自分の気持ちに、行動に、自信がなかった。
だから君に気持ちを伝えることも躊躇ってたし、もうこのまま言わなくていいかなって思いながら眠りにつくんだけど、朝起きるとやっぱいつかはとか思っちゃんだよ。
朝日が背中を押してくれるんだけど、夕日に引き戻されて、同じことを繰り返してた。
なにやってんだろうって肩を落としても、状況が変わるわけもなくて。
映画や夏祭りに誘えなかった。
それどころか君の前じゃ上手く笑えない僕を君はどう思ってたのかな。
線香の煙が揺れる後ろの方で笑う君は、思い出の人になってしまったから、新しい記憶をくれない。
頭の中で思い出をひたすら繰り返すだけ。
記憶の中で愛を叫んでも、その続きが無い。
だって君が僕を好きだったかわからないし、それ以前に愛を叫ばれた君がどんな反応をするかわからない。
この後悔は骨になっても、灰になっても、世の中のどこかで彷徨い続ける気がする。
どんな形であっても君にもしも再会できたとしたら、そのときはしっかりと君の目を見て、僕のすべてをのせて愛を叫ぼうと思う。
ひとつだけ聞いて欲しいことがあると切り出したあの人。それは、永遠の眠りを共にという誘いだった。その誘いは上辺であり、僕を唆すための戯言であることをうっすら察しながらも、無垢な僕を演じ続ける。口車に乗せれたと思ったのか、意気揚々としているあの人を痛々しく思う。僕はもう子供じゃなくなってしまったみたい。あの人の汚い部分を汚いものとして受け入れてしまっているから。あの人は僕だけを殺して、昔の恋人と再び暮らすのだろう。勝手にすればいい。あの人が誰かの元へ還っていくように、僕も僕が在るべき場所へと向かうから。最も、あの人は欲張りだから僕の自由を許せないだろうけど。それでも、ふたつ手に入れることができないことを心得ているはずだ。だから、ひとつだけ。そうやって生まれた分岐の二択で、僕の時間だけを止めることを選ぶのはとても強欲であり、傲慢だ。それならいっそ甘い言葉などは浴びせず、無惨に殺してくれて構わないのに。僕は、あの人を赦したくない。憎みながら死んでいきたい。息の根が止まる寸前まで憎むことで煮詰まった思念を遺して、いつまでも苛んでやりたい。楽になんてしてやらない。あの人だって覚悟はできているはずだ。少なくとも僕はできている。甘い言葉に酔わなくても、痛みや苦しみに耐えることは容易い。だって、このコーヒーは眠剤入りだもの。嚥下して間も無く意識が落ちる。そして、灯油で弧を描いてマッチを灯せば、すべてが終わって永遠になる。
「いいですよ、僕もそれを伝えようとしていました」
「……え、本当かい? ああ、よかった。断られたらどうしようかと思って気が触れそうだったんだよ」
全くおかしなこと言う人だ。元々気なんて触れているだろう。今だってそうだ。まともじゃない。
「断るなんてことしないですよ。さあ、あなたの好きなようにしてください。ちゃんと従いますから」
「ありがとう。目が覚めたとき、今度こそお互いのたったひとつになれることを祈って——」
嘘つき。
たぶん、この言葉は届いていない。
このまま永遠が始まると思うとやりきれないけど、仕方がない。今更、もう。
ひとりで幸せになっちゃった君を僕はたぶんずっと許せない。僕と同じように苦しんでほしかった。
僕のことはもう忘れちゃった? てか、そこからじゃなんも見えないか。それでも僕の声が聞こえてるなら、かつては君もここに居たことを忘れないで。
君は、僕の隣で、その場所を見上げながら呪いの言葉を吐き連ねてた。僕たちは同じ痛みを共有してた。なのに、君は突如として僕に黒いものすべてを押し付けて、そこに行った。涙を流して、唇を噛み締めながら、許せないって言ってた人と幸せになろうとしている。君は、幸せになろとしてる。身勝手な君は、幸せになろうとしている。
許してとかごめんねとかそんな言葉が欲しいわけじゃないよ。ただ、僕のこと忘れないで。僕のことを覚えたまま、幸せになって。なれるよね。なれるよ。君は最低だから。死ぬほど最低だから。
君の涙は黒い。純白のドレスも鈍色に澱んでる。綺麗になったつもりだけど、僕には君の穢れがぜんぶ見えるよ。僕は君の黒いものを受け取ってやらない。返しに来たんだ。ぜんぶ、ぜんぶ抱えたまま、幸せになって。ちゃんと幸せになってね。
「お前の父ちゃんな、お前を担保にして逃げてしまってん。ここからが本題な。お前には三つ選択肢があんねんけど、どないする? 一つは、角膜と肺を売って金を返す。二つ目は、知らんおっちゃんの相手してコツコツ返す。三つ目は、俺と逃げる。好きなん選び」
「どれでもいいです。あなたの好きなようにしてください」
「他人に権限を委ねるっちゅーことは、最悪な選択されても断らんと従わなあかんくなるんやで? そんなんでええの? 今やってそうやん。実のお父ちゃんにええようにされてねんで? 自分が置かれてる状況を理解できてんのか?」
