秋の夕日を見て真っ先に思い出すのは、茜色の中に向かっていく彼の背中。茜色に彼が取り込まれるのは一瞬のことだった。「待って!」と叫ぶ僕の声も、彼のワイシャツを掴みかけた僕の指先も、彼を繋ぎ止めるには力不足だった。
「これは悪い夢で目が醒めれば、すべて元通りになっている」
これを呪詛のように繰り返す僕を両親は気に病み、息子は親友を亡くして気が触れてしまったんだと嘆いていた。父さん、母さん、よく聞いて。僕は狂ってなんかいないよ。それから彼は親友なんかじゃない。そんなどこにでも転がってるような安い言葉で僕と彼の関係性を表さないでほしい。
物理的ではないとしても言動で彼に触れることを許せない。彼は僕のものだ。僕だけのものだ。うるさい。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。誰にも彼の話を聞いて欲しくないし、誰からも彼の話を説かれたくない。彼にまつわるすべてのことは僕だけのもので、その記憶は僕の中だけに在ればいい。そして彼との記憶に他者が紛れ込むことは絶対にあってはならない。だから黙って。黙れよ。黙れ。彼の名前すら口にするな。
彼や彼の記憶を守りながらなんとか生きていくつもりでいたけど、限界かもしれない。彼の居ない日常で息をすることが苦痛だ。取り戻したかった。彼の居る日常を。ないものをねだるだけの日々は過ぎ、歳を幾つも重ね、彼が居ないという事実だけが色濃く刻まれていく。僕の人生は仄暗さだけがどこまでも続いている。なにをどうしたってまばゆい光が差し込むことはない。ところが今、眼前には茜色の光が広がっている。優しく柔らかな光。すべてを許しくれるような、愚行と共に汚れを浄化してくれるような、温もりのある光。今なら彼に会えるような気がする。あの日の彼と同じようにこの茜色に呑み込まれてしまおうか。茜色の先にはなにがあるのか。想像を絶する安らぎか、はたまた何も感じることができない永遠の無か。そもそも彼は何を求めて茜色に呑まれたのだろう。茜色に呑まれ、運良く彼の元に辿り着けたとして、彼が別の誰かと手を繋いで居たら僕は彼を殺さなければならない。それが怖くて今の今まで悲劇のヒロインを気取って居たのではないだろうか。だけど、思う。いや、やっと気づいた。本当に欲しいならどんな手を使ってでも手に入れなければいけないということに。つまり、いつまでも二の足を踏んでは居られないってこと。
ねえ、そこに居るんでしょ?
どうして僕を置いて行ったの?
どうしてそっちに行くことを選んだの?
僕のせい?
僕が君を好きだと言ったから、君は居なくなったの?
ごめん。でもやっぱり僕は君が好きなんだ。どうしようもなかったし、どうしようもできなかった。気づいたら君に縋ってた。そんな僕を受け入れてくれた君は僕と同じ気持ちだとばかり思って、そう信じて疑わなかった。いいや、違うな。僕は自分にとって都合の良い解釈をしていただけなのかもしれない。ああ、そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。君はとても優しい人だから強い拒絶を見せなかっただけ。僕らはふたりとも同じ。見てみぬふりをしていた。僕は何もわかってなかった。君はすべてをわかっていた。全部、全部全部全部、僕の独りよがりだったんだ。だけど、ひとつだけ怪訝に思うことがある。どうしてあのとき君は僕の唇に自分の唇を這わせたの?
