猫背の犬

Open App

あの子にさよならを言わないまま遠くの街へ行く。きっともう二度とここに帰ってくることはできないだろう。
どんな選択をしても後悔に苛まれるのなら、あの子を憶えたまま苦しむ後悔を選びたかった。それはたぶんかつてあの子が呟いた「忘れることは簡単だけど、そいうのってなんか卑怯だよね」という言葉が棘として胸に刺さったまま消えないことが影響しているのだろう。
夜空に浮かぶ星たちの光を集めたら、永遠に解けない魔法が完成する。僕にまつわるすべてを抹消させるための魔法。この魔法が成功する算段は十二分にあるし、朝になれば父さんも母さんもあの子も、みんな僕のことを綺麗さっぱり忘れていることだろう。
万が一、脳裏に浮かんだとしても、ぼやけた記憶を手繰り寄せたりしないほしい。僕を探さないでほしい。僕を思わないでほしい。それは夢の切れ端だ。存在しない記憶だ。すべて偽物だ。僕は最初から存在しない者で、父さんや母さん、それからあの子に魅せた「僕」は嘘でいっばいの悲しい幻影。
もう少し上手くやり通せたらよかったけど、僕には無理だった。笑顔を浮かべているのに涙で頬を濡らすあの子を見たら居た堪れなくなったから。
魔法以外のものをどれだけ継ぎ足してもあの子の中から彼は消えない。彼と過ごした記憶も美化され続けて、僕では拭えない寂しさがあの子を壊そうとしている。
結局、僕は僕でしかなくて、彼になることはできないと思い知った。そうやって中途半端だから、お師匠様にも見捨てられてしまったのかもしれない。

次は、次こそは、ここよりずっと遠くの街では上手くいくだろうか。自信はない。遠くの街へ行ったって僕は性懲りも無く父さんや母さん、あの子に似た人を探してしまうだろうし、また同じ過ちを踏んでしまう気がしている。
何者かになるなんて到底無理で、仮に上手くやり過ごせたとしても、偽りで得た幸せの味は舌ですぐに溶けてなくなる綿飴のように儚いことだということもわかっている。それでも僕がこの滑稽でしかない一連の流れを繰り返すのは、誰かにとっての本物いわゆる僕が僕として存在できる日々を諦めることができないから。いつかは獲得できるんじゃないかって、信じている。

さあ、準備は整った。長い回想と後悔に区切りをつけて元の位置に返してあげよう。

無事にみんなが僕を忘れて空が青ばんだ頃、箒に跨って冷たい空気の中を縫うように遠くの街を目指す。

ごめんね、ばいばい。

2/29/2024, 9:07:32 AM