猫背の犬

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6/18/2025, 3:53:31 AM

「届かないのに」と僕の努力を嘲ったあいつの旋毛を見下ろしている。
ねえねえ、もしもし、そこから僕に届くことができるかい?
僕のつま先にあいつの指先が届きそうになった途端、僕はもっと高い場所に行く。そして雲に覆われた僕を見つめ「届かないのに」と自嘲するあいつを見下ろすのだ。
「あのときのこと、後悔していて」なんて言うけど、それはなんの後悔だろう。罪悪感に苛まれている自分を、他の誰でもない自分自身を、癒すための謝罪を僕に聞かせるのは甚だおかしい。
そもそも、ゆるすとかゆるさないの次元じゃなくて、僕はあいつに1ミリも興味がないのだ。たとえば、蚊に血を吸われたからといっていつまでめくじらを立てている奴など居ないだろう。つまり、そういうことだ。僕の危機察知能力が低かったせいで接触事故を起こしてしまっただけの、ただの障害物だったという認識しかない。
車だって修理に出せば、ある程度の傷や凹みは治る。同等の原理で、僕の傷や凹みも綺麗に治っている。時間の流れというのは有能な特効薬であるため、跡形もなく治ってしまっている。ゆえに嘲られた記憶や、その瞬間に芽生えた負の感情の類が希薄になっていっているのが現状だ。ゆくゆくは、あいつの存在すら忘れてしまうんじゃないかな。
僕は、あいつほど気にしていないし、あいつほど劣等に駆られていない。ひとつ言葉を返すとすれば「ざまあみろ」が妥当だろうけど、口頭することはない。低俗なシーソーゲームには辟易としているから。そんな瑣末な事柄に耽るくらいなら、さらに高みを目指そうと思う。僕は僕を信じている。今は届かなくても、いずれ届くし、この手のひらに握り締めることだって必ずできると信じている。

6/10/2025, 9:02:00 AM

どうしてこの世界は、必然的に望んだものから奪っていくのだろう。

「しばらくは連れて来れないと思うから、好きなもん好きなだけ食っとけよ」
餃子を口に運ぼうとした箸の動きが鈍る。暗い海の底みたいな気持ちが、じわじわと胸のなかに広がっていく。たぶん漠然とした不安みたいなものだ。適した言葉が見当たらなくて、よく形容できない。とにかく仄暗いもの。
「……おじさん、どっか行くの?」
「凌ぎでな」
「ああ……」
僕のぎこちない返事は、すべてを有耶無耶にする。後々後悔の念駆られるとわかっていながらも、言葉が続かなかった。
行かないでほしいなんて毛頭言えないし、なによりも僕にはおじさんを引き止める権限がない。

食事を終えた別れ際、雨足が強くなった。
車の屋根を強く叩きつけるように落ちてくる雨の音を聞いていれば、僕の家までの距離なんてあっという間に縮まっていく。いつもこのときは憂鬱だが、今日は特段に憂鬱だ。
憂鬱を拭うように、どうでもいいようなことを頭の中に巡らせ続ける。
――そういえば土砂降りは、別れを引き止めているとかなんとかっていうジンクスみたいなのあったようなとか思った矢先、皮肉にも僕の家の前に辿り着いた車が停車した。
「じゃあ、またな」というおじさんのいつもの挨拶に、どうしてか胸騒ぎを覚えた僕は、その焦燥に駆られるまま「おじさん!」と大きな声を出してしまった。きーんと、張り詰める車内で後悔と驚きが渦を巻く。自分の大きな声に自分でも驚いてたけど、なによりおじさんが目をまんまるにしていた。
「おー、どうした、そんなデカい声出さなくても聞こえてるけど」
おじさんが関節の潰れた傷だらけのくたびれた手で僕の頭を撫でたから、目頭が熱くなる。
根拠なんて1ミリもないけど「じゃあ、またな」の「じゃあ」が、歯切れが悪かったように思う。だから僕は、どうしていいかわからなくなって、悪い考えがざーっと頭の中に巡って、それから心の中がなんていうか冷えた感じになった。今も進行形で、ぞわぞわ、ざわざわしている。
「おじさんさ」
僕の声は込み上げてきている涙を堪えているせいか、熱っぽく震えていた。情けないところを見せてしまっているという恥ずかしさよりも、どうにも形容しがたい侘しさに似た得体のしれない感情の方が勝り、僕の心を揺さぶっている。
「気をつけてね」
それが精一杯だった。それ以上もそれ以下もない。今伝えるべき言葉が目の前にぶら下がっていても、選べないことがたくさんある。選べない言葉ほど、どうしても伝えたくて仕方がないのに、それはゆるされない。
「おー。お前もさ、上手くやれよ、学校」
「がんばるよ」
「よし」