僕は知ってる。僕が眠ってるって勘違いした君が、秘密の賭けをしていたことを。君が自分の唇に毒を塗って僕の唇に重ねたこと。本当は全部わかってたんだ。この茜色が群青に変わる前に僕はあの日の君を追いかけることにするよ。だって、秋を過ぎたらもう会えなくなっちゃうから。ベッドに身体を預けるようにして茜色へとなだれていく。ゆったりとした角度で移ろいでいく情景。
——「待って」
誰かの声がした。僕を引き止めるような声。その声を辿って視線を這わせても延々と茜色が広がっているだけで、なにもわからなかった。きっとたぶん気のせいだ。僕を呼び止める人なんて君以外居るはずがないから。
「君が好きだよ」
この状況で真贋を見極めることなんて不可能ではないだろうかと、ふと思う。口ではいくらでも方便を紡ぐことはできる。しかし、その左手にあるものはどうすることもできないだろう。
「どうしたら信じてもらえるかな」
薬指にはめられた銀色の輪っかを光らせながら信じてほしいなんて言うのは正気の沙汰とは思えない。この人は本当に気が触れてしまっているのではないか。肥大する邪推に促され、僕は少し意地悪をしてみたくなった。
「あんたの言動にはどれもこれも信憑性がないよね。信じほしいって言うならさ、それ外せないの?」
僕の問いかけをはぐらかすように微笑み、やり過ごそうとする。僕はそれを赦さない。もうその手には乗ってやらない。あんたの思う通りに事が進むなんて思わないほしい。あんたの望むのは、ひとつも与えてやらない。あんただって僕の望むものをひとつもくれないんだからお互い様だろう。今だってそうだ。その指輪外せずに居るじゃないか。もう僕を試したりしないで。それから、僕を恨んだりしないで。僕もあんたを恨んだりしないから。
「もうやめしない? こんなくだらない駆け引きをいつまでも続けていたって不毛だよ」
伝えたいもののすべてを飲み込み続け、妥協して手に入れた幸せなんて会得にならない。
「……え?」
「終わりにしよう。元々進展の望めない関係だったろ。僕たちは。あんたも然るべき場所があるんだから留まっておくべきだよ。二兎を追う者は一兎をも得ずって言うだろ」
「本当に言ってる?」
「関係を築くのはさ、火照った身体を冷たい海水で癒すのとは訳が違うんだよ。後悔してるの? ならその後悔を一生抱き続けてよ。僕を軽んじたあんたが悪い」
「そう、だね」
またそうやって笑うのか。赦せない。絶対に赦すことなんてできない。煮え切らない態度をとり続けるあんたが大嫌い。僕を選んでくれないあんたなんて大嫌い。なのに、僕の頭はあんたのことでいっぱいだなんて、理不尽だ。やめろ。もう、やめてくれ。あんたは僕の抱える苦しみがどれほどのものか知らないだろうし、知ることもないだろう。教えたことも、教えることも、ないだろうから。だけど、それでいい。別に。知らなくていい。あんたは何も知らないままでいい。こんな鬱陶しいものは僕の中だけに留めておく方がいいに決まっている。治らないとわかっている疫病を感染させて連鎖させるなんて地獄絵図を描く必要はない。
始まりがあったかどうかさえ、危うい関係は終わりを告げた。透きとおった青に、夏の雲が広がる空。坂の上の蜃気楼をすり抜けていく寂しげな背中。呼び止めることはしない。最後の最後まで指先すら触れることができなかった。
「僕もさ、あんたのこと好きだよ。……ううん、好きだった」
聞こえない。届かない。紡いだ言葉は虚構に溶けて、なかったことになる。
僕のせいで苦しむあんたは気持ち悪い。だから、とっとと忘れてよ。僕のことなんて。終わりにしよう、終わりに。もう見えなくなったあんたの背中を目掛けて、そんな想いを胸の中で綴る。
ぬるま湯の心地良さを手放すことができずにどこか欠落した日々をだらしなく続けてしまったせいで、生きる明瞭さを失った。いやきっとそれだけではない。一体どれほどのものを犠牲にしたのだろう。気づけば、普通にできていたことすらできなくなってしまっていた。周りを見渡せば、劣等に苛まれる。そこでやっと気づいた。僕は良いように扱われていただけだと。あの子もあの人も僕に対してあたたかな感情を持ち合わせてなんかいないのに、何度も愛を囁いて、束の間の優越を僕に与えた。すべては僕を陥れるための甘い罠だったのだ。弱る僕を見て楽しんでいたんだろう。絶望と劣等に苛まれる殺伐とした日々に生かされているだけの空っぽなクラゲになるくらいなら、なにも気づくことができないただの阿呆で居る方が数億倍マシだった。僕はどうしていつもこうなんだろう。誰かの手のひらで転がされることしかできない。