君がさよならを告げる頃
私は汗の匂いとシミばかり気にしていた
焼かれて転がる蝉を踏まないように歩いたあの日
夕焼けに滲む花畑が、嘘みたいに綺麗だったあの場所で
私が気にしていたのは君じゃなかった
塗りたくった化粧は溶けていないか
傷んだ鼻緒が今に千切れてしまわないか
立ち寄った喫茶店で忘れ物をしなかっただろうか
湿った髪の項垂れる気配がする
滴る汗が煩わしくて、纏わり付く裾に苛立って
洗った服は皺になるかな、面倒だな、なんて考えて
投げ出した現実を尻目に、無益な明日を憂う
呆れた顔で笑う君のこと、本当はどうでもよかった
初めから恋していなかった
最後まで愛せなかった
早く自由になりたくて、一人の私へ帰りたくて
なのに、どうして応えてしまったのだろう
それより次に買う服は、スカートじゃなくても良いかな
二人を割くように飛び上がる花火の何と虚しいこと
本当は嫌いだったの
嫌で嫌で、仕方が無かった
君のことじゃないけれど
いや、結局合っているのかも
嫌いだよ、大嫌い
誰よりもずっと
(真夏の記憶)
重苦しい熱を吸って膨らみ続けた心
深く根を張って、ただ空を睨むばかりの老いた体
自らを運ばず滞る命
皺だらけの両手で芽を摘んで回る不毛
罅割れた廃墟を巡る列車は亡霊共を揺らさず
見下ろすこともなく、直向きに遥か天へ向かう
残された者の気持ちなど、慮る意味すらなかろうよ
車窓からいまだ忍び込む滑稽な恨み節
這いずるばかりの体たらくで何を誇るか
朽ちるを待つ古像に捧ぐ愛など一雫すら惜しく
乾いた彼等は今日も乾いたまま
飢えて恨んで勝手に嘆く
さぞ哀れな善良の面をして、巡る世界を嘆き憂う
一体いつから熱が冷めてしまったのか
刻む鼓動に宿るそれは失われてしまったのか
泣き叫ぶ襤褸の反響、何と愚かしいこと
愉快さも無く、新しさを拒む過去の民
風は彼等を置いて行く
遠く遠く銀河の果てへ去って行く
やがて列車が辿り着く頃、誰の記憶にも残らない
怨嗟を吐き続け溜まった池も
自ら塞いだ洞穴、そして最後に残った暗闇も
滞り無く塵と消える遺物でしかない
知らぬ存ぜぬ時代の魔法はとうに解けて
残ることを選んだ、枯れゆく花を置いて行くのだから
かつて美しく咲き誇った
その誇りだけを抱いて眠って欲しい
(風を感じて)
風鈴の鳴る夕暮れ時、縁側から裸足のまま駆け出して
子どもたちを急かす横断歩道
売れ残りを忌々しげに振り回す店主の声
引き留めるような蝉の群れ、命を燃やした絶叫
きっともうすぐ聞こえなくなるわ
色も温度も価値を失う裏側、根の底
張り詰めた糸でこの胸を穿って、いつか私を終わらせて
今日こそ私を連れて行って
か弱い灯火を繋いでしまった、宙ぶらりんのあなた
在りし日の思い出を私はずっと忘れない
もういいかい、叫ぶ声は遠く消えて
白色がお好みでないのなら
どうぞ気が済むまで染め上げて
赤でも黒でも、どうせ滲み出る心で汚れてしまうから
どうか私を連れて行ってね
滴る想いは無垢を浸食してしまったわ
息をするのも億劫なほど、募らせて、抱き締めて
だって本当に会いたくて仕方がなかった
今度こそ一緒にいきたくて
疼く心はいつしか膿みを零して、塞ぐ杭すら融解して
もう引き返す足も持たないわ
半端なあなたは、腐った約束を捨てられない
いつか願った幸福の残滓
輝くことを放棄した夢幻の成れの果て
あなたは私から離れられない
もういいかい、啜り泣く声に誰も返さず
あなたは覚えているのかしら
ねえ、誰を呪ったの、何を守ったの
一体何故、裏返ったの
葬った記憶を掘り返して、爛れた心を見てみたい
この心を奪ったのだから、開いてくれなきゃ可笑しいわ
あなたの為だけに磨いたの
今この時まで確かに守り抜いたのだから
熟れた灯火を喰らって飲み干して、骨まで溶かして
そうでないと許されない
