その「約束だよ」は決まり文句みたいなもので、いうなれば日常の儀式だ。食事の始まりと終わりにある「いただきます」、「ごちそうさまでした」と同じ部類に値する。
その日も例外なく「約束だよ」と差し出された小指に、一切躊躇うことなく自分の小指を絡めた。
ゆびきりげんまんの如く絡めた互いの小指を上下させることを二、三回したあと、どちらともなく小指を離す。名残惜しいだなんて今更思ったりしない。なくなりようのない日常で、確かな日常で、手放さない限り続くものだから。
——けど、そういうものに限って案外あっさりとすり抜けていってしまう。
「いただきます」とか「ごちそうさまでした」とかが消えるなんて誰も思わないし、消えるわけがないからそんなことすら考えない。でもいま、たったいま僕にとってのそれが消えてしまった。途絶えてしまった。なのに時間は止まらなくて、進み続けている。おかしい。僕だけがズレていく。僕だけの日常が奪われた。突然生まれた空白のなかで浅い呼吸をしている。その呼吸を続けるには苦しく、やめるには酷すきる。
これだけは欠かせないと思っていたものが、日常から忽然と姿を消したとき、残ったのは消えかけた約束だった。
新しく交わされ、重ねられることはなくなってしまったけど、それまでの日々で交わされ、積み重ねられた約束が僕一人に伸し掛る。
神様の手前、こんなこと言っていいのかわからないが、あえて言ってしまうと、強引に押し付けられた気持ちでいっぱいだ。
処理しきれない感情が渦を巻いている。約束だけを残して消えた対象に対し、憎悪に似た感情を募らせてしまう。そんな僕にあなたはまだ「ゆるしてあげなさい、そうすれば君は救われる」なんて反吐が出るような文言を吐くのでしょう。
そもそも僕はどうして「ゆるせない」なんて思ったりして、教会に居座っているのだろう。この妙に照りがあって座り心地が悪く、冷たい腰掛けが大嫌いなはずなのに。パイプオルガンの音色だって偏頭痛を引き起こすだけの雑音だ。けど、白い蝋燭は、ここに居る人たちの罪を焼き尽くす。それだけが救いなのか。それを救いだと信じたくてここに居るのか。
日曜の礼拝のあと、懺悔室に入っていく人の気持ちがほんの少しだけわかった気がする。
静まり返った礼拝堂のなかで、ぼんやりと蝋燭の灯りを眺めていると、懺悔室の方から、わずかに聞こえてくる嗚咽に虫唾が走っていた。自分が許されたいがための偽善の、いやしい涙だと思っていたから。けど、その吐露しなければいけないほどの鬱屈がいまはわかる。人間とは愚かだとうのは本当かもしれない。自分の都合で世の中に対しての解釈が180度変わることがある。
忌み嫌っていた存在に僕自身が成り果てたことに、かつての僕が鼻で笑っている。堕天した天使たちも、嘲笑しているに違いない。耳たぶがくすぐったいのは、誘惑に手招きされているその指先が、触れている証拠らしい。重たそうなロザリオを首からぶら下げたおじいさんが、いつだったかそう教えくれた。
様々な色をしたステンドグラスをすり抜けて僕を照らす陽光が怖すぎて、目を逸らした。
下に視線を向けたとき、清めるためにと飲まされた葡萄酒が靴先にこびりついていて、なんとなくため息が洩れる。それを機に、そろそろ帰ろうかと立ち上がり、もうここには来ないと思いますと、心の中で呟いた。それは一体誰に宛てた餞別の言葉なのか僕自身もわかっていないけど、なんとなく僕は僕に宛てたのではないかと思う。
眠れない夜、ついに聖書を燃やした。
どこかの国の人は、とろとろと燃ゆる火を見つめていると安心すると教養番組で言っていたけど、時折パチパチと弾けるような音を鳴らして燃えていく聖書を見つめていると、共感できなくもない。
けど、我に返ったときとんでもないことをしてしまったと後悔するかもしれない。かと思えば、でもその後悔はきっと形ばかりのものだろうし、なんてどこか他人行儀というか俯瞰している僕も居る。そういう具合で、とにかく頭のなかがずっと騒がしくて落ち着かない。
一体どうすればいいのか、どうすることが正解なのか。
約束は約束を仕掛けた者と、それを受けた一人以上の者が、集まってようやく遂げられる尊いものなのだと教えてくれた君が、説いた君こそが、約束と僕を置き去りにして物理的に居なくなるなんて思いもよらないことだった。
ありえない形に歪曲した自転車、君の形に凹んだボンネットの車から出てきたかと思えばただただ呆然としている者、灰色のアスファルトを飲み込むように広がる鮮血。血が抜けて徐々に白くなっていく君を見たとき、ああやっぱり神様なんて偶像なんだなって思ったし、あるいは堕天した天使たちがこっちの方が正しいんだよって君を連れて行ったのかな、なんて思ったりした。
想定しようがないことが起こり、はたまた想定し得なかった日常が僕の日常になろうとしている。勝手にすり替えられ、無理矢理に馴染もうとしているがめついやつだ。
望んだわけじゃないから、新しく与えられても、受け入れることなんてできない。たぶんきっと馴染まない。僕自身が馴染んでいけない。そんな気がしている。
「約束だよ」と差し出された小指に自分の小指を絡め、血潮の温度を皮膚を通じて確かめることが好きだった。その日常を、儀式を、愛していた。愛して、居た。
永遠に僕のもので、なくならないことだと信じていた。けど、あっさりなくなった。なくなってしまった。
なにか間違いを犯した罰だとして、一体どこから、どこを間違えてしまったのかと考えてみる。
そうして辿り着いたのは「約束だよ」をすんなり受け入れ、儀式にしてしまったことだった。
深々と思考を巡らせてみれば、あれは一種の呪いだったのかもしれない。僕に約束を与えた対象が消えても効力を持続させているのだから、きっとそうだ。僕が僕を終えるまで、いや、僕が骨や灰になっても解けることのない呪いだ。
日常の儀式として積み重ねられた呪いは、手に負えないほど大きく育った。
あのときの僕はわからなかったんだ。「約束だよ」が、いつしか呪いとして僕を苛むことになるなんてことを、とても予期できなかった。差し出されるままに、受け入れてしまっていた。
君は、すべてを知っていた? 今もどこかでこの様子をほくそ笑みながら見ている? ——それとも、それともまだ「約束だよ」と、僕に向けて小指を差し出しているのか?
6/4/2025, 1:16:13 AM