母国語が異なる人を愛した私を母は許さなかった。
「彼が、お前によこした言葉に深い意味などない。世間知らずの大馬鹿者。恥を知りなさい」
母は私を延々と罵り、私の頬を叩き続けました。
あまりのことに言葉を失い、私は母を見ることすらできませんでした。
それは母からの罵倒や暴力に消沈したわけではなく、彼が私にくれた愛の言葉が、真実ではないかもしれないということに心を痛めたからです。
じんじんと痛む頬へ平手打ちが容赦なく繰り返される最中、私は彼を想っていました。
冷たい雪が舞い落ちる中、彼が私に告げた愛の言葉が耳から離れないのです。
あのときの体中を駆け巡った熱い疼きが、今も続いているのです。
——もう、あなたには会えないのでしょうか。
届かない言葉を胸の中で何度も繰り返します。当然、誰も答えくれません。頬の痛みより、胸の痛みで涙が溢れました。
・
・
・
涙で濡れた枕が冷たくなる頃、逢瀬を交わすためによく乗車していた電車の音が遠くの方から聞こえてきます。
「今晩のように月が美しい夜に必ず迎えに行くよ」と、彼は言ってくれましたが、それが現の話だったか、夢の話だっか、今は思い出せなくなってしまいました。
彼の声や面影も徐々に曖昧になっていく恐怖に苛まれる日々を過ごしています。
これは罰なのでしょうか。
単に私が盲目なってしまったから悪夢を見ているのでしょうか。はたまた母の言う通り、あの言葉はよくある挨拶の類だったのでしょうか。
私は期待をしてしまったのです。信じてしまったのです。そんな私を彼は滑稽な女だと、どこかで嘲笑っているのでしょうか。
例えそうだったとしても私は彼を待ってしまうのです。
暗く閉ざされた場所で、光が差し込むのを静かに待っているのです。
弄んだのなら、いっそ殺してください。
若気の至りだったと割り切ることができないのです。歳月と共にあなたを忘れていくのが怖いのです。
とても好きだった。この身をかけて愛していた。ただ、それだけ。ただ、それだけだったのです。
拝啓 十年前の俺へ
この十年のうちにあの人はかねてより縁談のあった綺麗な方と結婚してしまいました。今度の冬に子供が生まれるそうです。ここまでの文脈でおそらく察しているとは思いますが、あの人を忘れることができない俺はその広すぎる家に今もひとりぼっちで暮らしています。あの人以外の人なんて到底無理ですから、きっとこのまま生涯ひとりで過ごすことになるでしょう。
気を落とさず、下記をしっかり心に留めてください。十年前の俺なら、まだ間に合います。分岐に直面したとき、どうか躊躇わず、心の赴くまま素直に選択をなさってください。
あの人と春になったら一緒に眺めようと約束して庭に埋めた色とりどりのチューリップが咲き誇る頃、あの人が俺に答えを委ねることがあると思います。しかし、俺があの人を想って出した答えは、あの人を幸せにすることはできません。そして俺の出した答えにあの人は悲哀に満ちた表情を浮かべます。そうです。俺は、あの人を深く傷つけてしまったのです。よかれと思ったことは裏目に出ます。正しさだけが正義ではないのです。ですから、教会の父の教えは一度、忘れてください。その首にあるロザリオは本当のことは教えてくれません。望んだ方へは導いてくれません。俺は、あの人のあの顔を思い出にすることすらできなくて、長い間とても苦しむことになります。この手紙を認めている今も傷ついたあの人のあの表情が浮かび、涙があふれてきます。俺は、なぜあの選択を最善だと思ったのかわからないです。今これだけ後悔をしているのだからきっと間違っていたのでしょう。
あの人はご自身の家柄もあってか本当の自分を隠し、また心を殺しながら、とても苦しそうに生きていることを俺はよく知ってますよね。いや、俺だけしか知らないというのが事実です。あの人は他に助けを求めることができません。手を取り、共に逃げ出し、あの人を解放できるのは俺だけです。俺しか居ないんです。
いつの日か俺があの人にあなたにとっての幸せとはなにかと訪ねたときに、あの人が言ってくれたのは紛うことなき俺です。それが俺とあの人を繋ぐ確たるものであることは明白です。決して疑ってはなりません。あの人が一番に想うのは、想ってくれているのは、俺です。これは悪い妄想の類などではありませんし、気が触れているわけではありません。あの人が俺を想う気持ちが、一体どれほど尊いものなのか、幼過ぎた俺は気づくことができなかったのです。ゆえにあの人を傷つけてしまった。俺にとってあの人を傷つけてしまったことは、教会の父に教えてもらったあらゆる罪よりも重い罪に値し、赦されないことだと思っています。あの人の言葉を思い出し、反芻してください。そこに必ず真実があります。それを忘れないでください。絶対に、です。俺は俺自身が信じたいものを信じ、またその幸福を祈るべきなのです。