おじさんとは本当にそれきりになった。
おじさんが「飯行くかー」と尋ねて来なくなってから、ふたつ目の季節が過ぎようとしている。
おじさんの言葉通り、しばらくは会えないというか、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
薄々、いや、いつからかこんな日が来ることをわかっていたけど、深くは考えたくなくて、それを避けるように勉強に没頭した。
全くわからなかったが、最近なんとかできるようになってきた数学の問題を解いてる最中、おじさん帰ってきたよと、母さんに言われ、握っていたシャーペンを乱雑に放り投げ、階段を駆け降りて玄関に向かう。
そこには望んだ風景などなく「よー、久しぶりだな」と、笑うおじさんも居なくて、おじさんの送迎をしていた若い男の人がたったひとりで立っていた。そして、その手には小さな白い壺が抱えられている。
彼に、こんにちはと挨拶するつもりが、「ああ……」という項垂れるようなだらしない声を洩らしてしまった。
なぜか視界がぼやっと歪んで、ぐるぐると回りだす。気づいたら僕は息を荒げ、涙をぽろぽろこぼしていた。床に落ちた涙は小さな水たまりを作っていき、僕の靴下に落ちた涙は繊維を通り抜けて素肌にゆっくりとしみてくる。
あれあれどうしたんだろうとは思いつつ、口にすることはできなくて、ぼやけた視界のなか未だ佇む彼を見つめていた。形が曖昧だが、おそらく彼も僕を見つめていると思う。
そういえば、彼はいつもこの喪服みたいな背広ばかり着ているな、苦しくないのだろうか。背広はハリがあるけど、足元の黒い革靴はくたびれている。
きっと、彼も大変な場所で生きているのだろう。僕の知り得ない大変な場所で、おじさんと同じようにいつもすれすれの忙しない時間を、一生懸命生きているのだ。
「すみません」
彼の声を初めて聞いた。姿を見かけたことは何度もあるが、言葉を交わす機会は、なかったのだ。
彼の声は、なんというか、川のせせらぎみたいに、澄んでいる。清らかという言葉が、よく当てはまるのではないだろうか。
なるほど、おじさんが側に置いていた理由がよくわかる。一切嫌味がなく、耳触りの良い声だ。
「あの」
「……それ、おじさんですか」
「あの」の後に続くであろう文言を彼に言わせたくなくて、彼の言葉を遮り、自分から訊いた。
僕の声は、酷かった。
彼は、僕の問いかけに目を逸らさず、こくりと頷いた。
「兄貴は、いつもあなたを心配していました。あなたの話をよく聞かせてくれてましたし、その度に、あなたとのたまの食事のために頑張っていると言っていました。……兄貴をどうにかあなたの元に連れて帰ってきたくて、けど、こんな形になってしまって、すみません」
「……僕のために、ですか」
「はい。けど、俺のエゴだということもわかっています。それでも兄貴をあなたの元に返したかった。不躾を重ねてすみません」
「……僕、僕はなにもおじさんのためにはなれなくて……あなたにも迷惑をかけてしまって、僕の方こそすみません」
「いえ、俺が至らないばかりに起こってしまったことです。兄貴を守れなかった。兄貴が大切に思っていたあなたを悲しませてしまった。申し訳ない。どう詫びていいか」
「ひ、ひとつ、ひとつだけいいですか。偉そうなことを言ってるように聞こえるかもしれないですけど、僕の無礼をゆるしてください。あ、あの、あなたは生きてください。寿命まで、なんとか、生きていてほしいです。おじさんのことを共有できる数少ない友人だと僕は勝手に思っています。なので、あなたは長生きしてください」
何一つまとまらず、一歩間違えなくともかなり際どく気持ち悪い発言をした僕に対し、嫌悪などの類は見せず何度も頷く彼の頬には、いくつもの涙痕が刻まれていく。
「約束させてください」
まっすぐに射抜くような視線、澄んだ声が、絶望で黒く淀んだ僕の心を救う。
僕は彼の言葉を希望にしてしまうかもしれない。彼に、おじさんの影を見てしまうかもしれない。
そうなったとき、どのような天罰を喰らうのか。
望めば、奪うのがこの世界だ。だから、思ってはいけない。希望にしてはいけない。望んではいけない。
ただ、彼に不幸が訪れないことだけは祈らせてほしい。それだけは、その祈りだけは、剥奪しないでほしい。

