猫背の犬

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どうしてこの世界は、必然的に望んだものから奪っていくのだろう。

「しばらくは連れて来れないと思うから、好きなもん好きなだけ食っとけよ」
餃子を口に運ぼうとした箸の動きが鈍る。暗い海の底みたいな気持ちが、じわじわと胸のなかに広がっていく。たぶん漠然とした不安みたいなものだ。適した言葉が見当たらなくて、よく形容できない。とにかく仄暗いもの。
「……おじさん、どっか行くの?」
「凌ぎでな」
「ああ……」
僕のぎこちない返事は、すべてを有耶無耶にする。後々後悔の念駆られるとわかっていながらも、言葉が続かなかった。
行かないでほしいなんて毛頭言えないし、なによりも僕にはおじさんを引き止める権限がない。

食事を終えた別れ際、雨足が強くなった。
車の屋根を強く叩きつけるように落ちてくる雨の音を聞いていれば、僕の家までの距離なんてあっという間に縮まっていく。いつもこのときは憂鬱だが、今日は特段に憂鬱だ。
憂鬱を拭うように、どうでもいいようなことを頭の中に巡らせ続ける。
――そういえば土砂降りは、別れを引き止めているとかなんとかっていうジンクスみたいなのあったようなとか思った矢先、皮肉にも僕の家の前に辿り着いた車が停車した。
「じゃあ、またな」というおじさんのいつもの挨拶に、どうしてか胸騒ぎを覚えた僕は、その焦燥に駆られるまま「おじさん!」と大きな声を出してしまった。きーんと、張り詰める車内で後悔と驚きが渦を巻く。自分の大きな声に自分でも驚いてたけど、なによりおじさんが目をまんまるにしていた。
「おー、どうした、そんなデカい声出さなくても聞こえてるけど」
おじさんが関節の潰れた傷だらけのくたびれた手で僕の頭を撫でたから、目頭が熱くなる。
根拠なんて1ミリもないけど「じゃあ、またな」の「じゃあ」が、歯切れが悪かったように思う。だから僕は、どうしていいかわからなくなって、悪い考えがざーっと頭の中に巡って、それから心の中がなんていうか冷えた感じになった。今も進行形で、ぞわぞわ、ざわざわしている。
「おじさんさ」
僕の声は込み上げてきている涙を堪えているせいか、熱っぽく震えていた。情けないところを見せてしまっているという恥ずかしさよりも、どうにも形容しがたい侘しさに似た得体のしれない感情の方が勝り、僕の心を揺さぶっている。
「気をつけてね」
それが精一杯だった。それ以上もそれ以下もない。今伝えるべき言葉が目の前にぶら下がっていても、選べないことがたくさんある。選べない言葉ほど、どうしても伝えたくて仕方がないのに、それはゆるされない。
「おー。お前もさ、上手くやれよ、学校」
「がんばるよ」
「よし」

