ひとりで幸せになっちゃった君を僕はたぶんずっと許せない。僕と同じように苦しんでほしかった。
僕のことはもう忘れちゃった? てか、そこからじゃなんも見えないか。それでも僕の声が聞こえてるなら、かつては君もここに居たことを忘れないで。
君は、僕の隣で、その場所を見上げながら呪いの言葉を吐き連ねてた。僕たちは同じ痛みを共有してた。なのに、君は突如として僕に黒いものすべてを押し付けて、そこに行った。涙を流して、唇を噛み締めながら、許せないって言ってた人と幸せになろうとしている。君は、幸せになろとしてる。身勝手な君は、幸せになろうとしている。
許してとかごめんねとかそんな言葉が欲しいわけじゃないよ。ただ、僕のこと忘れないで。僕のことを覚えたまま、幸せになって。なれるよね。なれるよ。君は最低だから。死ぬほど最低だから。
君の涙は黒い。純白のドレスも鈍色に澱んでる。綺麗になったつもりだけど、僕には君の穢れがぜんぶ見えるよ。僕は君の黒いものを受け取ってやらない。返しに来たんだ。ぜんぶ、ぜんぶ抱えたまま、幸せになって。ちゃんと幸せになってね。
「お前の父ちゃんな、お前を担保にして逃げてしまってん。ここからが本題な。お前には三つ選択肢があんねんけど、どないする? 一つは、角膜と肺を売って金を返す。二つ目は、知らんおっちゃんの相手してコツコツ返す。三つ目は、俺と逃げる。好きなん選び」
「どれでもいいです。あなたの好きなようにしてください」
「他人に権限を委ねるっちゅーことは、最悪な選択されても断らんと従わなあかんくなるんやで? そんなんでええの? 今やってそうやん。実のお父ちゃんにええようにされてねんで? 自分が置かれてる状況を理解できてんのか?」
視線を地面に這わせたまま頷く少女を健気に思った青年は、腕を掴み、誰も知らない場所を目指す。
情が湧いたのだ。今に始まったことではない。幾分も前から、職業上らしからぬものを胸に抱いていた。何度もこの仕事は自分には向いていない、今すぐでも辞めてしまおうという気持ちがあった。しかし、この仕事をやめれば、少女の生息がわからなくなってしまう。それだけが気がかりであり、足枷になっていた。そんな葛藤も少女の手を取った瞬間に粉砕したわけだが、今度は別の葛藤に苛まれている。逃亡という苦しい手段を取らずとも、もう少しやりようがあったのではないかと思わずにはいられないようだ。とはいえ、青年に選択肢はなかった。この仕事が向いていない青年は、この仕事をする他がなかったから。向いていないという苦悩を抱きながらも、続ける以外の選択肢がない自身の人生を恨んだ。そういう星の元に生まれてしまったことを。努力をしなかった自身を。
「こんなことになってしまうってわかってたら、もう少し真っ当に生きてたのに。できてたはずやのに。なんでずっと逃げるばかりを続けてしもうたんやろうか」
青年の後悔が、とうとう口を突いて出た。
一方、少女は心ここに在らずと言った面持ちで、車窓の向こうにある景色を眺めている。
「お前の父ちゃんは、お前よりも金のが大事やったんかな」
それは独り言のようであって、語りかけているようでもあった。
「疑問に思うまででもありません。答えは明白です。だって、姿を晦ましたということがすべてですから」
少女の繊細な睫毛が微かに揺れている。込み上げてくる感情を、涙を堪えているのだろうか。表面上は飄々としているが、その実、心を痛ませているに違いない少女を追い詰めるようなことを無神経に口走ってしまった自身を執拗に苛んだ青年。
「ごめんな。今のは空気読めてへんかった。そもそも訊くようなことちゃうし。ほんま悪かった」
「わからないです。あなたが謝る意味も、膨大なリスクを背負ってまで私と逃げる意味も」
「悩むこととちゃうぞ、そんなん。めっちゃ単純な話やで。俺にとって金よりも大事なんは、お前ってだけ。そんだけのこと」
「……前から思っていましたが、あなたに取り立て屋さんは向いてないような気がします」
「せやから辞めてん」
執念深い奴らを敵に回した以上、永遠というのは無理なものだが、この逃避行がなるべく永く続くようにと胸に浮かべ、互いに祈る青年と少女であった。
迸ってどうにもならない欲望を少しでも癒すために自分で自分を慰めたら、時間差でやってきた虚無に首を絞めらている。
ゼロ缶をストローで呑むのはよくないからやめなって、制してくれたあの子はもう居ない。