少しの間のあと小さくなったおじさんを僕に託し、「また近いうちに……必ず」と言った彼は僕の家を後にした。
彼がわざわざ「必ず」と付け加えたのは、おじさんと最後になってしまったあの日みたいな顔を僕がしたからかもしれない。
約束の言葉を十割で信じてしまったら、僕はきっともう今度こそ立ち直れなくなってしまう。だから僕は一割で信じて、残りの九割で他の誰でもない彼自身に、もう苦しいことは起こらないとまじないを唱え続けることにする。
「大丈夫だ、きっと」
願いは言葉にすれば成就すると、かつておじさんが教えてくれたのだ。ゆえに僕は言葉にしてみる。

ねえ、おじさん。半年ぶりに帰ってきたと思ったら、こんなに小さくなってしまったんだね。
背なんかあんなに大きかったのに、骨になってしまったら、こんなちんけな壺に収まってしまうのか。そう思うと、猛烈に切ない。堪らなくなる。けど、おじさんが生きていた証であることは間違いない。とはいえ、僕はおじさんの入った壺を撫でながら、思う。おじさんの体に入った怖い絵も、傷だらけの皮膚も、僕を撫でてくれた関節の潰れた手も、すべて砂のようになってしまったのかと。
僕は、おじさんのことが好きだったし、今もこれからも好きだ。
普通じゃないから、普通じゃないところが、普通といわれる者たちよりも優しいところが、好きだ。
僕は、おじさんと一緒に食べるご飯が生きがいだった。学校は死ぬほど嫌だけど、おじさんとたまにご飯を食べれる日があるから、その日が僕を生かす支えになってくれていたから、なんとか頑張ってこれたんだよ。
おじさんはどうだったのか。どう思っていたのか。
彼が教えてくれたことをただ信じることしかできない。
でもおじさんに言えばよかったし、聞いてみればよかったよ。
もうなんにも聞けないし、なんにも言えなくなっちゃったね、おじさん。
おじさん、なんで砂になっちゃったの。
おじさん、寂しいよ。
僕がどれだけ素っ頓狂なことを言っても、「バカ言ってんなよ」って、おでこを小突いてくれないんだね。もう、そういうの、ないんだね。
おじさんの体に刻まれた怖い絵も、関節が潰れて傷だらけの手も怖くなんかなかった。そのくたびれた手で、頭を撫でれるのおじさんが好きだったから。龍が走っている肩に乗せてくれるおじさんが好きだったから。
あの、あのさ、おじさんさ、いや、やっぱりなんでもない。
すごく疲れたでしょ、ゆっくり休んでね。
僕は大丈夫、なんとかやってくからさ。心配しないでいいよ。がんばるから、ちゃんとがんばるよ。

6/5/2025, 5:40:34 AM

「約束だよ」と差し出した当方の小指に、なんの躊躇いもなく小指を絡ませてきた彼が自分にとって掛け替えのない存在であることは確かだ。いつからそのようになったとか細かなことは明言できないけど、いつしかそうなっていたんだ。気づいたら、それが自分の日常になっていた。