おじさんとは本当にそれきりになった。
おじさんが「飯行くかー」と尋ねて来なくなってから、ふたつ目の季節が過ぎようとしている。
おじさんの言葉通り、しばらくは会えないというか、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
薄々、いや、いつからかこんな日が来ることをわかっていたけど、深くは考えたくなくて、それを避けるように勉強に没頭した。
全くわからなかったが、最近なんとかできるようになってきた数学の問題を解いてる最中、おじさん帰ってきたよと、母さんに言われ、握っていたシャーペンを乱雑に放り投げ、階段を駆け降りて玄関に向かう。
そこには望んだ風景などなく「よー、久しぶりだな」と、笑うおじさんも居なくて、おじさんの送迎をしていた若い男の人がたったひとりで立っていた。そして、その手には小さな白い壺が抱えられている。
彼に、こんにちはと挨拶するつもりが、「ああ……」という項垂れるようなだらしない声を洩らしてしまった。
なぜか視界がぼやっと歪んで、ぐるぐると回りだす。気づいたら僕は息を荒げ、涙をぽろぽろこぼしていた。床に落ちた涙は小さな水たまりを作っていき、僕の靴下に落ちた涙は繊維を通り抜けて素肌にゆっくりとしみてくる。
あれあれどうしたんだろうとは思いつつ、口にすることはできなくて、ぼやけた視界のなか未だ佇む彼を見つめていた。形が曖昧だが、おそらく彼も僕を見つめていると思う。
そういえば、彼はいつもこの喪服みたいな背広ばかり着ているな、苦しくないのだろうか。背広はハリがあるけど、足元の黒い革靴はくたびれている。
きっと、彼も大変な場所で生きているのだろう。僕の知り得ない大変な場所で、おじさんと同じようにいつもすれすれの忙しない時間を、一生懸命生きているのだ。
「すみません」
彼の声を初めて聞いた。姿を見かけたことは何度もあるが、言葉を交わす機会は、なかったのだ。
彼の声は、なんというか、川のせせらぎみたいに、澄んでいる。清らかという言葉が、よく当てはまるのではないだろうか。
なるほど、おじさんが側に置いていた理由がよくわかる。一切嫌味がなく、耳触りの良い声だ。
「あの」
「……それ、おじさんですか」
「あの」の後に続くであろう文言を彼に言わせたくなくて、彼の言葉を遮り、自分から訊いた。
僕の声は、酷かった。
彼は、僕の問いかけに目を逸らさず、こくりと頷いた。
「兄貴は、いつもあなたを心配していました。あなたの話をよく聞かせてくれてましたし、その度に、あなたとのたまの食事のために頑張っていると言っていました。……兄貴をどうにかあなたの元に連れて帰ってきたくて、けど、こんな形になってしまって、すみません」
「……僕のために、ですか」
「はい。けど、俺のエゴだということもわかっています。それでも兄貴をあなたの元に返したかった。不躾を重ねてすみません」
「……僕、僕はなにもおじさんのためにはなれなくて……あなたにも迷惑をかけてしまって、僕の方こそすみません」
「いえ、俺が至らないばかりに起こってしまったことです。兄貴を守れなかった。兄貴が大切に思っていたあなたを悲しませてしまった。申し訳ない。どう詫びていいか」
「ひ、ひとつ、ひとつだけいいですか。偉そうなことを言ってるように聞こえるかもしれないですけど、僕の無礼をゆるしてください。あ、あの、あなたは生きてください。寿命まで、なんとか、生きていてほしいです。おじさんのことを共有できる数少ない友人だと僕は勝手に思っています。なので、あなたは長生きしてください」
何一つまとまらず、一歩間違えなくともかなり際どく気持ち悪い発言をした僕に対し、嫌悪などの類は見せず何度も頷く彼の頬には、いくつもの涙痕が刻まれていく。
「約束させてください」
まっすぐに射抜くような視線、澄んだ声が、絶望で黒く淀んだ僕の心を救う。
僕は彼の言葉を希望にしてしまうかもしれない。彼に、おじさんの影を見てしまうかもしれない。
そうなったとき、どのような天罰を喰らうのか。
望めば、奪うのがこの世界だ。だから、思ってはいけない。希望にしてはいけない。望んではいけない。
ただ、彼に不幸が訪れないことだけは祈らせてほしい。それだけは、その祈りだけは、剥奪しないでほしい。

少しの間のあと小さくなったおじさんを僕に託し、「また近いうちに……必ず」と言った彼は僕の家を後にした。
彼がわざわざ「必ず」と付け加えたのは、おじさんと最後になってしまったあの日みたいな顔を僕がしたからかもしれない。
約束の言葉を十割で信じてしまったら、僕はきっともう今度こそ立ち直れなくなってしまう。だから僕は一割で信じて、残りの九割で他の誰でもない彼自身に、もう苦しいことは起こらないとまじないを唱え続けることにする。
「大丈夫だ、きっと」
願いは言葉にすれば成就すると、かつておじさんが教えてくれたのだ。ゆえに僕は言葉にしてみる。

ねえ、おじさん。半年ぶりに帰ってきたと思ったら、こんなに小さくなってしまったんだね。
背なんかあんなに大きかったのに、骨になってしまったら、こんなちんけな壺に収まってしまうのか。そう思うと、猛烈に切ない。堪らなくなる。けど、おじさんが生きていた証であることは間違いない。とはいえ、僕はおじさんの入った壺を撫でながら、思う。おじさんの体に入った怖い絵も、傷だらけの皮膚も、僕を撫でてくれた関節の潰れた手も、すべて砂のようになってしまったのかと。
僕は、おじさんのことが好きだったし、今もこれからも好きだ。
普通じゃないから、普通じゃないところが、普通といわれる者たちよりも優しいところが、好きだ。
僕は、おじさんと一緒に食べるご飯が生きがいだった。学校は死ぬほど嫌だけど、おじさんとたまにご飯を食べれる日があるから、その日が僕を生かす支えになってくれていたから、なんとか頑張ってこれたんだよ。
おじさんはどうだったのか。どう思っていたのか。
彼が教えてくれたことをただ信じることしかできない。
でもおじさんに言えばよかったし、聞いてみればよかったよ。
もうなんにも聞けないし、なんにも言えなくなっちゃったね、おじさん。
おじさん、なんで砂になっちゃったの。
おじさん、寂しいよ。
僕がどれだけ素っ頓狂なことを言っても、「バカ言ってんなよ」って、おでこを小突いてくれないんだね。もう、そういうの、ないんだね。
おじさんの体に刻まれた怖い絵も、関節が潰れて傷だらけの手も怖くなんかなかった。そのくたびれた手で、頭を撫でれるのおじさんが好きだったから。龍が走っている肩に乗せてくれるおじさんが好きだったから。
あの、あのさ、おじさんさ、いや、やっぱりなんでもない。
すごく疲れたでしょ、ゆっくり休んでね。
僕は大丈夫、なんとかやってくからさ。心配しないでいいよ。がんばるから、ちゃんとがんばるよ。

6/10/2025, 9:02:00 AM