「意味がないことって言葉をよく使うけどさ、全部に意味がないといけないのかな。いや、責めるつもりじゃない。説教するわけでもないから、むすっとすんなって。んー、なんて言えばいいだろう……素朴な疑問っていうか……俺の中にある話をただ聞いてほしいんだよ。聞いてくれる? 俺、思ったんだ。なんとなく退屈だなーって思っちゃう授業中とか待ち時間に、他愛もない考えごとや誰かに対しての思いを巡らせることは意味がないことではないなって。月日が流れて、そんなふうに思う場面に遭遇することが増えたんだよ。ふと気づくんだ。この感じって、あのぼんやりした時間に胸の中で揺蕩ってたことの答えなのかもしれないって。上手く説明できないけど、そんな感じ。歳を重ねたからこその発見なのか、もしくはこんなふうに気づくための過程として組まれていたのか……どちらも定かではないけれど、意味がないことなんてなかったんだと思う。今に繋がるすべてだったんだって。あー、やっぱり、納得できないか。んー、そうだなぁ……大人になってからふとこの会話を思い出したとき、気づくことがあるかもしれないとしか今は言えない。……まあ、なにも気づけないかもしれないし、そもそも俺を忘れてる可能性もあるけどね。ごめん、聞いてほしいとか偉そうなこと言って、曖昧になっちゃった」
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記憶の片隅にある言葉。発してくれた一語一句から温もりを思い出せるのに、彼の顔を思い出せない。彼のことはとてつもなく大切だったような気もするし、そうでもなかったような気もする。よくわからない。彼に関することは僕の中で靄がかかっている。僕がかけた靄なのに、それを払おうとすることを僕が許さない。許してくれない。いつか消えてしまうだろうと思っていたのに、なかなか消えないし、忘れることすらできない。僕の中で得体の知れない彼がずっと息づいている。
僕はいつからか意味のないことという単語を使うのも、思うのも、やめた。それは彼を覚えていることを意味がないことだと肯定することができないから。
例え顔を思い出すことができなくても、意味がないことだとは一蹴できない。得体の知れない彼を忘れないことが、彼のくれた言葉を覚えていることこそが、すべてを失ってしまっても、呼吸を続ける僕の生きる意味なのだと思う。
今この瞬間も呼吸をし、思いを綴っていることを意味がないことだなんて思えない。だって、彼にもう一度会いたいと願う心を諦めることができないから。僕にとっての唯一の、一筋の光なんだ。
青き頃に憧れた彼という若葉にいつまでも思いを馳せながら、余生を過ごしている。きっと、なにか意味があるはずだ。解明できるのは、死ぬ間際なのか、死んだ後なのかわからない。けど、彼にもう一度会うことができるのなら、答え合わせがしたい。
彼の言葉や教えを素直に受け止めれなかったことを謝りたい。本当はあのとき、気づいていた。すべてに意味はあって、中身がなさそうな事柄こそ意味がつまっていることに。
ねえ、██。こんなに遅くなっちゃったけどさ、改めることができたよ。もう遅いかな? だったら、あのときのように説き伏せてくれないかな。そうじゃないと諦めきれなくて、死ぬことすらできないんだよ。もう、素直に言うけどさ、意味のないことなんてなかったたろ?って、██に言ってほしい。あのときに戻れなくても、もう遅くても、来世で上手くやるからさ。約束してほしい。██の顔を見つめながら、██の声で、聞きたいんだ。
もうそんなときは訪れないとしても、そのときをずっと待っている。この真っ白くて無機質な病室の冷たいシーツに包まれながら。