高校生になるとまわりの人たちは、「恋か、愛か、それとも」なんてませた話題で盛り上がっていた。
「ねえ、どう思う?」
「どうって? みんなが話してること? んー、わかんない。僕は、まだ好きとか嫌いとかの区別がついてないかもしれない」
「それって、この間柄でも例外なく?」
「…………君のことは、君に対しては、ざっくり言えば好きに近い感覚を持ってるかも」
正直、意外だった。彼から温度を感じる言葉、ましてやそのような感情を自分に対して抱いているなんてことを聞ける日がやってくるなんて思ってもいなかったから。
ただ当たり障りなく、やんわりとした日々には希望も絶望もないけど、ぬるい安寧があった。それを崩さないようにと無意識ながら努力していたのは、強く触れれば消えてしまうような儚さを孕んだまま継続する関係を守り抜くためだった。けど、いま進歩が垣間見れたように思う。どうか思い違いでなければいいと密かに祈った。祈ってしまった。
「好きとか嫌いの区別がつかないって言ってたのに」
「あれ? なんか嘘ついたことになった? ごめん」
「いいよ。その代わり絶対に嫌いにならないって約束して」
「約束? そんなのしなくてもならないけど」
「いいから。はい、約束だよ」
強引すぎたかと焦燥に駆られ、引っ込めようとした小指に彼は自身の小指を絡めてきた。だから、受け入れてくれたのだと信じることにして、ゆびきりげんまんみたいな素ぶりで、約束を結んだ。
「約束ってさ、対象どうしが指を絡めたときに成り立つんだよ。自分勝手には結べない契りだから、それが成り立つっていうのは、とても尊いことだよね。なんだろう、恋か愛かそれともっていう題に通ずるものがあるように思う」
「なんか良いこと聞いたかも。いま確信に変わったことがある。僕は君が紡ぐ言葉を聞くことが好きだよ」
初めは軽い気持ちだったし、確かめる術以上の深い意味はなかったかもしれない。受け入れてくれたことは、嘘じゃないよねっていう確認をしていた。
次の日も小指を差し出したのは、なんとなく思い出したからで、その次の日もそのまた次の日も同じ。それはほとんど花に水やりをするような感覚だったと思う。花に水やりをするときに、ほんの少し特別な感情を抱くことがあるけど、たとえば「綺麗に開花しますように」とか。そういう気持ちがあったのも確か。むしろそれが本音だったのではと言われれば、否定できないし、するつもりもない。
“なんとなく”だって続けていれば、当然育っていくわけで、日常の儀式として馴染んでいくのは、あっという間だった。
自分は、それが嫌いではなかったし、むしろ好きだった。いや、愛していたのだと思う。愛していたからこそ、手放そうと思ったことがなければ、なくなることだって絶対ないと信じていた。自分が作った日常だし、誰にも奪われないと、信じていた。今思えば、惰性で生きる日々のなかにある唯一の光だったのかもしれない。その光がなければ掟破りの罪を自ら犯していただろうし、めざとい神様はその鬱屈を悟り、自分に彼との約束という贈り物を与えてくれたのではないかと本気で思い、信じた。だから毎晩、聖書を抱きしめて眠ったんだ。
それでも日曜日の礼拝は憂鬱で仕方がなかった。けど、彼が居るから行く。そして約束をする。小指を差し出せば、絡めてくれることに安らかさを覚えていた。この約束を交わすために、この安らかさを得るために、この教会という名の箱が存在しているのではないかと思った。思うことにした。そう思わないと、讃美歌なんて歌えるわけがない。誰にも口外していないけど、讃美歌は顳顬が張り裂けそうになるから嫌いだ。加えてパイプオルガンの音は苛立ちが募るし、粉々に破壊したい衝動が度々襲う。それでも小さい頃からの習慣にされてしまっているから、易々と取り除けない。抗えない。あるときから礼拝とは休日も彼に会うための手段だと割り切ることにしたら、苛立ちは不思議と和らいだ。あとは妥協だ。嫌いなものは嫌いだし、顳顬がずきずきと脈打つけど、今のところ案外なんとかなっている。
礼拝のあと、彼と約束を交わす傍ら懺悔室に入っていく人を眺めていた。あの男は、家族を捨ててこの街にやってきたらしい。その理由も身勝手で、浅はかなものだ。本当に愛する人を見極めることができなかっただとか遅れただとか。馬鹿馬鹿しい。結婚という契約を交わしたあとで、たどり着いた愛など肉欲が作り上げた紛い物だろう。誰が聞いても呆れるような傲慢をかましておいて、なんということか良心に苛まれているらしく、罪悪感で気が触れそうになるとき、懺悔室に入っていく。
その赦されたいという透けた醜いエゴに吐き気を催す。自分があの男の相手であれば、間違いなくあやめていると思う。到底、赦すことのできない罪を重ねている。自分を捨てて幸せになるなんて、絶対絶対、赦せない。結婚は契約で、契約は約束だ。約束を破れば、行く先は地獄一択なのではないだろうか。万一に、約束をやむを得ず破棄するのであれば、お互いまっさらになるべきだ。その覚悟がないなら、安易に約束を交わすべきではない。
「——イエスの名のもとに、あなたを赦そう。悔い改めなさい、そうすればあなたは赦される」
所作のすべてが穢れきったそいつを、なぜ、赦すのか。神様は、どうして赦すのか。そいつを赦すのに、なぜ天使を堕天させたのか。矛盾だらけだ。けど、問い詰めたりしない。というか問い詰められない。だって自分は、神様からの贈り物を受け取ってしまっているし、今も大事に育て続けているから。