あとのことは十年前の俺、君に任せます。どうかあの人を幸せにしてください。あの人の手を離してはなりません。今の俺から与えられるヒントは全て与えました。あとは君の心に従うだけです。再三申し上げている通り、他の誰でもない自分自身の心に従うことが重要です。あの人と過ごす未来が君にあることを十年後から祈っています。あの人と今の俺の希望は君だけです。負担をかけることを申し訳なく思いますが、どうかどうか頼みます。
敬具 十年後の俺より
「うっわ! それ、めっちゃおもいろやん。ほんで?」
「それ以上のことなんてなんもないよ。通学路にある竹藪にチョコ捨てられて、そんで終わり」
「なあ、ガチなんか? ほんまにガチなんかそれ。あいつ最低やん。顔面バチクソに叩いたろかな」
「いろいろしんどいことになるから、それだけは絶対にやめて」
「とりあえず、捨てられたチョコは俺が見つけたるやん」
「いいよ、やめて。そんなことしなくていい。大体、見つけてどうするの」
「決まってるやん、そんなん。食べ物なんから食うやろ。普通に」
「打ち捨てられたやつ食べるとか不衛生の極みだから。下手しなくてもワンチャン死ぬよ」
「全然平気よ。俺、気にせんもんそういうの。全然食うし」
「危機感どうした? お母さんのお腹の中に忘れてきたん? ……てかもうないから」
「なんで? あるかもしれんやん」
「ない。ないんだよ。回収しようと思って夜中に見に行ったら、なんかゴソゴソ音してスマホのライト向けたら、わけわかんねえくらいでっけえ犬がチョコ貪ってたからもうない」
「……ッ、ふふふふ、ごめ、あははははは!!!」
「は? 笑わないって言ったのになんで笑ってんの? 今日を命日にしたいってこと? いいよ、わかった。今からあんたの頭をそこの鉄バケツで叩いて、花壇に埋める」
「ごめんごめん。ほんまごめん。そんな怒んなて。てかさ、それやったらその犬ごと俺がチョコ食うたるやん」
「なんで? なんでそうなるの? そこまでしてチョコ食べたいなら、もう買いなよ。お金やるから買って食べな」
「いや、それはあかん。バレンタインデーに自分でチョコ買うんはセンシティブすぎるっちゅーのもあるけど、そこはさぁ、お前の作ったやつやないと意味ないんよ」
「そんなの知らないし、別にあんた宛にチョコ作ったわけじゃなんいだけど」
「俺宛ちゃうくても構わへんよ。どんな形でもあっても、お前のチョコ食えるんやったら、俺はめっちゃ幸せやねん」
「なんかさ」
「おん?」
「割とグロいこと言ってんの気づいてる?」
一頻り笑ったあとマックに寄り道して「バッドバレンタイン乾杯!」とかわけわかんない掛け声と共に三角チョコパイを食べた放課後を馬鹿みたいにいつまでも憶えてる。
いつか忘れてしまったとしても、死ぬ間際に思い出す気がする。
おじいちゃんが言ってた。薄れてしまった何気ない日々が、ふわっと色鮮やかに蘇るって。それは人生で最も豊かな時間で、最も大切な記憶らしい。
あいつが今でも自分の隣に居てくれたらよかったけど、そういうのって概ね叶わない。
どうしてこうなってしまったんだろう。たぶん、自分が悪い。
ゆったりした心地良い関係性に永遠なんてない。わかってたはずなのに、甘え続けたから崩壊した。
どれだけ後悔を重ねても、完結を決定として過ぎてしまった結果は覆せない。
いつからか、あいつ今なにしてんのかなって思うことしかできなくなってた。
今はもうあの日に食べた三角チョコパイの味も、あいつの顔も、ぼやけてる。
頭の中に居座ってるくせに、ぼやけるなんて卑怯だろって思いながら、煙草の煙を吐き出す。
夜の闇に燻る煙草の煙は、記憶がぼやけていく様と似ている気がする。
きっとハッピーで溢れているだろう日に、こんなにも切ない気持ちになるなんてさっていう感傷は過ぎていく今日と共に薄れていく。バイバイ、バッドバレンタイン。
