行くあてもなく列車に乗ってぼんやり車窓を眺めていると、見覚えのある景色が眼前に飛び込んできた。その拍子で浮上する苦い思い出の数々。
できるだけ奥底に沈めてあやふやになった輪郭が、再び形を帯びていくのはあっという間のことだった。阻止しようと試みても、湧水のようにあふれてくる残像に抵抗する術がない。
不幸せそうな表情のすべてを元の形のままに思い出してしまったら、俺はまた俺を殺すことになると、必死に訴えても俺の頭の中はあの人を映す。俺の心は未だにあの人が独占していることを知らしめてくる。
記憶の中のあの人と目を合わせてはいけない。骨が浮いてどこか哀愁を帯びた背中に決して触れてはいけない。それは罠だ。できるだけ濃い靄を浮かべて、誘惑のすべてを覆う。なにも見なかった。なにもなかった。すぺて気のせいだ。
払拭するために乱雑な言葉を矢継ぎ早に放つのは、ただ惨めに思えた。どうしたって救われない。今更になって列車に乗ったことを後悔している。
あの人が住む街を通り過ぎた。
車窓の向こうには曇天が広がっている。壊れかけのイヤホンからノイズ混じりで聴こえてくるのは、かつて好きだった曲。
ポケットの中にあるスマホを引っ張り出して、ひみつのアカウントを開く。
“あの人が教えてくれたバンドの曲、消すの忘れてた。もうあの人は俺のことなんて忘れて別の人と生活をしてるんだよな。俺だけ憶えてるとかどんな地獄なんだよ、これ”
無機質なゴシック体では俺の気持ちの1%も現すことはできないけど、誰も見てないことをいいことに行き場のない気持ちをいくつも書き連ねている。
不特定多数の誰かじゃない。あの人に届いてほしい。あの人だけに向けて言葉を吐き出し続けているけど、それは叶わない。だって、あの人はSNSなんてやらないから。
「苦手なんよ、こういうの。マジで何書けばいいかわかんねえっつーか……書くこともなければ、見て得るものもないのかもしれない」
いつか話してくれたことが蘇る。
確かにあの人の言う通りだと思う。ヘイトの割合の方が多いし、気分を害すことが過半数であるいわば地雷を自ら踏むなんて馬鹿げてる。そこから生まれるものも、得るものない。
俺が運営しているひみつのアカウントは無意味だ。掃き溜めでしかない。ゴミ箱を好き好んで覗く人は居ない。俺だってそんな滑稽なことはしない。
諭せば諭すほど深い絶望に覆われて狂いそうになる。自分自身を諭すことは、あの人との関係が進行形には戻れないということを再自覚すること。どれだけ「もしかしたら」という期待を膨らませても続きは芽生えない。
・
・
・
何気なく話した夕日に溶け込みたいという話で、処方される薬が増えた。
「お薬、ちゃんと飲んでくださいね。そうじゃないといつまでも彼のことを引きずったままになってしまいますよ」
消毒液のにおいが充満している待合室で、そう告げてくる声音はどこか辟易としているようだった。
子供騙しみたいなことで服用を促すなんて大した医者じゃないなとか胸のうちで悪態をつく。
長ったらしく忘れるのを待つなんて面倒なことをせずにビールで流し込んで早々に忘れてしまった方が楽だ。
カバンの中に潜ませておいて缶ビールを手探りで探しても、それらしき感触に行きつかない。
代わりに入っていたのは、ペットボトルの炭酸飲料。透明で甘いやつ。診察中に看護師がすり替えたのだろうか。
やるせなくて涙が零れた。俺は一体、なにをしているんだろう。あの人が浮かんでしまうから、泣くのは嫌いだ。
どうしたらいいのか。どうしたら手に入るのか。どうしたら、俺を必要としてくれるのか。
未だにこんなことを思う。
答えは存在しない。疑問に答えてくれる人は誰も居ない。唯一の薬は時間だって言ってたけど、あとどれくらいかかるのか。ただ薬の量が増えていくばかりで、なにも変わらない。記憶が美化されるのと比例して、惨めになる。