「いつか赦されなくなる日が来るかもしれない」
「え、なにが? どういうこと? なんの話?」
「今にわかるよ」
梅雨入り目前のどんよりした灰色の雲の下、交差点の歩行者用信号が青に変わったことを視認して、ペダルを踏み込んだ瞬間に大きな衝撃を受け、灰色の空に打ち上げられた。
宙を舞いながら鳥の心を知り、還れないであろう日常を、もう交せそうにない彼との約束を思う。自分を見上げる彼も同じ、どこか諦めている。それからあの男、あの懺悔室に入り浸っている男、居るはずのないあの男が自分を見上げている。
なんだ、そのアホ面は。滑稽にも程があるだろう。
アスファルトに打ちつけられるまでの間、アホ面をじっと見つめ、最期に言ってやった。
「地獄に堕ちたくないだけだと言えよ、クズ野郎」
これは痛みなのだろうか、受け止めきれないものが身体中を駆け巡る。皮膚の裂け目からあふれた血液が、どくどくと流れていくと、感じたことのない寒さに襲われた。その刹那、大嫌いな讃美歌とパイプオルガンの耳障りな音色が聴こえてきた。顳顬が猛烈に痛み、妙に苛立っているのは、そのせいだろうか。
ああ、うるさい、うるさいな。やっぱもう教会はだめだ。ほとほとうんざりだ。いっそ違うところで会わないかと誘ってみようか。日曜礼拝を抜け出したって、サボったって、地獄になんて堕ちないからって。
「事故です——血を流していて——一名が——」
消えゆく意識のなか、彼がいる方へ小指を差し出し、約束だよと声にならない声を絞り出す。
「恋か、愛か、それとも」をいまこのときに説くのであれば、これは恋でも愛でもなく、それともに値する“呪い”になるだろう。
悪いとは思っている。けど、それほどに、それ以上に、形容できないほどの、宇宙よりも大きな感情を彼に対して抱いている。抱いてしまっている。どうしようもないのだ、こればかりは、取り下げることのできない呪いだ。
彼にも同じように、どうか自分を呪ってほしい。赦さないと怒り続けてほしい。どうか、どうか忘れないで。自分のことも、交わした約束も。ぜんぶ。

