僕は知ってるよ、昨日君が人を殺したこと。いや誰にも話してないし、話すつもりもないよ。それでもやっぱり僕のことも殺しておかないと不安かな。いいよ。僕を君の不安が解消するのなら、どうぞ。なに驚いてるの。不安は取り除かないと楽にならないだろ。だから、いいよ。抵抗なんてしないから。別に怖いことなんてないさ。ほら、おいで。僕は君に殺されるのなら喜んで命を差し出す所存だよ。やめとく? そう。それはそれで残念だな。てかもう僕はもう君の共犯者なんじゃないかな。犯人隠蔽とかよくわかんないけど、そういう感じのやつ。ねえ、どうする? 僕を殺して安心を得るか、共犯者を得て安心を得るか。君の好きな方を選んで。僕のことは忖度したくていいよ。僕は君の決断を尊重するから。本当? じゃあ、僕たちふたりだけの秘密に乾杯しておこうか。ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーまーす、ゆびきった。よし、これで完璧な共犯者だね。どうしてそんなに顔を綻ばせているのかって? そうだなあ。まあ、隠しておくことでもないから言うけど、秘密を共有したことによって僕と君が離れられない甘美な理由ができてしまったなあと思ってうっとりしてたんだよ。あれ? 怯えてる? 可哀想に。やっぱり僕のことは殺しておけばよかったとか思った? それなら今からでも間に合うよ。僕はいつだって君の決断を尊重するって言ったろ。だからそんなに怯えなくても大丈夫。“僕は”君を傷つけたりしない。君を殺したりしない。その代わり僕から逃げないでほしいかな。もしも君が僕から逃げたら誰にも言えない君と僕のふたりの秘密は誰もが知っている事実になってしまうからね。いやだなあ。これは「脅し」なんかじゃないよ。誰にも言えない僕と君の秘密だよ。そう、僕たちだけの秘密。
僕の彼女が死んだのは梅雨真っ只中で火葬路に彼女の眠る棺が放り込まれたときですら僕は彼女が死んでしまったという実感が持てなくて、彼女の身体が炎に飲み込まれていく間も煙突からもくもくと燻る灰色の煙をぼんやり眺めているだけだった。
きつく寄り添っていた間柄やのに涙のひとつも流されへんなんてどうしようもなく薄情なやっちゃなあ。
———「なんやあの猫ちゅーる食べ終わったらどこかへ行ってしもたわあ。ほんま薄情やねえ。でもまあ猫ってそういう生き物やから、それでええんかもね。それが正解なんよ。私が勝手にちゅーる食べさしたんやから触らせてくれるやろなんて当然のように対価を求めて縋ってしまっただけなんかもしれん」
かつて彼女が言っていたことを思い出した。僕も、あのときの猫と同じやんなあ。泣かれへんやもん。薄情やろ? ごめんなあ。言い訳かもしれへんけど、君がまだ生きてるような気がしてならん。なんでやろうなあ。冷たくて青白くなった君を見たのに。この目で確と見たのに。なんでそんなふうに思ってしまうんやろうか。
紫陽花一緒に見に行こう言うてたやんか。あれどないすんの。行くんやろう? なあ、聞いとる? ああ、もうわかったぞ。悪戯好きな君のことやし、ひょいって死角から出てきて僕のことびっくりさせよう思うてるんちゃう。残念でした。そんなん僕はもう騙されません。僕はもう驚いたりせえへんよ。せやからさあ、いい加減、姿を見せてくれへんかなあ。僕な、ひとりは嫌やねん。怖いねん。君が居らんのにひとりで生きていくなんて怖すぎるよ。
君の好きな紫陽花色の宝石が施された指輪、この指輪、どないしよ。紫陽花見に行ったときにな、僕のお嫁さんになってくださいって言おうとしてたんよ。練習もたくさんしてたんよ。もう言われへんのか? 君は聞いてくれへんのか? 僕のお嫁さんになるん嫌やった? 困ったなあ。ほんま困ったなあ。 僕は君の旦那さんになりたかってんけど、それは独りよがりやったんかな。でも君も同じ気持ちや思うてたんやけど。やっぱもう答えなんて聞かれへんやろうか。しんどいなあ。
梅雨が過ぎれば君にまた会えるんちゃうやろかって思うてしまうのは、なんでなんやろうか。
雨が降れば止むのと同じで季節は巡っていくのに、君の時間は止まってしもうたなんて信じられへんよ。
