拝啓 十年前の俺へ
この十年のうちにあの人はかねてより縁談のあった綺麗な方と結婚してしまいました。今度の冬に子供が生まれるそうです。ここまでの文脈でおそらく察しているとは思いますが、あの人を忘れることができない俺はその広すぎる家に今もひとりぼっちで暮らしています。あの人以外の人なんて到底無理ですから、きっとこのまま生涯ひとりで過ごすことになるでしょう。
気を落とさず、下記をしっかり心に留めてください。十年前の俺なら、まだ間に合います。分岐に直面したとき、どうか躊躇わず、心の赴くまま素直に選択をなさってください。
あの人と春になったら一緒に眺めようと約束して庭に埋めた色とりどりのチューリップが咲き誇る頃、あの人が俺に答えを委ねることがあると思います。しかし、俺があの人を想って出した答えは、あの人を幸せにすることはできません。そして俺の出した答えにあの人は悲哀に満ちた表情を浮かべます。そうです。俺は、あの人を深く傷つけてしまったのです。よかれと思ったことは裏目に出ます。正しさだけが正義ではないのです。ですから、教会の父の教えは一度、忘れてください。その首にあるロザリオは本当のことは教えてくれません。望んだ方へは導いてくれません。俺は、あの人のあの顔を思い出にすることすらできなくて、長い間とても苦しむことになります。この手紙を認めている今も傷ついたあの人のあの表情が浮かび、涙があふれてきます。俺は、なぜあの選択を最善だと思ったのかわからないです。今これだけ後悔をしているのだからきっと間違っていたのでしょう。
あの人はご自身の家柄もあってか本当の自分を隠し、また心を殺しながら、とても苦しそうに生きていることを俺はよく知ってますよね。いや、俺だけしか知らないというのが事実です。あの人は他に助けを求めることができません。手を取り、共に逃げ出し、あの人を解放できるのは俺だけです。俺しか居ないんです。
いつの日か俺があの人にあなたにとっての幸せとはなにかと訪ねたときに、あの人が言ってくれたのは紛うことなき俺です。それが俺とあの人を繋ぐ確たるものであることは明白です。決して疑ってはなりません。あの人が一番に想うのは、想ってくれているのは、俺です。これは悪い妄想の類などではありませんし、気が触れているわけではありません。あの人が俺を想う気持ちが、一体どれほど尊いものなのか、幼過ぎた俺は気づくことができなかったのです。ゆえにあの人を傷つけてしまった。俺にとってあの人を傷つけてしまったことは、教会の父に教えてもらったあらゆる罪よりも重い罪に値し、赦されないことだと思っています。あの人の言葉を思い出し、反芻してください。そこに必ず真実があります。それを忘れないでください。絶対に、です。俺は俺自身が信じたいものを信じ、またその幸福を祈るべきなのです。
あとのことは十年前の俺、君に任せます。どうかあの人を幸せにしてください。あの人の手を離してはなりません。今の俺から与えられるヒントは全て与えました。あとは君の心に従うだけです。再三申し上げている通り、他の誰でもない自分自身の心に従うことが重要です。あの人と過ごす未来が君にあることを十年後から祈っています。あの人と今の俺の希望は君だけです。負担をかけることを申し訳なく思いますが、どうかどうか頼みます。
敬具 十年後の俺より
2/15/2024, 2:36:40 PM