猫背の犬

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「君が好きだよ」
この状況で真贋を見極めることなんて不可能ではないだろうかと、ふと思う。口ではいくらでも方便を紡ぐことはできる。しかし、その左手にあるものはどうすることもできないだろう。
「どうしたら信じてもらえるかな」
薬指にはめられた銀色の輪っかを光らせながら信じてほしいなんて言うのは正気の沙汰とは思えない。この人は本当に気が触れてしまっているのではないか。肥大する邪推に促され、僕は少し意地悪をしてみたくなった。
「あんたの言動にはどれもこれも信憑性がないよね。信じほしいって言うならさ、それ外せないの?」
僕の問いかけをはぐらかすように微笑み、やり過ごそうとする。僕はそれを赦さない。もうその手には乗ってやらない。あんたの思う通りに事が進むなんて思わないほしい。あんたの望むのは、ひとつも与えてやらない。あんただって僕の望むものをひとつもくれないんだからお互い様だろう。今だってそうだ。その指輪外せずに居るじゃないか。もう僕を試したりしないで。それから、僕を恨んだりしないで。僕もあんたを恨んだりしないから。
「もうやめしない? こんなくだらない駆け引きをいつまでも続けていたって不毛だよ」
伝えたいもののすべてを飲み込み続け、妥協して手に入れた幸せなんて会得にならない。
「……え?」
「終わりにしよう。元々進展の望めない関係だったろ。僕たちは。あんたも然るべき場所があるんだから留まっておくべきだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うだろ」
「本当に言ってる?」
「関係を築くのはさ、火照った身体を冷たい海水で癒すのとは訳が違うんだよ。後悔してるの? ならその後悔を一生抱き続けてよ。僕を軽んじたあんたが悪い」
「そう、だね」
またそうやって笑うのか。赦せない。絶対に赦すことなんてできない。煮え切らない態度をとり続けるあんたが大嫌い。僕を選んでくれないあんたなんて大嫌い。なのに、僕の頭はあんたのことでいっぱいだなんて、理不尽だ。やめろ。もう、やめてくれ。あんたは僕の抱える苦しみがどれほどのものか知らないだろうし、知ることもないだろう。教えたことも、教えることも、ないだろうから。だけど、それでいい。別に。知らなくていい。あんたは何も知らないままでいい。こんな鬱陶しいものは僕の中だけに留めておく方がいいに決まっている。治らないとわかっている疫病を感染させて連鎖させるなんて地獄絵図を描く必要はない。
始まりがあったかどうかさえ、危うい関係は終わりを告げた。透きとおった青に、夏の雲が広がる空。坂の上の蜃気楼をすり抜けていく寂しげな背中。呼び止めることはしない。最後の最後まで指先すら触れることができなかった。
「僕もさ、あんたのこと好きだよ。……ううん、好きだった」
聞こえない。届かない。紡いだ言葉は虚構に溶けて、なかったことになる。
 僕のせいで苦しむあんたは気持ち悪い。だから、とっとと忘れてよ。僕のことなんて。終わりにしよう、終わりに。もう見えなくなったあんたの背中を目掛けて、そんな想いを胸の中で綴る。

7/16/2023, 3:18:21 AM