猫背の犬

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「約束だよ」と差し出した当方の小指に、なんの躊躇いもなく小指を絡ませてきた彼が自分にとって掛け替えのない存在であることは確かだ。いつからそのようになったとか細かなことは明言できないけど、いつしかそうなっていたんだ。気づいたら、それが自分の日常になっていた。

高校生になるとまわりの人たちは、「恋か、愛か、それとも」なんてませた話題で盛り上がっていた。
「ねえ、どう思う?」
「どうって? みんなが話してること? んー、わかんない。僕は、まだ好きとか嫌いとかの区別がついてないかもしれない」
「それって、この間柄でも例外なく?」
「…………君のことは、君に対しては、ざっくり言えば好きに近い感覚を持ってるかも」
正直、意外だった。彼から温度を感じる言葉、ましてやそのような感情を自分に対して抱いているなんてことを聞ける日がやってくるなんて思ってもいなかったから。
ただ当たり障りなく、やんわりとした日々には希望も絶望もないけど、ぬるい安寧があった。それを崩さないようにと無意識ながら努力していたのは、強く触れれば消えてしまうような儚さを孕んだまま継続する関係を守り抜くためだった。けど、いま進歩が垣間見れたように思う。どうか思い違いでなければいいと密かに祈った。祈ってしまった。
「好きとか嫌いの区別がつかないって言ってたのに」
「あれ? なんか嘘ついたことになった? ごめん」
「いいよ。その代わり絶対に嫌いにならないって約束して」
「約束? そんなのしなくてもならないけど」
「いいから。はい、約束だよ」
強引すぎたかと焦燥に駆られ、引っ込めようとした小指に彼は自身の小指を絡めてきた。だから、受け入れてくれたのだと信じることにして、ゆびきりげんまんみたいな素ぶりで、約束を結んだ。
「約束ってさ、対象どうしが指を絡めたときに成り立つんだよ。自分勝手には結べない契りだから、それが成り立つっていうのは、とても尊いことだよね。なんだろう、恋か愛かそれともっていう題に通ずるものがあるように思う」
「なんか良いこと聞いたかも。いま確信に変わったことがある。僕は君が紡ぐ言葉を聞くことが好きだよ」
初めは軽い気持ちだったし、確かめる術以上の深い意味はなかったかもしれない。受け入れてくれたことは、嘘じゃないよねっていう確認をしていた。
次の日も小指を差し出したのは、なんとなく思い出したからで、その次の日もそのまた次の日も同じ。それはほとんど花に水やりをするような感覚だったと思う。花に水やりをするときに、ほんの少し特別な感情を抱くことがあるけど、たとえば「綺麗に開花しますように」とか。そういう気持ちがあったのも確か。むしろそれが本音だったのではと言われれば、否定できないし、するつもりもない。
“なんとなく”だって続けていれば、当然育っていくわけで、日常の儀式として馴染んでいくのは、あっという間だった。
自分は、それが嫌いではなかったし、むしろ好きだった。いや、愛していたのだと思う。愛していたからこそ、手放そうと思ったことがなければ、なくなることだって絶対ないと信じていた。自分が作った日常だし、誰にも奪われないと、信じていた。今思えば、惰性で生きる日々のなかにある唯一の光だったのかもしれない。その光がなければ掟破りの罪を自ら犯していただろうし、めざとい神様はその鬱屈を悟り、自分に彼との約束という贈り物を与えてくれたのではないかと本気で思い、信じた。だから毎晩、聖書を抱きしめて眠ったんだ。
それでも日曜日の礼拝は憂鬱で仕方がなかった。けど、彼が居るから行く。そして約束をする。小指を差し出せば、絡めてくれることに安らかさを覚えていた。この約束を交わすために、この安らかさを得るために、この教会という名の箱が存在しているのではないかと思った。思うことにした。そう思わないと、讃美歌なんて歌えるわけがない。誰にも口外していないけど、讃美歌は顳顬が張り裂けそうになるから嫌いだ。加えてパイプオルガンの音は苛立ちが募るし、粉々に破壊したい衝動が度々襲う。それでも小さい頃からの習慣にされてしまっているから、易々と取り除けない。抗えない。あるときから礼拝とは休日も彼に会うための手段だと割り切ることにしたら、苛立ちは不思議と和らいだ。あとは妥協だ。嫌いなものは嫌いだし、顳顬がずきずきと脈打つけど、今のところ案外なんとかなっている。
礼拝のあと、彼と約束を交わす傍ら懺悔室に入っていく人を眺めていた。あの男は、家族を捨ててこの街にやってきたらしい。その理由も身勝手で、浅はかなものだ。本当に愛する人を見極めることができなかっただとか遅れただとか。馬鹿馬鹿しい。結婚という契約を交わしたあとで、たどり着いた愛など肉欲が作り上げた紛い物だろう。誰が聞いても呆れるような傲慢をかましておいて、なんということか良心に苛まれているらしく、罪悪感で気が触れそうになるとき、懺悔室に入っていく。
その赦されたいという透けた醜いエゴに吐き気を催す。自分があの男の相手であれば、間違いなくあやめていると思う。到底、赦すことのできない罪を重ねている。自分を捨てて幸せになるなんて、絶対絶対、赦せない。結婚は契約で、契約は約束だ。約束を破れば、行く先は地獄一択なのではないだろうか。万一に、約束をやむを得ず破棄するのであれば、お互いまっさらになるべきだ。その覚悟がないなら、安易に約束を交わすべきではない。
「——イエスの名のもとに、あなたを赦そう。悔い改めなさい、そうすればあなたは赦される」
所作のすべてが穢れきったそいつを、なぜ、赦すのか。神様は、どうして赦すのか。そいつを赦すのに、なぜ天使を堕天させたのか。矛盾だらけだ。けど、問い詰めたりしない。というか問い詰められない。だって自分は、神様からの贈り物を受け取ってしまっているし、今も大事に育て続けているから。


