これまでずっと秘めていた想いをついに手放すときがやってきた。
「君が真相に辿りつけたとき、本当の僕が見えてくるかもね」
「は? どういう意味だ? ちゃんと説明しろ」
「そのままの意味だよ」
「だからそれがわかんねぇって言ってんだろ」
「僕が教えなくても、きっと胸の中に浮かんでくるはずだから。——僕の言葉に疑問を抱いているうちは説明してもきっと伝わらないと思う」
「なんでいつもそうやって上っ面しか話してくれないんだよ、お前は」
「はは、上っ面か……それはごめん」
「おい、待て——」
肩を掴む手を振り解いて僕は海の中へ体を沈め、潜っていく。
君は僕に辿り着けるのだろうか。君が僕に辿り着けたとき、それは僕が手放したものを君が受け取ってくれたってことになるんだけど、そんな夢みたいなこと起きるわけないよね、とか思いながら海中を浮遊する。色濃い絶望の中に居ながらも、僕はどこか期待してるのかもしれない。小刻みに波打つ海面を海底から眺めていても、やっぱり君が降りてくる兆しはない。瞬きをすると淡く揺れる視界。潮がまつ毛を揺らすたびに、小さな気泡が眼前を蝶のようにひらひらと舞う。海面から差し込むひとすじの光に人差しを伸ばしてみる。透ける指先が綺麗だ。なのに、僕の心は霞んでいる。僕は哀れな人魚。君が僕を好きになってくれなければ、泡になってしまう。泡になって消えてしまう。僕の胸に生まれた熱が君に伝わっているのなら早く迎えに来てほしい。そんなふうに思うのは重たすぎるだろうか。この海でずっと待ってる。君を。君だけを。君の気が向いたらでいいから、気が向いたら僕を救ってほしい。それだけが僕の望みだから。
「元気?」
もう動くことはないと思っていたトークルームは、一件のラインで半年ぶりに日付が更新された。
「あ、既読ついた」
「そりゃつくだろ」
「ブロックされてると思ってた」
「しねぇよ。するわけねぇだろ」
ぎこちない会話のキャッチボールを繰り返したのち、この機会を逃せば、きっとまたいやそれこそ未来永劫に話せなくなってしまうと思った俺は「少し話すか」と通話を切り出した。
「え」
「都合悪りぃか?」
「いや違くて上手く話せないかもしれないから返答に困った」
「俺が適当に話すから別にいい」
「できないでしょ。口下手じゃん」
「舐めんな。話してない間に俺だって成長した」
「こっちはなんも変わってない。いやマジで上手く話せなくて黙ってばっかになるかもよ」
「だから構わねぇよ。これを機にまた頻繁に話して慣らしていけばいいだろ。……もういいからかけんぞ」
断われるのは怖くて半ば強引に通話ボタンをタップする。一回、二回と重なっていくコール音を聴いていると、そのコール音に合わせるように脈を刻むスピードも早まっていく気がした。五度目のコール音のあと受話器から聴こえてきた控えめな「もしもし」に熱くなる胸。懐かしさと嬉しさが入り混じって変な感じだ。きっと今度は失敗しない。今度こそ上手くやる。固い決意を胸の中で唱えながら頭に浮かんだ言葉を紡いでいく。崩れてしまった関係をゆっくりと時間をかけて修復していきたい。足りない部分は補い、隙間を無くすように縫い合わせる。かつてこいつが俺にそうしてくれたように今度は俺がこいつのことを満たしてあげたい。ただそれだけだった。
「ねえ、怒ってないの?」
「お前の方こそ」
「怒るわけない」
「だったら俺も同じだ」
「……ありがとう」
「……あのとき、逃げてごめん。弱くてごめん」
「それはこっちも同じだから。なんだかすれ違っちゃったみたいだね。でもさ……なんていうの……その、燕と同じで元の場所に還るんだね」
「なんだそれ」
「詳しく聞きたい?」
「ああ、ぜひ聞かせてほしい」
目が覚めたら隣で寝ているはずのあの人の姿がなかった。突如として生じた空白と侘しさは底のない穴の中を落下し続けるようだった。けど、なぜかなにも思い出せない。こんなに悲しいのに酷く曖昧だ。留めておきたい記憶のすべてに靄が色濃くかかり、わからないの比率が大きくなるばなりで、声はどんな感じで温もりはどれほどのものだったかよく思い出せない。どんな髪型で、どんな表情を浮かべていたのか不明瞭になってしまったのに涙だけはあふれてくる。不思議だ。心だけが憶えているのだろうか。心だけが憶えているから悲鳴を上げ続けているのだろうか。ひりひりと痛む。眠りに就くまでのあふやな残像が頭の中を巡って、心が熱く揺れる。ひとつだけわかるのは、あの人を二度と抱きしめてあげることができないということ。あれ、でもどうして私はあの人を抱きしめてあげなければならかったんだっけ。たぶんきっと悲しそうだったからのような気がする。不確かだけど、あの人が悲しそうだったから私もいつも泣いて、どうすることもできなかった。やるせない思いだけ募って助けてあげれなかった。あの人のことも自分自身のことも。こんなことになるなら、高望みなんてしなければよかったなあ。