「意味がないことって言葉をよく使うけどさ、全部に意味がないといけないのかな。いや、責めるつもりじゃない。説教するわけでもないから、むすっとすんなって。んー、なんて言えばいいだろう……素朴な疑問っていうか……俺の中にある話をただ聞いてほしいんだよ。聞いてくれる? 俺、思ったんだ。なんとなく退屈だなーって思っちゃう授業中とか待ち時間に、他愛もない考えごとや誰かに対しての思いを巡らせることは意味がないことではないなって。月日が流れて、そんなふうに思う場面に遭遇することが増えたんだよ。ふと気づくんだ。この感じって、あのぼんやりした時間に胸の中で揺蕩ってたことの答えなのかもしれないって。上手く説明できないけど、そんな感じ。歳を重ねたからこその発見なのか、もしくはこんなふうに気づくための過程として組まれていたのか……どちらも定かではないけれど、意味がないことなんてなかったんだと思う。今に繋がるすべてだったんだって。あー、やっぱり、納得できないか。んー、そうだなぁ……大人になってからふとこの会話を思い出したとき、気づくことがあるかもしれないとしか今は言えない。……まあ、なにも気づけないかもしれないし、そもそも俺を忘れてる可能性もあるけどね。ごめん、聞いてほしいとか偉そうなこと言って、曖昧になっちゃった」
・
・
・
記憶の片隅にある言葉。発してくれた一語一句から温もりを思い出せるのに、彼の顔を思い出せない。彼のことはとてつもなく大切だったような気もするし、そうでもなかったような気もする。よくわからない。彼に関することは僕の中で靄がかかっている。僕がかけた靄なのに、それを払おうとすることを僕が許さない。許してくれない。いつか消えてしまうだろうと思っていたのに、なかなか消えないし、忘れることすらできない。僕の中で得体の知れない彼がずっと息づいている。
僕はいつからか意味のないことという単語を使うのも、思うのも、やめた。それは彼を覚えていることを意味がないことだと肯定することができないから。
例え顔を思い出すことができなくても、意味がないことだとは一蹴できない。得体の知れない彼を忘れないことが、彼のくれた言葉を覚えていることこそが、すべてを失ってしまっても、呼吸を続ける僕の生きる意味なのだと思う。
今この瞬間も呼吸をし、思いを綴っていることを意味がないことだなんて思えない。だって、彼にもう一度会いたいと願う心を諦めることができないから。僕にとっての唯一の、一筋の光なんだ。
青き頃に憧れた彼という若葉にいつまでも思いを馳せながら、余生を過ごしている。きっと、なにか意味があるはずだ。解明できるのは、死ぬ間際なのか、死んだ後なのかわからない。けど、彼にもう一度会うことができるのなら、答え合わせがしたい。
彼の言葉や教えを素直に受け止めれなかったことを謝りたい。本当はあのとき、気づいていた。すべてに意味はあって、中身がなさそうな事柄こそ意味がつまっていることに。
ねえ、██。こんなに遅くなっちゃったけどさ、改めることができたよ。もう遅いかな? だったら、あのときのように説き伏せてくれないかな。そうじゃないと諦めきれなくて、死ぬことすらできないんだよ。もう、素直に言うけどさ、意味のないことなんてなかったたろ?って、██に言ってほしい。あのときに戻れなくても、もう遅くても、来世で上手くやるからさ。約束してほしい。██の顔を見つめながら、██の声で、聞きたいんだ。
もうそんなときは訪れないとしても、そのときをずっと待っている。この真っ白くて無機質な病室の冷たいシーツに包まれながら。
ジャングルジムの頂点に辿り着くことができれば王様になることができて、明るい未来が待っていると信じていた。頂点に向かう道中で自分の目的達成のためにとあらゆる人を蹴落とし、やっとの思いで辿り着いた頂点は思い描いていたものは全く別物で、見渡す限り鈍色の景色からはとくに感動を得ることはできなかった。ジャングルジムの下で転がっているのは、かつて人だったもの。自分が蹴落とした者の残骸が山積みになっている。その山から一体ずつ蟻たち引き抜き、巣へと運び出している様子も伺えた。背中のネジが壊れてしまっているからかつてのようには動けないだろうし、蟻の捕食物になる運命しか残されていない。自分を恨むだろうか。コンティニュー機能が使えたら真っ先に殺しに来るのだろうか。不穏な連想を巡らせながら、ふと自分の手を見ると赤黒い血で染まっていた。憧れていた王様はこんなにも醜い淀みを背負いながら、ここに立っていたのか。ともすれば、下から見上げたときに王様の持つものすべてがきらきらと輝く宝石に見えていたのは一体なんだったのか。今思えば、それは王様だけが使える狡猾な魔法によって魅せられた幻だったのかもしれない。かつての王様から奪ったこの杖で、自分が憧れた王様と同じように魔法使って夢を魅せてあげなければ。とっておきの明るい未来を。