ふと気づくと、またあの列車に乗ろうとしている俺が居た。分岐点に戻れる列車に辿り着くまで繰り返し続けていく。いつしか望んだ列車に辿り着き、分岐の場面に直面したのなら今度はあの人と出会わない人生を選択しようと思う。すごく悲しいけど、きっとそれがいい。
あの子にさよならを言わないまま遠くの街へ行く。きっともう二度とここに帰ってくることはできないだろう。
どんな選択をしても後悔に苛まれるのなら、あの子を憶えたまま苦しむ後悔を選びたかった。それはたぶんかつてあの子が呟いた「忘れることは簡単だけど、そいうのってなんか卑怯だよね」という言葉が棘として胸に刺さったまま消えないことが影響しているのだろう。
夜空に浮かぶ星たちの光を集めたら、永遠に解けない魔法が完成する。僕にまつわるすべてを抹消させるための魔法。この魔法が成功する算段は十二分にあるし、朝になれば父さんも母さんもあの子も、みんな僕のことを綺麗さっぱり忘れていることだろう。
万が一、脳裏に浮かんだとしても、ぼやけた記憶を手繰り寄せたりしないほしい。僕を探さないでほしい。僕を思わないでほしい。それは夢の切れ端だ。存在しない記憶だ。すべて偽物だ。僕は最初から存在しない者で、父さんや母さん、それからあの子に魅せた「僕」は嘘でいっばいの悲しい幻影。
もう少し上手くやり通せたらよかったけど、僕には無理だった。笑顔を浮かべているのに涙で頬を濡らすあの子を見たら居た堪れなくなったから。
魔法以外のものをどれだけ継ぎ足してもあの子の中から彼は消えない。彼と過ごした記憶も美化され続けて、僕では拭えない寂しさがあの子を壊そうとしている。
結局、僕は僕でしかなくて、彼になることはできないと思い知った。そうやって中途半端だから、お師匠様にも見捨てられてしまったのかもしれない。
次は、次こそは、ここよりずっと遠くの街では上手くいくだろうか。自信はない。遠くの街へ行ったって僕は性懲りも無く父さんや母さん、あの子に似た人を探してしまうだろうし、また同じ過ちを踏んでしまう気がしている。
何者かになるなんて到底無理で、仮に上手くやり過ごせたとしても、偽りで得た幸せの味は舌ですぐに溶けてなくなる綿飴のように儚いことだということもわかっている。それでも僕がこの滑稽でしかない一連の流れを繰り返すのは、誰かにとっての本物いわゆる僕が僕として存在できる日々を諦めることができないから。いつかは獲得できるんじゃないかって、信じている。
さあ、準備は整った。長い回想と後悔に区切りをつけて元の位置に返してあげよう。
無事にみんなが僕を忘れて空が青ばんだ頃、箒に跨って冷たい空気の中を縫うように遠くの街を目指す。
ごめんね、ばいばい。
母国語が異なる人を愛した私を母は許さなかった。
「彼が、お前によこした言葉に深い意味などない。世間知らずの大馬鹿者。恥を知りなさい」
母は私を延々と罵り、私の頬を叩き続けました。
あまりのことに言葉を失い、私は母を見ることすらできませんでした。
それは母からの罵倒や暴力に消沈したわけではなく、彼が私にくれた愛の言葉が、真実ではないかもしれないということに心を痛めたからです。
じんじんと痛む頬へ平手打ちが容赦なく繰り返される最中、私は彼を想っていました。
冷たい雪が舞い落ちる中、彼が私に告げた愛の言葉が耳から離れないのです。
あのときの体中を駆け巡った熱い疼きが、今も続いているのです。
——もう、あなたには会えないのでしょうか。
届かない言葉を胸の中で何度も繰り返します。当然、誰も答えくれません。頬の痛みより、胸の痛みで涙が溢れました。
・
・
・
涙で濡れた枕が冷たくなる頃、逢瀬を交わすためによく乗車していた電車の音が遠くの方から聞こえてきます。
