目が覚めたら隣で寝ているはずのあの人の姿がなかった。突如として生じた空白と侘しさは底のない穴の中を落下し続けるようだった。けど、なぜかなにも思い出せない。こんなに悲しいのに酷く曖昧だ。留めておきたい記憶のすべてに靄が色濃くかかり、わからないの比率が大きくなるばなりで、声はどんな感じで温もりはどれほどのものだったかよく思い出せない。どんな髪型で、どんな表情を浮かべていたのか不明瞭になってしまったのに涙だけはあふれてくる。不思議だ。心だけが憶えているのだろうか。心だけが憶えているから悲鳴を上げ続けているのだろうか。ひりひりと痛む。眠りに就くまでのあふやな残像が頭の中を巡って、心が熱く揺れる。ひとつだけわかるのは、あの人を二度と抱きしめてあげることができないということ。あれ、でもどうして私はあの人を抱きしめてあげなければならかったんだっけ。たぶんきっと悲しそうだったからのような気がする。不確かだけど、あの人が悲しそうだったから私もいつも泣いて、どうすることもできなかった。やるせない思いだけ募って助けてあげれなかった。あの人のことも自分自身のことも。こんなことになるなら、高望みなんてしなければよかったなあ。
窓越しに見えるのは変わりゆく季節と、あの子の後ろ姿。その情景をただ見つめているだけで日々は過ぎていく。それでもの心は十分に満たされていた。この細やかな幸せは永く続いていくと信じていたけれど、あの子は夏が始まる前にどこか遠い場所に行ってしまった。永遠の終わりを知った僕の心に生まれた空洞。そこにはどうしようもない侘しさが募っていく。もう二度と満たされることはないと悟りながら今もまだ窓の外を見つめている。先に立たない後悔のせいで、こんなに苦しい思いをするなんて知らなかった。知りたくなかった。そんな僕を横目に燦々と照る太陽。その眩さに手をかざし、瞬きを何度か繰り返す。窓越しに見えるのは、あの子じゃない子の後ろ姿。せめて一言だけでも言葉を交わせていたら、こんなに苦しくなかったのだろうか。せめて僕があの子のように外で遊べる健康な体をもっていたら、これほどまでの後悔は抱かなかったのだろうか。すべてはないもねだりで、たらればでしかない。喉に痞えていた言葉は嗚咽に変わり、僕をさらに惨めにさせた。
君が好きだと言っていた本を読めば、君と親密になれると信じていた。信じて、いた。神様は残酷で僕を弄び、純情を切り裂く。
君の視界に入り込める場所で、君の好きな本を読み、君が辿ったであろう文字の羅列を視線や指先で同じように辿る。そして頭の中ではいつしか親密になった君と、この本に綴られている物語を余すことなく事細かに語り合う情景を描く。それは絵画に描かれたもののように完璧だったはずなのに、叶うことはなかった。人生とはそんなに甘くないらしい。もどかしいさを覚えるくらい近い距離にあるものほど、触れることができなのが僕の人生。絶望だけが常に刻まれ、光は閉ざされた。暗澹たる雲だけ立ち込めている仄暗い嵐の前の海のような暗く冷たいそして寂しい虚無だけがいくつも連なっている。本を読み終えた頃、愛おしい姿はそこになかった。僕の嫌いな彼と手を繋いで、どこかへ出かけてしまったらしい。
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僕はきっともうこの本を開かないだろう。大好きな本だったけど、読み返すことはしない。だからこのベンチに置いていくことにした。
僕の大好きなこの本を拾ってくれた“君”へ
呪物でもなんでもないから、そんなに気味悪がらないでほしい。よかったら、この本を貰ってくれないかい?
この本は僕の宝物なんだ。あとね、というかこれが本題なんだけど、この本はとても面白いよ。(これってネタバレになるのかな。だとしたらごめん)なにこの本って思ったかもしれないけど、本当なんだ。本当にこの本は面白いんだ。装丁は、まあ、ちょっとアレだけど。単行しか発売されていないかつ部数もそれほど出ていない代物だから定価で買うと、そこそこに値が張る。
タダってなんかよくない? タダほど高いものはないとかってよく耳にするけど、それって貶してるのかな。それとも褒めてるのかな。よくわからないよね。言葉って難しい。ちなみに僕はタダ固定派。無条件で得した気分を味わえるから。焚き付けるのも悪いような感じがするし、嫌じゃなければ、この本を君の家に連れて帰ってあげてほしいんだ。そうじゃないと、ほら、その、この本が可哀想じゃない?(置いて帰った張本人の僕が言うのもなんだけど)
もしも君がこの本を連れて帰ってくれるのなら、お願いがあるんだ。下記からは待って帰る場合のみ、読み進めてほしい。タダで譲る誼みと言ったら押し付けがましいかもしれないけど、頼みがあるんだ。この本を連れて帰ってくれる君にしかできないことだよ。可哀想な僕のことを思い浮かべながらこの本を読んでもらえると僕は報われた気分になるからぜひそうしてほしい。気持ち悪いだろうし、迷惑してるのはわかる。でもここまで読んでくれた優しい君だったらわかってくれるような気がして。顔も知らないのに本を押し付けた挙句、頼み事までしてごめん。でもなんとか頼めないかな。やりきれないんだ。見ず知らずの君に縋るくらい僕の心は衰退している。想いを馳せていた相手が自分のものには絶対にならないってことを身を持って知ると、脆くなるもんだよ。傷心ってどうにもならなくて、元気になるまでにとても時間を要するらしい。恐ろしいだろ? 僕もそう思う。現に気が狂いそうだもの。今、まともな自分と狂いかけた自分が対峙しているんだ。僕の裡で荒々しい戦争が起こっている。そんな状態で見ず知らずの君へ宛てた支離滅裂な手紙を書いていることを許してほしい。巻き込んでしまって本当に悪いと思っているよ。ごめんね、本当に。