そうしなければ許さない
結局私はあなたに焦がれて眠れない
同じ言葉はもう繰り返さないで
明日を待つのはもう辞めたの
聞き飽きた台詞で誤魔化される少女の季節は終わったわ
今こそ私を連れて行って、向こう岸まで連れて行ってね
落ちる間際に鼓膜が揺れる
もういいよ、を聞き届けて
(またね)
弾けるように、溢れるほどに、零れる想いを歌っても
いつだって一人きりの舞台
生まれた所も帰る先も分からずにいる
雑踏に紛れる小魚たちは興味無し
色違いの餌を拾って肥え太り、ぶくぶくと笑っている
見飽きた図形を連打して
複製された餌で満たされる
とうに褪せた老耄を噛み砕き、薄くなれば吐き出して
初めから知らなかった振りをして通り過ぎる
歯間に挟まる腐肉と骨を、気持ち悪いと吐き捨てる
けれど責めることは出来ないな
彼らに義務はない、知恵を詰める器がない
虹の色の美しさに潤む目がない
落ち窪んだ空洞は何も映さず、死んでいるみたいだ
朽ちた鯨の骸が、やがて世界に溶けるように
それでも明日は訪れる
貪る傍観者へ想いを馳せて
恋焦がれる乙女の芝居で祈りを捧げて
絶えた味覚を模倣して笑い合う
まだ讃えられる素晴らしき海なのだと叫ぶ
なんて色鮮やかな世界
溺れてしまいそう、深く深く沈んでしまいそう
からからと鳴る頭へ詰めることを諦めて久しい
一つ弾ければ、雪崩れるままに
同じ顔して、同じ向きへ、同じ速さで泳いでいく
先頭は怖いから息継ぎの素振りで後退する
中央は騒がしいから息が苦しくて
末尾は振り落とされてしまいそうで恐ろしいな
独演劇は、私にはまだ寂しくて
地味な鱗が、歪な鰭が、無性に恥ずかしくて
塗り潰して媚び諂い、可愛い小魚になれたら良かった
この声を溶かして、流して、世界の隅に散りばめて
そうしてあなたまで至る酸素になりたかった
きっと今も海底に眠るあなたへ贈りたかった
たった一人の紳士、あるいは淑女へ
神でも悪魔でもなく、あなただけに捧げる
今宵だけのバラッドを、忘れられた夢の果てを
(泡になりたい)
皆が囲って手を翳して、揺れる巨大な冠のように
甘やかな顔を、蜜より蕩ける声を、花開き香る肢体を
けれど波を割る救世主にはなれないまま
深い深い海の底、哀れな王は溺れ死んだ
泡のように花弁を散らして、最後の一枚まで嘆きもせず
どうして隠れていてくれなかった
あなたの一声で誰もが目を覚ました
一晩踊れば阿鼻叫喚、もう一夜を越えれば炎熱地獄
その煌めく爪先は何より鋭い凶器になった
狂い合い、どよめいて、後には何にも残らない
みんなみんな、あなたのせい
芽吹いてしまった、咲いてしまった
一生、土の下で踏まれて生きれば良かったのに
冷たく暗い世界でも、あなたのままでいられたのに
神になどならずに済んだのに
そのくせ輝こうとする私を止める
羽ばたこうとする手首を掴んで
空から見下ろすちっぽけな芽はさぞ可愛いでしょう
結ばれない、見えない、あなたの顔が
不器用に歪んだ三日月の瞳、間違い探しの上向き口角
真っ白に燃ゆる炎の髪も
あんなにあんなに、愛しく思っていたのに
憎くて妬ましくて、何よりも誰よりも欲しかったのに
己の手の甲に遮られて、私の顔に影を落とす
瞼越しに、今日も暑いからと囁く声がする
慈愛のつもりか、救済のつもりか
あなただけを救えなかった、私への罰か
どうせ惨めに枯れるなら
いっそ摘んでしまえば良かった
折れる前に、風に運ばれてしまう前に
あなたを閉じ込めて、この胸の中で咲いて欲しかった
小さな園で歌って、踊って
たまに固い膝で眠らせて欲しかった
この心を秘して凍り付いた、私への罰なのだろう
分厚い氷の向こうから溢れる
あなたの光に目を細める
等しく照らすその光に、私は今日も焦がれている
どうしようもなく黒焦げになって
太陽を摘み取る明日を夢見ている
(眩しくて)