「今晩のように月が美しい夜に必ず迎えに行くよ」と、彼は言ってくれましたが、それが現の話だったか、夢の話だっか、今は思い出せなくなってしまいました。
彼の声や面影も徐々に曖昧になっていく恐怖に苛まれる日々を過ごしています。
これは罰なのでしょうか。
単に私が盲目なってしまったから悪夢を見ているのでしょうか。はたまた母の言う通り、あの言葉はよくある挨拶の類だったのでしょうか。
私は期待をしてしまったのです。信じてしまったのです。そんな私を彼は滑稽な女だと、どこかで嘲笑っているのでしょうか。
例えそうだったとしても私は彼を待ってしまうのです。
暗く閉ざされた場所で、光が差し込むのを静かに待っているのです。
弄んだのなら、いっそ殺してください。
若気の至りだったと割り切ることができないのです。歳月と共にあなたを忘れていくのが怖いのです。
とても好きだった。この身をかけて愛していた。ただ、それだけ。ただ、それだけだったのです。
拝啓 十年前の俺へ
この十年のうちにあの人はかねてより縁談のあった綺麗な方と結婚してしまいました。今度の冬に子供が生まれるそうです。ここまでの文脈でおそらく察しているとは思いますが、あの人を忘れることができない俺はその広すぎる家に今もひとりぼっちで暮らしています。あの人以外の人なんて到底無理ですから、きっとこのまま生涯ひとりで過ごすことになるでしょう。
気を落とさず、下記をしっかり心に留めてください。十年前の俺なら、まだ間に合います。分岐に直面したとき、どうか躊躇わず、心の赴くまま素直に選択をなさってください。
あの人と春になったら一緒に眺めようと約束して庭に埋めた色とりどりのチューリップが咲き誇る頃、あの人が俺に答えを委ねることがあると思います。しかし、俺があの人を想って出した答えは、あの人を幸せにすることはできません。そして俺の出した答えにあの人は悲哀に満ちた表情を浮かべます。そうです。俺は、あの人を深く傷つけてしまったのです。よかれと思ったことは裏目に出ます。正しさだけが正義ではないのです。ですから、教会の父の教えは一度、忘れてください。その首にあるロザリオは本当のことは教えてくれません。望んだ方へは導いてくれません。俺は、あの人のあの顔を思い出にすることすらできなくて、長い間とても苦しむことになります。この手紙を認めている今も傷ついたあの人のあの表情が浮かび、涙があふれてきます。俺は、なぜあの選択を最善だと思ったのかわからないです。今これだけ後悔をしているのだからきっと間違っていたのでしょう。
あの人はご自身の家柄もあってか本当の自分を隠し、また心を殺しながら、とても苦しそうに生きていることを俺はよく知ってますよね。いや、俺だけしか知らないというのが事実です。あの人は他に助けを求めることができません。手を取り、共に逃げ出し、あの人を解放できるのは俺だけです。俺しか居ないんです。
いつの日か俺があの人にあなたにとっての幸せとはなにかと訪ねたときに、あの人が言ってくれたのは紛うことなき俺です。それが俺とあの人を繋ぐ確たるものであることは明白です。決して疑ってはなりません。あの人が一番に想うのは、想ってくれているのは、俺です。これは悪い妄想の類などではありませんし、気が触れているわけではありません。あの人が俺を想う気持ちが、一体どれほど尊いものなのか、幼過ぎた俺は気づくことができなかったのです。ゆえにあの人を傷つけてしまった。俺にとってあの人を傷つけてしまったことは、教会の父に教えてもらったあらゆる罪よりも重い罪に値し、赦されないことだと思っています。あの人の言葉を思い出し、反芻してください。そこに必ず真実があります。それを忘れないでください。絶対に、です。俺は俺自身が信じたいものを信じ、またその幸福を祈るべきなのです。