「いつか赦されなくなる日が来るかもしれない」
「え、なにが? どういうこと? なんの話?」
「今にわかるよ」
梅雨入り目前のどんよりした灰色の雲の下、交差点の歩行者用信号が青に変わったことを視認して、ペダルを踏み込んだ瞬間に大きな衝撃を受け、灰色の空に打ち上げられた。
宙を舞いながら鳥の心を知り、還れないであろう日常を、もう交せそうにない彼との約束を思う。自分を見上げる彼も同じ、どこか諦めている。それからあの男、あの懺悔室に入り浸っている男、居るはずのないあの男が自分を見上げている。
なんだ、そのアホ面は。滑稽にも程があるだろう。
アスファルトに打ちつけられるまでの間、アホ面をじっと見つめ、最期に言ってやった。
「地獄に堕ちたくないだけだと言えよ、クズ野郎」
これは痛みなのだろうか、受け止めきれないものが身体中を駆け巡る。皮膚の裂け目からあふれた血液が、どくどくと流れていくと、感じたことのない寒さに襲われた。その刹那、大嫌いな讃美歌とパイプオルガンの耳障りな音色が聴こえてきた。顳顬が猛烈に痛み、妙に苛立っているのは、そのせいだろうか。
ああ、うるさい、うるさいな。やっぱもう教会はだめだ。ほとほとうんざりだ。いっそ違うところで会わないかと誘ってみようか。日曜礼拝を抜け出したって、サボったって、地獄になんて堕ちないからって。
「事故です——血を流していて——一名が——」
消えゆく意識のなか、彼がいる方へ小指を差し出し、約束だよと声にならない声を絞り出す。
「恋か、愛か、それとも」をいまこのときに説くのであれば、これは恋でも愛でもなく、それともに値する“呪い”になるだろう。
悪いとは思っている。けど、それほどに、それ以上に、形容できないほどの、宇宙よりも大きな感情を彼に対して抱いている。抱いてしまっている。どうしようもないのだ、こればかりは、取り下げることのできない呪いだ。
彼にも同じように、どうか自分を呪ってほしい。赦さないと怒り続けてほしい。どうか、どうか忘れないで。自分のことも、交わした約束も。ぜんぶ。

6/5/2025, 5:40:34 AM