骨壷に詰められる君やったもの。真っ白い骨。みんな泣いてる。僕は相変わらず泣かれへん。それでも手は震えていた。かつて僕が素肌の上から手を這わせた、その下にあった骨を今箸で掴んどるなんてやっぱ信じらへん。なんでなんやろ。わからん。わからへん。信じらへん、それしか思われへん。今も君は絶対にどこかに居てる。隠れてんねやろ? 僕を揶揄ってるんやろ? 僕が狼狽する瞬間をじっと待って、けたけた笑うてるんやろ? なあ、この冗談はほんまにおもんないよ。早う出てきてや。なあなあななあ。なあ、頼むよ。お願いやから。なんでも言うこと聞いたるやん。せやからさあ、ほんま還ってきてくれへんかなあ。
・
・
・
雨の音で目覚めた深夜。悲しい夢を見た。彼女が死んでしまった日の夢。梅雨時期はどうしても彼女を思ってしまう。彼女はまだ還って来ない。
あれから長い時間が流れて紫陽花色の指輪もずいぶんと色褪せてしまったけど、いつか渡せるそのときまで大事にとっておくんだ。
しとしと降る雨の音を聴きながら「彼女に会えるいつか」を待って今宵もひとり寂しく眠る。
とにかく必死に走った。なにから逃げているのかわからなかったけど、とにかく逃げなければならないという強迫観念に背中を強く押され続けて、遠いところまで来てしまった。上手く逃げれたというのは束の間の安堵で、もう走れないからそうであってほしいという願望に過ぎない。ふと背筋に走る悪寒。追いかけてきていた何かがすぐ側まで来ているようだ。逃げ切れたと勘違いし、浮かれいる俺へと着実に距離を詰めてきていた得体の知らないもの。
もう一度振り向けば、きっと終わる。もう一度振り向けば、二度と前を向くことはできない。もう一度振り向けば、世界は暗転する。諦めて暗闇に飲まれてしまうのか、ここからまた走り出すのか、そのどちらも選ぶことが俺には許されている。さあ、どうする。選択肢はたったふたつだけ。然程難しいことじゃない。そうは言っても流暢にしている暇はない。
眼前にある光を網膜に焼き付けて誰にもわからないように口角を上げる。些細なことだ。とても些細なこと。だけど、その些細なことで自信は育つ。
解けかけていた靴紐をきつく結び直せば、緩やかに流れていた情景は時の流れのように早まっていく。走って、走って、走る。アスファルトを蹴り上げるたびに足の裏から身体中に伝っていく振動は、生きていることを強く実感できる。この感覚を決して忘れてはいけない。この感覚を決して手放してはいけない。大丈夫。きっと大丈夫。まだ進むことはできる。まだ間に合う。前だけを向いて、このまま走り続けるんだ。
真夜中にふと目覚めると世界でひとりきりになった気分になる。静まり返った夜の中におれただひとりだけが存在しているような不思議な感覚。誰も居ないから気楽だ。誰も居ないから寂しい。誰かを見つけたい。誰かにおれを見つけて欲しい。おれはここに居るよ、きみはどこに居ますか。誰宛にもならない言葉は壁に当たってこだまする。そんな虚しさも朝になれば、忘れてしまう。真夜中の出来事は、朝になったら全部忘れてしまうんだ。
・
・
・
もしもし、聞こえますか。そうそう、君。君に話しかけてるよ。朝になったらボクが消えてみんなが帰ってくる。もしも君がボクと同じ真夜中に存在することができるのなら、ボクと遊ぼう。あそこの十字路にある販売機でラムネを買って、それを飲みながら散歩をしよう。きっと楽しいと思う。なんで楽しいかって? ひとりだとつまんないことも、ふたりになると楽しくなるんだってさ。まだ試したことはないからわかんないんだけど、子供の頃、読んだ絵本にそんなようなことが描いてあったんだ。ボクが言ってることを信じれないなら君が真夜中に遊びに来れたときに試してみようか。ボクはずっと真夜中で君のことをじっと待ってるよ。あ、朝が来る。もうお話は終わりにしなきゃ。じゃあ、まあ、とりあえず、いつかね。え? なに? だめだよ、それは。「またね」なんて言えないよ。だってボクたちまだ会ったことないもの。君は面白いなあ。これは全部、夢だよ。君の夢の中の出来事。真夜中の出来事。朝になったら全部忘れてしまうんだよ。
「無垢で居るにはいろいろ知りすぎたし、いつまでも子供のままじゃ居られないんだよ」
あの人はそう言ってアパートを出て行った。ひとりになったアパートで、あの人が置いて行った煙草をあの人と同じようにベランダで吸った。流れゆく時間に沿って変わる街の動きをぼんやり眺める。煙草は頭がくらくらするから好きじゃない。街を眺めていると虚しさで涙があふれてくる。もうだめだと思った。だから私はいつまでも子供のままなのかもしれない。