あとのことは十年前の俺、君に任せます。どうかあの人を幸せにしてください。あの人の手を離してはなりません。今の俺から与えられるヒントは全て与えました。あとは君の心に従うだけです。再三申し上げている通り、他の誰でもない自分自身の心に従うことが重要です。あの人と過ごす未来が君にあることを十年後から祈っています。あの人と今の俺の希望は君だけです。負担をかけることを申し訳なく思いますが、どうかどうか頼みます。
敬具 十年後の俺より
「うっわ! それ、めっちゃおもいろやん。ほんで?」
「それ以上のことなんてなんもないよ。通学路にある竹藪にチョコ捨てられて、そんで終わり」
「なあ、ガチなんか? ほんまにガチなんかそれ。あいつ最低やん。顔面バチクソに叩いたろかな」
「いろいろしんどいことになるから、それだけは絶対にやめて」
「とりあえず、捨てられたチョコは俺が見つけたるやん」
「いいよ、やめて。そんなことしなくていい。大体、見つけてどうするの」
「決まってるやん、そんなん。食べ物なんから食うやろ。普通に」
「打ち捨てられたやつ食べるとか不衛生の極みだから。下手しなくてもワンチャン死ぬよ」
「全然平気よ。俺、気にせんもんそういうの。全然食うし」
「危機感どうした? お母さんのお腹の中に忘れてきたん? ……てかもうないから」
「なんで? あるかもしれんやん」
「ない。ないんだよ。回収しようと思って夜中に見に行ったら、なんかゴソゴソ音してスマホのライト向けたら、わけわかんねえくらいでっけえ犬がチョコ貪ってたからもうない」
「……ッ、ふふふふ、ごめ、あははははは!!!」
「は? 笑わないって言ったのになんで笑ってんの? 今日を命日にしたいってこと? いいよ、わかった。今からあんたの頭をそこの鉄バケツで叩いて、花壇に埋める」
「ごめんごめん。ほんまごめん。そんな怒んなて。てかさ、それやったらその犬ごと俺がチョコ食うたるやん」
「なんで? なんでそうなるの? そこまでしてチョコ食べたいなら、もう買いなよ。お金やるから買って食べな」
「いや、それはあかん。バレンタインデーに自分でチョコ買うんはセンシティブすぎるっちゅーのもあるけど、そこはさぁ、お前の作ったやつやないと意味ないんよ」
「そんなの知らないし、別にあんた宛にチョコ作ったわけじゃなんいだけど」
「俺宛ちゃうくても構わへんよ。どんな形でもあっても、お前のチョコ食えるんやったら、俺はめっちゃ幸せやねん」
「なんかさ」
「おん?」
「割とグロいこと言ってんの気づいてる?」
一頻り笑ったあとマックに寄り道して「バッドバレンタイン乾杯!」とかわけわかんない掛け声と共に三角チョコパイを食べた放課後を馬鹿みたいにいつまでも憶えてる。
いつか忘れてしまったとしても、死ぬ間際に思い出す気がする。
おじいちゃんが言ってた。薄れてしまった何気ない日々が、ふわっと色鮮やかに蘇るって。それは人生で最も豊かな時間で、最も大切な記憶らしい。
あいつが今でも自分の隣に居てくれたらよかったけど、そういうのって概ね叶わない。
どうしてこうなってしまったんだろう。たぶん、自分が悪い。
ゆったりした心地良い関係性に永遠なんてない。わかってたはずなのに、甘え続けたから崩壊した。
どれだけ後悔を重ねても、完結を決定として過ぎてしまった結果は覆せない。
いつからか、あいつ今なにしてんのかなって思うことしかできなくなってた。
今はもうあの日に食べた三角チョコパイの味も、あいつの顔も、ぼやけてる。
頭の中に居座ってるくせに、ぼやけるなんて卑怯だろって思いながら、煙草の煙を吐き出す。
夜の闇に燻る煙草の煙は、記憶がぼやけていく様と似ている気がする。
きっとハッピーで溢れているだろう日に、こんなにも切ない気持ちになるなんてさっていう感傷は過ぎていく今日と共に薄れていく。バイバイ、バッドバレンタイン。