数日後もっと後かもしれないけど、いつかまたこのベンチの前を通ってみたときにこの本が見当たらなければ、この手紙を読んでくれた君が僕を慰めるつもりで僕の好きな本を読んでくれていると、思うことにする。いつか僕たちが会えたとしたら、そのときは僕の好きな本を読んだ感想と、ついでに君の好きな本のことも教えてほしいな。
それじゃあ、まあ、そういうことで。いつかね。
なんて手紙が挟まっているとも知らずに拾った本が俺の好きな本になるなんて思いもよらなかった。この本の持ち主である“君”に、いつの日か出会って、君の好きな本を読んだ感想と俺の好きな本の話ができる日を心待ちに俺は今日もベンチで本を読んでいる。
「やりたいことってなんだろ」
「急にどうしたの」
「いやー、事前に計画しててもさ、それが上手くいことってないなって思って。なんだろ。自分の意思でやってると思っていても、自分の意思ではないみたいな……自分のやりたいことがわからなくなってくるんだよね」
「あー……まあ、でもそれってさ、考えてもわかんないやつじゃない? とりあえず、これすき! みたいなやつを片っ端から手をつけていくしかなくない? それで、投げ出さずに残ったものが、やりたいことな気がするけど」
「んー」
「そうやって葛藤する気持ちもわかる。けど、たぶんそれも必要なことなんだよ。なにかを見いだすには膨大な時間がかかるらしいよ。わかんなくなって投げやりになるのも、自分がやりたいことにたどり着くために必要な過程なのかもしれない。まあとりあえず、そんなに深く考えすぎないでさ、興味があるものはなんでもやってみたらいいんじゃないかな」
「そうだね。そうしてみるよ。でもさあ……時々苦しくなって、どうしようもなくなったら、どうればいい?」
「そのときは、こうやってまた話そうよ」
「いいの?」
「いいよ。え、だめなことって、あるの?」
「優しいんだね、ありがとう」
「別に、そんなことないよ。でもまあ、僕は君にだけは優しいかもしれない」
「なんだそれ」
「んー? だってそれが僕がやりたいことだから。僕は君に優しくしたんだ」
「なるほど……やっぱ、優しいね。そういうところ好きだよ」
「そりゃどうも」
どうやら外では憎悪が具現化して人が人を襲うという地獄絵図が展開されているらしいってラジオもテレビもその話で持ちきりだよ。あれなんかそういう海外ドラマがネトフリにあった気がするんだけど、タイトルなんだっけ。結構面白かったのにド忘れした。うん、外には出てないよ。それは君もだろ。僕は人見知りをだいぶ拗らさせてるから、出たくても出れないんだよ。僕の身の上話はいいよ、もう。つまんないからこれでおしまい。今はウォンカチョコ食べながら他におもしろいテレビやってないかなーってチャンネル変えまくってる。うわ、待って。なんかマジでダメっぽい。いやなんかテレ東だけは呑気にドラマとかやってるだろって思って観たらニュースキャスターが身体を引き裂かれながら「皆さん、世界は終わりです」とか叫んでんだけど。どうするか。いやなにがじゃないよ。終わりだって言ってるんですけど。てか冷静になってみるとなんでこんなときに呑気にウォンカチョコ食べてんだろ。でもこれめちゃくちゃ美味しいからさ、一回食べると止まらないんだよ。うっそ、マジで。これそんなカロリーあるの。絶対嘘だ。えー、ごめん。ガチだった。ガチで1000キロカロリー超えてた。べつにいいけどね。だって世界終わるんでしょ? 世界が終わることに比べたらカロリーが1000超えてるとかどうでもいいよ。ねえ、いま家にひとり? うち来る? ハハ、だよね。いま外出たらあの気持ち悪い人間らしきものに襲われて僕の家に辿り着く前にミンチになっちゃうもんな。あのこれはちょっとした提案なんだけどさ、僕がそっち行こうか。え、ちょ、な、なんで泣く? 大丈夫だよ。まだ死ぬとは決まってないじゃん。てかちょっと待って。僕が死んだら悲しいの? ふーん。へえ。いや? べつに? なんかいまとても君を抱きしめたくなった。こんなことになるなら、もっと早くに会っておけばよかったなって割と重く後悔してるとこ。会ってたらどうしてたかってそれ聞いてどうするの。まあとりあず、ウォンカチョコを半分に分けて仲良く食べる。500キロカロリーずつだよ。ちょうどいいでしょ。そうそう、マックのポテトと同じくらいのカロリーくらい。いや普通に流しちゃったけど、マックのポテトのカロリーってエグいな。そのあとってなんだよ。まあ、そのあとはなんかまあ君を抱きしめてたと思う。は? さらにそのあと? 引かないなら言う。君ってキスってしたことある? なるほど。僕もないよ。じゃあ、お互いの初めてを贈呈し合いますか。え、これキモくない? 大丈夫? わかった。いいね、約束だ。おい、また泣いてんじゃん。君もしかしてめちゃくちゃ泣き虫なんか。違うよ、揶揄ってないから。ちょっと可愛いじゃんとは思ったけど。それは意地悪じゃないでしょ、べつに。ねえ、あのさ、朝になって生きてたら会おう。んーん、通話は切らないよ。なんかいま言いたくなっただけから。これはもしもの話なだけど、この夜で僕等のどっちかが終わっても生き残った方が死んじゃった方を忘れないって約束してほしい。とにかく大丈夫だよ。世界が終わっても僕たちは終わらないよ。僕たちは、ずっと続いていく。だからもう泣かないで。楽しい話だけずっとしてよ。ね。