窓越しに見えるのは変わりゆく季節と、あの子の後ろ姿。その情景をただ見つめているだけで日々は過ぎていく。それでもの心は十分に満たされていた。この細やかな幸せは永く続いていくと信じていたけれど、あの子は夏が始まる前にどこか遠い場所に行ってしまった。永遠の終わりを知った僕の心に生まれた空洞。そこにはどうしようもない侘しさが募っていく。もう二度と満たされることはないと悟りながら今もまだ窓の外を見つめている。先に立たない後悔のせいで、こんなに苦しい思いをするなんて知らなかった。知りたくなかった。そんな僕を横目に燦々と照る太陽。その眩さに手をかざし、瞬きを何度か繰り返す。窓越しに見えるのは、あの子じゃない子の後ろ姿。せめて一言だけでも言葉を交わせていたら、こんなに苦しくなかったのだろうか。せめて僕があの子のように外で遊べる健康な体をもっていたら、これほどまでの後悔は抱かなかったのだろうか。すべてはないもねだりで、たらればでしかない。喉に痞えていた言葉は嗚咽に変わり、僕をさらに惨めにさせた。
君が好きだと言っていた本を読めば、君と親密になれると信じていた。信じて、いた。神様は残酷で僕を弄び、純情を切り裂く。
君の視界に入り込める場所で、君の好きな本を読み、君が辿ったであろう文字の羅列を視線や指先で同じように辿る。そして頭の中ではいつしか親密になった君と、この本に綴られている物語を余すことなく事細かに語り合う情景を描く。それは絵画に描かれたもののように完璧だったはずなのに、叶うことはなかった。人生とはそんなに甘くないらしい。もどかしいさを覚えるくらい近い距離にあるものほど、触れることができなのが僕の人生。絶望だけが常に刻まれ、光は閉ざされた。暗澹たる雲だけ立ち込めている仄暗い嵐の前の海のような暗く冷たいそして寂しい虚無だけがいくつも連なっている。本を読み終えた頃、愛おしい姿はそこになかった。僕の嫌いな彼と手を繋いで、どこかへ出かけてしまったらしい。
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僕はきっともうこの本を開かないだろう。大好きな本だったけど、読み返すことはしない。だからこのベンチに置いていくことにした。
僕の大好きなこの本を拾ってくれた“君”へ
呪物でもなんでもないから、そんなに気味悪がらないでほしい。よかったら、この本を貰ってくれないかい?
この本は僕の宝物なんだ。あとね、というかこれが本題なんだけど、この本はとても面白いよ。(これってネタバレになるのかな。だとしたらごめん)なにこの本って思ったかもしれないけど、本当なんだ。本当にこの本は面白いんだ。装丁は、まあ、ちょっとアレだけど。単行しか発売されていないかつ部数もそれほど出ていない代物だから定価で買うと、そこそこに値が張る。
タダってなんかよくない? タダほど高いものはないとかってよく耳にするけど、それって貶してるのかな。それとも褒めてるのかな。よくわからないよね。言葉って難しい。ちなみに僕はタダ固定派。無条件で得した気分を味わえるから。焚き付けるのも悪いような感じがするし、嫌じゃなければ、この本を君の家に連れて帰ってあげてほしいんだ。そうじゃないと、ほら、その、この本が可哀想じゃない?(置いて帰った張本人の僕が言うのもなんだけど)
もしも君がこの本を連れて帰ってくれるのなら、お願いがあるんだ。下記からは待って帰る場合のみ、読み進めてほしい。タダで譲る誼みと言ったら押し付けがましいかもしれないけど、頼みがあるんだ。この本を連れて帰ってくれる君にしかできないことだよ。可哀想な僕のことを思い浮かべながらこの本を読んでもらえると僕は報われた気分になるからぜひそうしてほしい。気持ち悪いだろうし、迷惑してるのはわかる。でもここまで読んでくれた優しい君だったらわかってくれるような気がして。顔も知らないのに本を押し付けた挙句、頼み事までしてごめん。でもなんとか頼めないかな。やりきれないんだ。見ず知らずの君に縋るくらい僕の心は衰退している。想いを馳せていた相手が自分のものには絶対にならないってことを身を持って知ると、脆くなるもんだよ。傷心ってどうにもならなくて、元気になるまでにとても時間を要するらしい。恐ろしいだろ? 僕もそう思う。現に気が狂いそうだもの。今、まともな自分と狂いかけた自分が対峙しているんだ。僕の裡で荒々しい戦争が起こっている。そんな状態で見ず知らずの君へ宛てた支離滅裂な手紙を書いていることを許してほしい。巻き込んでしまって本当に悪いと思っているよ。ごめんね、本当に。
数日後もっと後かもしれないけど、いつかまたこのベンチの前を通ってみたときにこの本が見当たらなければ、この手紙を読んでくれた君が僕を慰めるつもりで僕の好きな本を読んでくれていると、思うことにする。いつか僕たちが会えたとしたら、そのときは僕の好きな本を読んだ感想と、ついでに君の好きな本のことも教えてほしいな。
それじゃあ、まあ、そういうことで。いつかね。
なんて手紙が挟まっているとも知らずに拾った本が俺の好きな本になるなんて思いもよらなかった。この本の持ち主である“君”に、いつの日か出会って、君の好きな本を読んだ感想と俺の好きな本の話ができる日を心待ちに俺は今日もベンチで本を読んでいる。