6/4/2025, 1:16:13 AM

その「約束だよ」は決まり文句みたいなもので、いうなれば日常の儀式だ。食事の始まりと終わりにある「いただきます」、「ごちそうさまでした」と同じ部類に値する。
その日も例外なく「約束だよ」と差し出された小指に、一切躊躇うことなく自分の小指を絡めた。
ゆびきりげんまんの如く絡めた互いの小指を上下させることを二、三回したあと、どちらともなく小指を離す。名残惜しいだなんて今更思ったりしない。なくなりようのない日常で、確かな日常で、手放さない限り続くものだから。
——けど、そういうものに限って案外あっさりとすり抜けていってしまう。
「いただきます」とか「ごちそうさまでした」とかが消えるなんて誰も思わないし、消えるわけがないからそんなことすら考えない。でもいま、たったいま僕にとってのそれが消えてしまった。途絶えてしまった。なのに時間は止まらなくて、進み続けている。おかしい。僕だけがズレていく。僕だけの日常が奪われた。突然生まれた空白のなかで浅い呼吸をしている。その呼吸を続けるには苦しく、やめるには酷すきる。

これだけは欠かせないと思っていたものが、日常から忽然と姿を消したとき、残ったのは消えかけた約束だった。
新しく交わされ、重ねられることはなくなってしまったけど、それまでの日々で交わされ、積み重ねられた約束が僕一人に伸し掛る。
神様の手前、こんなこと言っていいのかわからないが、あえて言ってしまうと、強引に押し付けられた気持ちでいっぱいだ。
処理しきれない感情が渦を巻いている。約束だけを残して消えた対象に対し、憎悪に似た感情を募らせてしまう。そんな僕にあなたはまだ「ゆるしてあげなさい、そうすれば君は救われる」なんて反吐が出るような文言を吐くのでしょう。
そもそも僕はどうして「ゆるせない」なんて思ったりして、教会に居座っているのだろう。この妙に照りがあって座り心地が悪く、冷たい腰掛けが大嫌いなはずなのに。パイプオルガンの音色だって偏頭痛を引き起こすだけの雑音だ。けど、白い蝋燭は、ここに居る人たちの罪を焼き尽くす。それだけが救いなのか。それを救いだと信じたくてここに居るのか。
日曜の礼拝のあと、懺悔室に入っていく人の気持ちがほんの少しだけわかった気がする。
静まり返った礼拝堂のなかで、ぼんやりと蝋燭の灯りを眺めていると、懺悔室の方から、わずかに聞こえてくる嗚咽に虫唾が走っていた。自分が許されたいがための偽善の、いやしい涙だと思っていたから。けど、その吐露しなければいけないほどの鬱屈がいまはわかる。人間とは愚かだとうのは本当かもしれない。自分の都合で世の中に対しての解釈が180度変わることがある。
忌み嫌っていた存在に僕自身が成り果てたことに、かつての僕が鼻で笑っている。堕天した天使たちも、嘲笑しているに違いない。耳たぶがくすぐったいのは、誘惑に手招きされているその指先が、触れている証拠らしい。重たそうなロザリオを首からぶら下げたおじいさんが、いつだったかそう教えくれた。
様々な色をしたステンドグラスをすり抜けて僕を照らす陽光が怖すぎて、目を逸らした。
下に視線を向けたとき、清めるためにと飲まされた葡萄酒が靴先にこびりついていて、なんとなくため息が洩れる。それを機に、そろそろ帰ろうかと立ち上がり、もうここには来ないと思いますと、心の中で呟いた。それは一体誰に宛てた餞別の言葉なのか僕自身もわかっていないけど、なんとなく僕は僕に宛てたのではないかと思う。

