも……時が、巻き戻ったのか?
「此度の勇者は『そなた』だ」
王様は言った。俺よりも小柄で、一見華奢そうな見た目をした、すべてにまだ幼さがある少女に。
「名は?」
王様の問いに少女は答えた。
「ヤン! ヤンです!」
やっぱりヤンだ。
ヤンが、勇者に選ばれた。
そのことを理解した瞬間、俺は彼女の元へ足早に駆け寄る。
それから俺は、ヤンに言った。
「お前に勇者は務まらねえ! よこせ!」
記憶の中にある、ヤンが俺に向けてはじめて口にした言葉をそのまま使った。
ヤンと交わした『全部終わったら、勇者以外の全員は生きて故郷に帰る』、その約束を果たすために。
【 遠い約束 】