ジャングルジムの頂点に辿り着くことができれば王様になることができて、明るい未来が待っていると信じていた。頂点に向かう道中で自分の目的達成のためにとあらゆる人を蹴落とし、やっとの思いで辿り着いた頂点は思い描いていたものは全く別物で、見渡す限り鈍色の景色からはとくに感動を得ることはできなかった。ジャングルジムの下で転がっているのは、かつて人だったもの。自分が蹴落とした者の残骸が山積みになっている。その山から一体ずつ蟻たち引き抜き、巣へと運び出している様子も伺えた。背中のネジが壊れてしまっているからかつてのようには動けないだろうし、蟻の捕食物になる運命しか残されていない。自分を恨むだろうか。コンティニュー機能が使えたら真っ先に殺しに来るのだろうか。不穏な連想を巡らせながら、ふと自分の手を見ると赤黒い血で染まっていた。憧れていた王様はこんなにも醜い淀みを背負いながら、ここに立っていたのか。ともすれば、下から見上げたときに王様の持つものすべてがきらきらと輝く宝石に見えていたのは一体なんだったのか。今思えば、それは王様だけが使える狡猾な魔法によって魅せられた幻だったのかもしれない。かつての王様から奪ったこの杖で、自分が憧れた王様と同じように魔法使って夢を魅せてあげなければ。とっておきの明るい未来を。
秋の夕日を見て真っ先に思い出すのは、茜色の中に向かっていく彼の背中。茜色に彼が取り込まれるのは一瞬のことだった。「待って!」と叫ぶ僕の声も、彼のワイシャツを掴みかけた僕の指先も、彼を繋ぎ止めるには力不足だった。
「これは悪い夢で目が醒めれば、すべて元通りになっている」
これを呪詛のように繰り返す僕を両親は気に病み、息子は親友を亡くして気が触れてしまったんだと嘆いていた。父さん、母さん、よく聞いて。僕は狂ってなんかいないよ。それから彼は親友なんかじゃない。そんなどこにでも転がってるような安い言葉で僕と彼の関係性を表さないでほしい。
物理的ではないとしても言動で彼に触れることを許せない。彼は僕のものだ。僕だけのものだ。うるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。誰にも彼の話を聞いて欲しくないし、誰からも彼の話を説かれたくない。彼にまつわるすべてのことは僕だけのもので、その記憶は僕の中だけに在ればいい。そして彼との記憶に他者が紛れ込むことは絶対にあってはならない。だから黙って。黙れよ。黙れ。彼の名前すら口にするな。
彼や彼の記憶を守りながらなんとか生きていくつもりでいたけど、限界かもしれない。彼の居ない日常で息をすることが苦痛だ。取り戻したかった。彼の居る日常を。ないものをねだるだけの日々は過ぎ、歳を幾つも重ね、彼が居ないという事実だけが色濃く刻まれていく。僕の人生は仄暗さだけがどこまでも続いている。なにをどうしたってまばゆい光が差し込むことはない。ところが今、眼前には茜色の光が広がっている。優しく柔らかな光。すべてを許しくれるような、愚行と共に汚れを浄化してくれるような、温もりのある光。今なら彼に会えるような気がする。あの日の彼と同じようにこの茜色に呑み込まれてしまおうか。茜色の先にはなにがあるのか。想像を絶する安らぎか、はたまた何も感じることができない永遠の無か。そもそも彼は何を求めて茜色に呑まれたのだろう。茜色に呑まれ、運良く彼の元に辿り着けたとして、彼が別の誰かと手を繋いで居たら僕は彼を殺さなければならない。それが怖くて今の今まで悲劇のヒロインを気取って居たのではないだろうか。だけど、思う。いや、やっと気づいた。本当に欲しいならどんな手を使ってでも手に入れなければいけないということに。つまり、いつまでも二の足を踏んでは居られないってこと。
ねえ、そこに居るんでしょ?
どうして僕を置いて行ったの?
どうしてそっちに行くことを選んだの?
僕のせい?
僕が君を好きだと言ったから、君は居なくなったの?
ごめん。でもやっぱり僕は君が好きなんだ。どうしようもなかったし、どうしようもできなかった。気づいたら君に縋ってた。そんな僕を受け入れてくれた君は僕と同じ気持ちだとばかり思って、そう信じて疑わなかった。いいや、違うな。僕は自分にとって都合の良い解釈をしていただけなのかもしれない。ああ、そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。君はとても優しい人だから強い拒絶を見せなかっただけ。僕らはふたりとも同じ。見てみぬふりをしていた。僕は何もわかってなかった。君はすべてをわかっていた。全部、全部全部全部、僕の独りよがりだったんだ。だけど、ひとつだけ怪訝に思うことがある。どうしてあのとき君は僕の唇に自分の唇を這わせたの?