馬鹿にされ、笑われることしかできない。なんて滑稽なのだろう。そういえば、名前も知らない誰かが僕を指さして「お前は生まれながら道化師だ」って声高らかに笑っていた。それならあの子がくれた言葉はなんだったんだ。あの人の温もりはなんだったんだ。あの子やあの人の涙はなんだったんだ。美しい花のような笑顔でさえも僕を面白くも哀しい道化師にするためだけに魅せたものだったというのか。ともすれば、なにを真実と捉えて生きるべきなのか僕にはもうわからない。与えられた気になって悦んだ価値はすぐに取れる鱗だった。それに気づかず、浸っていた優越もニセモノ。無価値の中で泳ぎ続ける僕をどれだけの人が笑っていたのだろう。劣等に塗れすぎた僕は僕自身すら愛すことは困難を極めていて、目を背けてしまう。次に目を覚ましたときはどうか劣等の類いを感じない人生を歩めていますようにと、わずかな希望を抱きながら瞼を閉じる。
これまでずっと秘めていた想いをついに手放すときがやってきた。
「君が真相に辿りつけたとき、本当の僕が見えてくるかもね」
「は? どういう意味だ? ちゃんと説明しろ」
「そのままの意味だよ」
「だからそれがわかんねぇって言ってんだろ」
「僕が教えなくても、きっと胸の中に浮かんでくるはずだから。——僕の言葉に疑問を抱いているうちは説明してもきっと伝わらないと思う」
「なんでいつもそうやって上っ面しか話してくれないんだよ、お前は」
「はは、上っ面か……それはごめん」
「おい、待て——」
肩を掴む手を振り解いて僕は海の中へ体を沈め、潜っていく。
君は僕に辿り着けるのだろうか。君が僕に辿り着けたとき、それは僕が手放したものを君が受け取ってくれたってことになるんだけど、そんな夢みたいなこと起きるわけないよね、とか思いながら海中を浮遊する。色濃い絶望の中に居ながらも、僕はどこか期待してるのかもしれない。小刻みに波打つ海面を海底から眺めていても、やっぱり君が降りてくる兆しはない。瞬きをすると淡く揺れる視界。潮がまつ毛を揺らすたびに、小さな気泡が眼前を蝶のようにひらひらと舞う。海面から差し込むひとすじの光に人差しを伸ばしてみる。透ける指先が綺麗だ。なのに、僕の心は霞んでいる。僕は哀れな人魚。君が僕を好きになってくれなければ、泡になってしまう。泡になって消えてしまう。僕の胸に生まれた熱が君に伝わっているのなら早く迎えに来てほしい。そんなふうに思うのは重たすぎるだろうか。この海でずっと待ってる。君を。君だけを。君の気が向いたらでいいから、気が向いたら僕を救ってほしい。それだけが僕の望みだから。
「元気?」
もう動くことはないと思っていたトークルームは、一件のラインで半年ぶりに日付が更新された。
「あ、既読ついた」
「そりゃつくだろ」
「ブロックされてると思ってた」
「しねぇよ。するわけねぇだろ」
ぎこちない会話のキャッチボールを繰り返したのち、この機会を逃せば、きっとまたいやそれこそ未来永劫に話せなくなってしまうと思った俺は「少し話すか」と通話を切り出した。
「え」
「都合悪りぃか?」
「いや違くて上手く話せないかもしれないから返答に困った」
「俺が適当に話すから別にいい」
「できないでしょ。口下手じゃん」
「舐めんな。話してない間に俺だって成長した」
「こっちはなんも変わってない。いやマジで上手く話せなくて黙ってばっかになるかもよ」
「だから構わねぇよ。これを機にまた頻繁に話して慣らしていけばいいだろ。……もういいからかけんぞ」
断われるのは怖くて半ば強引に通話ボタンをタップする。一回、二回と重なっていくコール音を聴いていると、そのコール音に合わせるように脈を刻むスピードも早まっていく気がした。五度目のコール音のあと受話器から聴こえてきた控えめな「もしもし」に熱くなる胸。懐かしさと嬉しさが入り混じって変な感じだ。きっと今度は失敗しない。今度こそ上手くやる。固い決意を胸の中で唱えながら頭に浮かんだ言葉を紡いでいく。崩れてしまった関係をゆっくりと時間をかけて修復していきたい。足りない部分は補い、隙間を無くすように縫い合わせる。かつてこいつが俺にそうしてくれたように今度は俺がこいつのことを満たしてあげたい。ただそれだけだった。
「ねえ、怒ってないの?」
「お前の方こそ」
「怒るわけない」
「だったら俺も同じだ」
「……ありがとう」
「……あのとき、逃げてごめん。弱くてごめん」
「それはこっちも同じだから。なんだかすれ違っちゃったみたいだね。でもさ……なんていうの……その、燕と同じで元の場所に還るんだね」
「なんだそれ」
「詳しく聞きたい?」
「ああ、ぜひ聞かせてほしい」