月明かりさえ差し込まない閉鎖的な暗い部屋でギターロックを爆音で聴いた。耳が壊れそうになるくらい大きな音で聴きながら、いつまでも泣いていた。特別に騒がしい曲を聴けば頭の中にある嫌なことすべてを粉砕できるような気がしたけど、頭が空っぽになる代償に涙が余計に止まらなくなった。なにをしたって苦しいのは変わらないみたいだ。
水道水は臭くて苦いから飲みたくなくて錠剤を噛み砕いて嚥下したら、胃が焼けそうなくらい痛くなった。惨めで可哀想な自分を慰めてあげなくちゃって、熱に浮かされてまた振り出しに巻き戻し。苦しくてたまらなくなるってわかっていても、芽生えた欲望を打ち消すことができない。欲望の赴くままに従っているうちに後悔も薄まっていく。
“ああ、これでまたまともから遠のいてしまったな”
頭の中で小さく響く自分の声。少し悪い気がしたけど、欲望の支持はいつもほんの少しだけ僕をいい気分にさせてくれるから、今は正気に戻るなんてできそうにない。何時間か先に居る自分に数回謝って、あとは欲望に意識を預けた。
そこは地獄の入り口で、一度踏み入ったら離してくれない。頭がおかしくなるまで僕を揺さぶり続ける。使い物になったら灰になるまでじっくり焼かれて終わり。
さみしいね、くるしいね。
嘆きには共感して頷いてくれても、目を合わせてくれる人は、ひとりも居なかった。
僕を見下ろす人の顔はみんな同じで、あの子に似た人は見つからなかった。
もうやだね、しんじゃいたいね。
知らない人の涙が僕の頬に落ちた。それは、からだの中を巡る血液みいなぬくもりに満ちていた。最も深いところ、いのちそのものに触れたような気がした。このまま続くような気がした。なのに、朝になったら冷たいベッドにひとりで眠っていた。その頃には落ちた涙も冷たく乾いてなくなっていた。
ぬくもりが消えていく過程は人が死ぬときと似ているなって思いながら、カーテンを開けたらよく晴れていて、生きていることを責められているような気分になった。
テーブルの上に忘れさられた煙草の箱を開けてみると、二本だけ煙草が残ってた。徐に咥えてガスレンジで火を灯した。回る換気扇へ向けて煙を吐き出すとき、昨日僕に触れた人も、あの子も、どうか幸せにならないでと願った。
行くあてもなく列車に乗ってぼんやり車窓を眺めていると、見覚えのある景色が眼前に飛び込んできた。その拍子で浮上する苦い思い出の数々。
できるだけ奥底に沈めてあやふやになった輪郭が、再び形を帯びていくのはあっという間のことだった。阻止しようと試みても、湧水のようにあふれてくる残像に抵抗する術がない。
不幸せそうな表情のすべてを元の形のままに思い出してしまったら、俺はまた俺を殺すことになると、必死に訴えても俺の頭の中はあの人を映す。俺の心は未だにあの人が独占していることを知らしめてくる。
記憶の中のあの人と目を合わせてはいけない。骨が浮いてどこか哀愁を帯びた背中に決して触れてはいけない。それは罠だ。できるだけ濃い靄を浮かべて、誘惑のすべてを覆う。なにも見なかった。なにもなかった。すぺて気のせいだ。
払拭するために乱雑な言葉を矢継ぎ早に放つのは、ただ惨めに思えた。どうしたって救われない。今更になって列車に乗ったことを後悔している。
あの人が住む街を通り過ぎた。
車窓の向こうには曇天が広がっている。壊れかけのイヤホンからノイズ混じりで聴こえてくるのは、かつて好きだった曲。
ポケットの中にあるスマホを引っ張り出して、ひみつのアカウントを開く。
“あの人が教えてくれたバンドの曲、消すの忘れてた。もうあの人は俺のことなんて忘れて別の人と生活をしてるんだよな。俺だけ憶えてるとかどんな地獄なんだよ、これ”
無機質なゴシック体では俺の気持ちの1%も現すことはできないけど、誰も見てないことをいいことに行き場のない気持ちをいくつも書き連ねている。
不特定多数の誰かじゃない。あの人に届いてほしい。あの人だけに向けて言葉を吐き出し続けているけど、それは叶わない。だって、あの人はSNSなんてやらないから。
「苦手なんよ、こういうの。マジで何書けばいいかわかんねえっつーか……書くこともなければ、見て得るものもないのかもしれない」
いつか話してくれたことが蘇る。
確かにあの人の言う通りだと思う。ヘイトの割合の方が多いし、気分を害すことが過半数であるいわば地雷を自ら踏むなんて馬鹿げてる。そこから生まれるものも、得るものない。