僕は知ってる。僕が眠ってるって勘違いした君が、秘密の賭けをしていたことを。君が自分の唇に毒を塗って僕の唇に重ねたこと。本当は全部わかってたんだ。この茜色が群青に変わる前に僕はあの日の君を追いかけることにするよ。だって、秋を過ぎたらもう会えなくなっちゃうから。ベッドに身体を預けるようにして茜色へとなだれていく。ゆったりとした角度で移ろいでいく情景。
——「待って」
誰かの声がした。僕を引き止めるような声。その声を辿って視線を這わせても延々と茜色が広がっているだけで、なにもわからなかった。きっとたぶん気のせいだ。僕を呼び止める人なんて君以外居るはずがないから。
「君が好きだよ」
この状況で真贋を見極めることなんて不可能ではないだろうかと、ふと思う。口ではいくらでも方便を紡ぐことはできる。しかし、その左手にあるものはどうすることもできないだろう。
「どうしたら信じてもらえるかな」
薬指にはめられた銀色の輪っかを光らせながら信じてほしいなんて言うのは正気の沙汰とは思えない。この人は本当に気が触れてしまっているのではないか。肥大する邪推に促され、僕は少し意地悪をしてみたくなった。
「あんたの言動にはどれもこれも信憑性がないよね。信じほしいって言うならさ、それ外せないの?」
僕の問いかけをはぐらかすように微笑み、やり過ごそうとする。僕はそれを赦さない。もうその手には乗ってやらない。あんたの思う通りに事が進むなんて思わないほしい。あんたの望むのは、ひとつも与えてやらない。あんただって僕の望むものをひとつもくれないんだからお互い様だろう。今だってそうだ。その指輪外せずに居るじゃないか。もう僕を試したりしないで。それから、僕を恨んだりしないで。僕もあんたを恨んだりしないから。
「もうやめしない? こんなくだらない駆け引きをいつまでも続けていたって不毛だよ」
伝えたいもののすべてを飲み込み続け、妥協して手に入れた幸せなんて会得にならない。
「……え?」
「終わりにしよう。元々進展の望めない関係だったろ。僕たちは。あんたも然るべき場所があるんだから留まっておくべきだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うだろ」
「本当に言ってる?」
「関係を築くのはさ、火照った身体を冷たい海水で癒すのとは訳が違うんだよ。後悔してるの? ならその後悔を一生抱き続けてよ。僕を軽んじたあんたが悪い」
「そう、だね」
またそうやって笑うのか。赦せない。絶対に赦すことなんてできない。煮え切らない態度をとり続けるあんたが大嫌い。僕を選んでくれないあんたなんて大嫌い。なのに、僕の頭はあんたのことでいっぱいだなんて、理不尽だ。やめろ。もう、やめてくれ。あんたは僕の抱える苦しみがどれほどのものか知らないだろうし、知ることもないだろう。教えたことも、教えることも、ないだろうから。だけど、それでいい。別に。知らなくていい。あんたは何も知らないままでいい。こんな鬱陶しいものは僕の中だけに留めておく方がいいに決まっている。治らないとわかっている疫病を感染させて連鎖させるなんて地獄絵図を描く必要はない。
始まりがあったかどうかさえ、危うい関係は終わりを告げた。透きとおった青に、夏の雲が広がる空。坂の上の蜃気楼をすり抜けていく寂しげな背中。呼び止めることはしない。最後の最後まで指先すら触れることができなかった。
「僕もさ、あんたのこと好きだよ。……ううん、好きだった」
聞こえない。届かない。紡いだ言葉は虚構に溶けて、なかったことになる。
僕のせいで苦しむあんたは気持ち悪い。だから、とっとと忘れてよ。僕のことなんて。終わりにしよう、終わりに。もう見えなくなったあんたの背中を目掛けて、そんな想いを胸の中で綴る。
ぬるま湯の心地良さを手放すことができずにどこか欠落した日々をだらしなく続けてしまったせいで、生きる明瞭さを失った。いやきっとそれだけではない。一体どれほどのものを犠牲にしたのだろう。気づけば、普通にできていたことすらできなくなってしまっていた。周りを見渡せば、劣等に苛まれる。そこでやっと気づいた。僕は良いように扱われていただけだと。あの子もあの人も僕に対してあたたかな感情を持ち合わせてなんかいないのに、何度も愛を囁いて、束の間の優越を僕に与えた。すべては僕を陥れるための甘い罠だったのだ。弱る僕を見て楽しんでいたんだろう。絶望と劣等に苛まれる殺伐とした日々に生かされているだけの空っぽなクラゲになるくらいなら、なにも気づくことができないただの阿呆で居る方が数億倍マシだった。僕はどうしていつもこうなんだろう。誰かの手のひらで転がされることしかできない。馬鹿にされ、笑われることしかできない。なんて滑稽なのだろう。そういえば、名前も知らない誰かが僕を指さして「お前は生まれながら道化師だ」って声高らかに笑っていた。それならあの子がくれた言葉はなんだったんだ。あの人の温もりはなんだったんだ。あの子やあの人の涙はなんだったんだ。美しい花のような笑顔でさえも僕を面白くも哀しい道化師にするためだけに魅せたものだったというのか。ともすれば、なにを真実と捉えて生きるべきなのか僕にはもうわからない。与えられた気になって悦んだ価値はすぐに取れる鱗だった。それに気づかず、浸っていた優越もニセモノ。無価値の中で泳ぎ続ける僕をどれだけの人が笑っていたのだろう。劣等に塗れすぎた僕は僕自身すら愛すことは困難を極めていて、目を背けてしまう。次に目を覚ましたときはどうか劣等の類いを感じない人生を歩めていますようにと、わずかな希望を抱きながら瞼を閉じる。