眠れない夜、ついに聖書を燃やした。
どこかの国の人は、とろとろと燃ゆる火を見つめていると安心すると教養番組で言っていたけど、時折パチパチと弾けるような音を鳴らして燃えていく聖書を見つめていると、共感できなくもない。
けど、我に返ったときとんでもないことをしてしまったと後悔するかもしれない。かと思えば、でもその後悔はきっと形ばかりのものだろうし、なんてどこか他人行儀というか俯瞰している僕も居る。そういう具合で、とにかく頭のなかがずっと騒がしくて落ち着かない。
一体どうすればいいのか、どうすることが正解なのか。
約束は約束を仕掛けた者と、それを受けた一人以上の者が、集まってようやく遂げられる尊いものなのだと教えてくれた君が、説いた君こそが、約束と僕を置き去りにして物理的に居なくなるなんて思いもよらないことだった。
ありえない形に歪曲した自転車、君の形に凹んだボンネットの車から出てきたかと思えばただただ呆然としている者、灰色のアスファルトを飲み込むように広がる鮮血。血が抜けて徐々に白くなっていく君を見たとき、ああやっぱり神様なんて偶像なんだなって思ったし、あるいは堕天した天使たちがこっちの方が正しいんだよって君を連れて行ったのかな、なんて思ったりした。
想定しようがないことが起こり、はたまた想定し得なかった日常が僕の日常になろうとしている。勝手にすり替えられ、無理矢理に馴染もうとしているがめついやつだ。
望んだわけじゃないから、新しく与えられても、受け入れることなんてできない。たぶんきっと馴染まない。僕自身が馴染んでいけない。そんな気がしている。
「約束だよ」と差し出された小指に自分の小指を絡め、血潮の温度を皮膚を通じて確かめることが好きだった。その日常を、儀式を、愛していた。愛して、居た。
永遠に僕のもので、なくならないことだと信じていた。けど、あっさりなくなった。なくなってしまった。
なにか間違いを犯した罰だとして、一体どこから、どこを間違えてしまったのかと考えてみる。
そうして辿り着いたのは「約束だよ」をすんなり受け入れ、儀式にしてしまったことだった。
深々と思考を巡らせてみれば、あれは一種の呪いだったのかもしれない。僕に約束を与えた対象が消えても効力を持続させているのだから、きっとそうだ。僕が僕を終えるまで、いや、僕が骨や灰になっても解けることのない呪いだ。
日常の儀式として積み重ねられた呪いは、手に負えないほど大きく育った。
あのときの僕はわからなかったんだ。「約束だよ」が、いつしか呪いとして僕を苛むことになるなんてことを、とても予期できなかった。差し出されるままに、受け入れてしまっていた。

君は、すべてを知っていた? 今もどこかでこの様子をほくそ笑みながら見ている? ——それとも、それともまだ「約束だよ」と、僕に向けて小指を差し出しているのか?

5/31/2025, 10:55:02 AM

「勝ち負けなんてどーでもいいんだよ、お前さえいれば、俺は」
今し方放たれたこの文言には、はたして友達以上の温度はあるのだろうかと無意味で孤独な論争を頭の中で繰り広げている。
「なに黙ってんだよ。つーかなんだよ、その顔」
今の僕はたぶんものすごくアホっぽい顔をしているんだろう。なんとなくわかる。水たまりに反射した自分の顔を見たくなくて、傘の先で水面を揺らした。
「なあ、お前は、ちげーの? 俺とおんなじ気持ちじゃねーの?」
期待ばかりさせるこのバカのせいで、惨めったらしい「負け犬」からいつまでも卒業できない。
そういえば生まれてから今まで勝ちを味わったことがない。そもそも勝ち負けにこだわったことすらなかった。けどまあ僕にも密かな欲望はある。水面下でゆらゆらとひっそり燃えている静かな灯火が、条件が満たされ劫火となるとき、このバカは僕に同じ言葉を向けれるだろうか。万一、許しくれだなんて言ってこようものならば即座にすべて焼き尽くしてしまうかもしれない。いや、否応なしにすべてを焼き尽くす。いっそなかったことにすればいい、そんな諦めみたいな仄暗い希望に生かされている。
「今日が大雨で命拾いしたね」
「は? どーゆ意味? 試合してたら、負けてたっつーのかよ。あー、わかったわ、お前ガチで勝ちに来たけど、今日ダメな日だったから、そんなこと言ってんじゃん? あたりっしょ? アイスおごれよ、なー!」
「お前が馬鹿なおかげで僕の方が命拾いした。ありがとう」
「さっきからなにマジで。ほんとにわかんねー。え? さっきの雷で頭イッた?」
「めんどくさいから、もうそれでいいよ」
「だる、冷めるわぁ」
雨は上がっても虹はかからない。このまま夜になるから。なんだか僕の人生みたい。

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