俺が運営しているひみつのアカウントは無意味だ。掃き溜めでしかない。ゴミ箱を好き好んで覗く人は居ない。俺だってそんな滑稽なことはしない。
諭せば諭すほど深い絶望に覆われて狂いそうになる。自分自身を諭すことは、あの人との関係が進行形には戻れないということを再自覚すること。どれだけ「もしかしたら」という期待を膨らませても続きは芽生えない。
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何気なく話した夕日に溶け込みたいという話で、処方される薬が増えた。
「お薬、ちゃんと飲んでくださいね。そうじゃないといつまでも彼のことを引きずったままになってしまいますよ」
消毒液のにおいが充満している待合室で、そう告げてくる声音はどこか辟易としているようだった。
子供騙しみたいなことで服用を促すなんて大した医者じゃないなとか胸のうちで悪態をつく。
長ったらしく忘れるのを待つなんて面倒なことをせずにビールで流し込んで早々に忘れてしまった方が楽だ。
カバンの中に潜ませておいて缶ビールを手探りで探しても、それらしき感触に行きつかない。
代わりに入っていたのは、ペットボトルの炭酸飲料。透明で甘いやつ。診察中に看護師がすり替えたのだろうか。
やるせなくて涙が零れた。俺は一体、なにをしているんだろう。あの人が浮かんでしまうから、泣くのは嫌いだ。
どうしたらいいのか。どうしたら手に入るのか。どうしたら、俺を必要としてくれるのか。
未だにこんなことを思う。
答えは存在しない。疑問に答えてくれる人は誰も居ない。唯一の薬は時間だって言ってたけど、あとどれくらいかかるのか。ただ薬の量が増えていくばかりで、なにも変わらない。記憶が美化されるのと比例して、惨めになる。
ふと気づくと、またあの列車に乗ろうとしている俺が居た。分岐点に戻れる列車に辿り着くまで繰り返し続けていく。いつしか望んだ列車に辿り着き、分岐の場面に直面したのなら今度はあの人と出会わない人生を選択しようと思う。すごく悲しいけど、きっとそれがいい。
あの子にさよならを言わないまま遠くの街へ行く。きっともう二度とここに帰ってくることはできないだろう。
どんな選択をしても後悔に苛まれるのなら、あの子を憶えたまま苦しむ後悔を選びたかった。それはたぶんかつてあの子が呟いた「忘れることは簡単だけど、そいうのってなんか卑怯だよね」という言葉が棘として胸に刺さったまま消えないことが影響しているのだろう。
夜空に浮かぶ星たちの光を集めたら、永遠に解けない魔法が完成する。僕にまつわるすべてを抹消させるための魔法。この魔法が成功する算段は十二分にあるし、朝になれば父さんも母さんもあの子も、みんな僕のことを綺麗さっぱり忘れていることだろう。
万が一、脳裏に浮かんだとしても、ぼやけた記憶を手繰り寄せたりしないほしい。僕を探さないでほしい。僕を思わないでほしい。それは夢の切れ端だ。存在しない記憶だ。すべて偽物だ。僕は最初から存在しない者で、父さんや母さん、それからあの子に魅せた「僕」は嘘でいっばいの悲しい幻影。
もう少し上手くやり通せたらよかったけど、僕には無理だった。笑顔を浮かべているのに涙で頬を濡らすあの子を見たら居た堪れなくなったから。
魔法以外のものをどれだけ継ぎ足してもあの子の中から彼は消えない。彼と過ごした記憶も美化され続けて、僕では拭えない寂しさがあの子を壊そうとしている。
結局、僕は僕でしかなくて、彼になることはできないと思い知った。そうやって中途半端だから、お師匠様にも見捨てられてしまったのかもしれない。
次は、次こそは、ここよりずっと遠くの街では上手くいくだろうか。自信はない。遠くの街へ行ったって僕は性懲りも無く父さんや母さん、あの子に似た人を探してしまうだろうし、また同じ過ちを踏んでしまう気がしている。
何者かになるなんて到底無理で、仮に上手くやり過ごせたとしても、偽りで得た幸せの味は舌ですぐに溶けてなくなる綿飴のように儚いことだということもわかっている。それでも僕がこの滑稽でしかない一連の流れを繰り返すのは、誰かにとっての本物いわゆる僕が僕として存在できる日々を諦めることができないから。いつかは獲得できるんじゃないかって、信じている。
さあ、準備は整った。長い回想と後悔に区切りをつけて元の位置に返してあげよう。
無事にみんなが僕を忘れて空が青ばんだ頃、箒に跨って冷たい空気の中を縫うように遠くの街を目指す。
ごめんね、ばいばい。