猫背の犬

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君が好きだと言っていた本を読めば、君と親密になれると信じていた。信じて、いた。神様は残酷で僕を弄び、純情を切り裂く。

君の視界に入り込める場所で、君の好きな本を読み、君が辿ったであろう文字の羅列を視線や指先で同じように辿る。そして頭の中ではいつしか親密になった君と、この本に綴られている物語を余すことなく事細かに語り合う情景を描く。それは絵画に描かれたもののように完璧だったはずなのに、叶うことはなかった。人生とはそんなに甘くないらしい。もどかしいさを覚えるくらい近い距離にあるものほど、触れることができなのが僕の人生。絶望だけが常に刻まれ、光は閉ざされた。暗澹たる雲だけ立ち込めている仄暗い嵐の前の海のような暗く冷たいそして寂しい虚無だけがいくつも連なっている。本を読み終えた頃、愛おしい姿はそこになかった。僕の嫌いな彼と手を繋いで、どこかへ出かけてしまったらしい。





僕はきっともうこの本を開かないだろう。大好きな本だったけど、読み返すことはしない。だからこのベンチに置いていくことにした。

僕の大好きなこの本を拾ってくれた“君”へ

呪物でもなんでもないから、そんなに気味悪がらないでほしい。よかったら、この本を貰ってくれないかい?
この本は僕の宝物なんだ。あとね、というかこれが本題なんだけど、この本はとても面白いよ。(これってネタバレになるのかな。だとしたらごめん)なにこの本って思ったかもしれないけど、本当なんだ。本当にこの本は面白いんだ。装丁は、まあ、ちょっとアレだけど。単行しか発売されていないかつ部数もそれほど出ていない代物だから定価で買うと、そこそこに値が張る。
タダってなんかよくない? タダほど高いものはないとかってよく耳にするけど、それって貶してるのかな。それとも褒めてるのかな。よくわからないよね。言葉って難しい。ちなみに僕はタダ固定派。無条件で得した気分を味わえるから。焚き付けるのも悪いような感じがするし、嫌じゃなければ、この本を君の家に連れて帰ってあげてほしいんだ。そうじゃないと、ほら、その、この本が可哀想じゃない?(置いて帰った張本人の僕が言うのもなんだけど)
もしも君がこの本を連れて帰ってくれるのなら、お願いがあるんだ。下記からは待って帰る場合のみ、読み進めてほしい。タダで譲る誼みと言ったら押し付けがましいかもしれないけど、頼みがあるんだ。この本を連れて帰ってくれる君にしかできないことだよ。可哀想な僕のことを思い浮かべながらこの本を読んでもらえると僕は報われた気分になるからぜひそうしてほしい。気持ち悪いだろうし、迷惑してるのはわかる。でもここまで読んでくれた優しい君だったらわかってくれるような気がして。顔も知らないのに本を押し付けた挙句、頼み事までしてごめん。でもなんとか頼めないかな。やりきれないんだ。見ず知らずの君に縋るくらい僕の心は衰退している。想いを馳せていた相手が自分のものには絶対にならないってことを身を持って知ると、脆くなるもんだよ。傷心ってどうにもならなくて、元気になるまでにとても時間を要するらしい。恐ろしいだろ? 僕もそう思う。現に気が狂いそうだもの。今、まともな自分と狂いかけた自分が対峙しているんだ。僕の裡で荒々しい戦争が起こっている。そんな状態で見ず知らずの君へ宛てた支離滅裂な手紙を書いていることを許してほしい。巻き込んでしまって本当に悪いと思っているよ。ごめんね、本当に。

数日後もっと後かもしれないけど、いつかまたこのベンチの前を通ってみたときにこの本が見当たらなければ、この手紙を読んでくれた君が僕を慰めるつもりで僕の好きな本を読んでくれていると、思うことにする。いつか僕たちが会えたとしたら、そのときは僕の好きな本を読んだ感想と、ついでに君の好きな本のことも教えてほしいな。

それじゃあ、まあ、そういうことで。いつかね。


なんて手紙が挟まっているとも知らずに拾った本が俺の好きな本になるなんて思いもよらなかった。この本の持ち主である“君”に、いつの日か出会って、君の好きな本を読んだ感想と俺の好きな本の話ができる日を心待ちに俺は今日もベンチで本を読んでいる。

6/15/2023, 4:11:26 PM