視線を地面に這わせたまま頷く少女を健気に思った青年は、腕を掴み、誰も知らない場所を目指す。
情が湧いたのだ。今に始まったことではない。幾分も前から、職業上らしからぬものを胸に抱いていた。何度もこの仕事は自分には向いていない、今すぐでも辞めてしまおうという気持ちがあった。しかし、この仕事をやめれば、少女の生息がわからなくなってしまう。それだけが気がかりであり、足枷になっていた。そんな葛藤も少女の手を取った瞬間に粉砕したわけだが、今度は別の葛藤に苛まれている。逃亡という苦しい手段を取らずとも、もう少しやりようがあったのではないかと思わずにはいられないようだ。とはいえ、青年に選択肢はなかった。この仕事が向いていない青年は、この仕事をする他がなかったから。向いていないという苦悩を抱きながらも、続ける以外の選択肢がない自身の人生を恨んだ。そういう星の元に生まれてしまったことを。努力をしなかった自身を。
「こんなことになってしまうってわかってたら、もう少し真っ当に生きてたのに。できてたはずやのに。なんでずっと逃げるばかりを続けてしもうたんやろうか」
青年の後悔が、とうとう口を突いて出た。
一方、少女は心ここに在らずと言った面持ちで、車窓の向こうにある景色を眺めている。
「お前の父ちゃんは、お前よりも金のが大事やったんかな」
それは独り言のようであって、語りかけているようでもあった。
「疑問に思うまででもありません。答えは明白です。だって、姿を晦ましたということがすべてですから」
少女の繊細な睫毛が微かに揺れている。込み上げてくる感情を、涙を堪えているのだろうか。表面上は飄々としているが、その実、心を痛ませているに違いない少女を追い詰めるようなことを無神経に口走ってしまった自身を執拗に苛んだ青年。
「ごめんな。今のは空気読めてへんかった。そもそも訊くようなことちゃうし。ほんま悪かった」
「わからないです。あなたが謝る意味も、膨大なリスクを背負ってまで私と逃げる意味も」
「悩むこととちゃうぞ、そんなん。めっちゃ単純な話やで。俺にとって金よりも大事なんは、お前ってだけ。そんだけのこと」
「……前から思っていましたが、あなたに取り立て屋さんは向いてないような気がします」
「せやから辞めてん」
執念深い奴らを敵に回した以上、永遠というのは無理なものだが、この逃避行がなるべく永く続くようにと胸に浮かべ、互いに祈る青年と少女であった。
迸ってどうにもならない欲望を少しでも癒すために自分で自分を慰めたら、時間差でやってきた虚無に首を絞めらている。
ゼロ缶をストローで呑むのはよくないからやめなって、制してくれたあの子はもう居ない。
月明かりさえ差し込まない閉鎖的な暗い部屋でギターロックを爆音で聴いた。耳が壊れそうになるくらい大きな音で聴きながら、いつまでも泣いていた。特別に騒がしい曲を聴けば頭の中にある嫌なことすべてを粉砕できるような気がしたけど、頭が空っぽになる代償に涙が余計に止まらなくなった。なにをしたって苦しいのは変わらないみたいだ。
水道水は臭くて苦いから飲みたくなくて錠剤を噛み砕いて嚥下したら、胃が焼けそうなくらい痛くなった。惨めで可哀想な自分を慰めてあげなくちゃって、熱に浮かされてまた振り出しに巻き戻し。苦しくてたまらなくなるってわかっていても、芽生えた欲望を打ち消すことができない。欲望の赴くままに従っているうちに後悔も薄まっていく。
“ああ、これでまたまともから遠のいてしまったな”
頭の中で小さく響く自分の声。少し悪い気がしたけど、欲望の支持はいつもほんの少しだけ僕をいい気分にさせてくれるから、今は正気に戻るなんてできそうにない。何時間か先に居る自分に数回謝って、あとは欲望に意識を預けた。
そこは地獄の入り口で、一度踏み入ったら離してくれない。頭がおかしくなるまで僕を揺さぶり続ける。使い物になったら灰になるまでじっくり焼かれて終わり。
さみしいね、くるしいね。
嘆きには共感して頷いてくれても、目を合わせてくれる人は、ひとりも居なかった。
僕を見下ろす人の顔はみんな同じで、あの子に似た人は見つからなかった。
もうやだね、しんじゃいたいね。
知らない人の涙が僕の頬に落ちた。それは、からだの中を巡る血液みいなぬくもりに満ちていた。最も深いところ、いのちそのものに触れたような気がした。このまま続くような気がした。なのに、朝になったら冷たいベッドにひとりで眠っていた。その頃には落ちた涙も冷たく乾いてなくなっていた。
ぬくもりが消えていく過程は人が死ぬときと似ているなって思いながら、カーテンを開けたらよく晴れていて、生きていることを責められているような気分になった。
テーブルの上に忘れさられた煙草の箱を開けてみると、二本だけ煙草が残ってた。徐に咥えてガスレンジで火を灯した。回る換気扇へ向けて煙を吐き出すとき、昨日僕に触れた人も、あの子も、どうか幸せにならないでと願った。