『たすけて』
薄暗い部屋で、字を書く。
たった一言だけなのに、手が震えて上手く書けない。
僕は家で軟禁されている──
鬼のような継母と異母姉にいびられて、今日も部屋に閉じ込められた。もちろんペンと紙は取り上げられた。
仕方なく部屋に置いてある本を読む。最近は一冊だけ置いてあった恋愛小説に興味がある。
暇なおかげで読めない漢字はほとんどない。
物語は、身分の違いで決して結ばれない男女の恋の話。その純粋で自身を貫く姿が眩しく綺麗に思えた。
「僕にも、そんな恋ができたら……」
身近にいる年が近い女の子は異母姉だけだった。
輝くプラチナブロンドの髪、白い肌、大きな目、ピンク色の柔らかそうな唇──抜群の容姿だった。
誰もが一目で恋するような、そんな彼女だから僕もきっと落ちていった。叩かれても、縛られても、好きだからと思うと耐えられた。
そうしていつしか、心に思うようになった。
『たべてみたいな』
ペンと紙は取り上げられている。
これはどこにも書けないこと。僕だけの秘密なんだ。
【どこにも書けないこと】
私の師匠は不器用だ、と思う。
師匠はいつも私が欲しい言葉をくれない。「大丈夫か?」「つらそうだな」とか言ってくれてもいいのにね。
でも、私が熱を出した時に、そっとおでこや頭を撫でてくれる手が好きだ。骨が少しごつくて、ひんやりしてて気持ち良くて。
だからいいんだ。言葉にしなくても私には伝わっている。
心配だって、早くよくなれって、そう言ってる。
「ふふ」
「まだ起きているのか、早く寝ろ」
呆れたような、ちょっと怒ったような声。
仕方ないじゃん。今日も師匠は優しいんだから。
「よいしょ」
頭の位置をずらした。具体的に言うと、師匠の膝の上に移動した。
師匠は「おい」と迷惑そうに言うけど、きっと迷惑じゃない。甘えられて嬉しいくせに。私は知ってる。
「風邪、うつったらごめんね?師匠」
「俺は馬鹿じゃないが、風邪は引かん。風邪を引いた馬鹿は早く寝ろ」
ほらね。
こんなひどいことを言うけど、絶対私を離さない……撫でる手は優しいんだ。
【優しさ】
「持たせたな!」
「ううん」
部屋のドアを勢いよく開けた。
新しい彼女は目を丸くして驚いたが、すぐに微笑む。優しい。
仕事で遅くなった時も、嫌な顔をせずに俺を出迎えてくれる。ちなみに俺が彼女の家に転がりこんだ形で。
つい先日、三回立て続けに失恋をしたばかりで凹んでいたところを彼女の笑顔に救われた。俺の人生は昔から失恋人生だ。くそ!
「お疲れ様。……息切れしてるけど、大丈夫?」
「どうって、こた、ねぇぜ……!」
心配そうに覗きこむ彼女がかわいい。
大丈夫と言うにはかなり無理があるが、これくらいは強がらせてほしい。
無理しなく走って来なくてもいいのに、と笑われるが無理をしたい。マゾではないけど。
「君に会いたくて、走ってきたんだぜ」
ウインクをすると、また彼女は笑う。
「両目、瞑っちゃってるよ」
かっこつけて失敗した……俺はウインクができなかった。こっ恥ずかしくて頭を掻いた。
【君に会いたくて】
妻の部屋には日記がある。
たまたま見つけたものだが、中身は見ていない。何故ならそれは紐で何重にもぐるぐる巻きにされていて、まるで封印されている風だったから。
ある時、魔が差して日記の紐をほどいてしまった。
妻が何やら楽しげだったからだ。いつもより念入りに肌の手入れをして美容室で髪を整えて。俺以外に好きな男でもできたのだろうか……そんな気持ちからだった。
不安だった。妻が好きだから。よそに行ってしまうのが怖かった。だから、浮気の証拠など見つかってくれるなよ──願いながら開いた日記は俺を絶望へと突き落とすものだった。
俺と出会う前から、妻は男と深い仲になっていた。日記に事細かに記された当時の楽しい思い出、男への愛に嫉妬で狂ってしまった。
俺は妻を殺した。
何度も何度も、恨みを晴らすかのように刺した。
そうだ、俺に気持ちがないならいなくなってしまえばいい。
何日も部屋にいた。近所から通報があったらしく、外はパトカーのサイレン音が鳴り響いている。
何もかもどうでもいい。もう俺を愛してくれる人はいないのだから。
紙のめくれる小さな音がした。風もないのに誰がそんなことをしたのだろう。妻の日記が最後のページを開いて待っていた。
『記憶がなくなっても、私はあなたを愛しているよ』
──ああ、そうだ。俺は事故で記憶がなくなったんだっけ?
妻に他の男などいなかったのだ。
俺の記憶がないだけで、妻はずっと俺だけを愛していた。なんてことをしてしまったんだろう。
『結婚記念日には、毎年デートしようね』
──今日がその日だったんだ。
鳴らされるチャイム、叩かれるドアの音……
もうダメだ。
同じところへは行けないけれど、せめて俺も同じ痛みを味わわなければ。
転がっていた包丁で首を切った。
ごめん、愛してなくてごめんな。
【閉ざされた日記】
女は美しかった。
その潤んだ蒼色の瞳は男の心を囚えて虜にした。
「──じゃあ、一緒に死んじゃう?」
長い黒髪を指ですいて女は儚く笑う。
男は心中に誘われているというのに……風に揺れる髪に、切なげな瞳に、胸が高鳴った。
お互い現世に未練はない。ならば共に手を取って、というのも悪くはないだろう。
だが、もう少しだけ、この美しい女に触れていたい。その男の思いが淡い絆を斬り殺した。
自分だけのモノにしたい。そんなことを願わなければ、女が病に冒され死にゆくまで共に在れたというのに。
「うそつき」
そばにいると約束したのに。
女は胸に短刀を突き立てられながら、恨みの言葉を吐いた。
その姿すら美しい……男は女を掻き抱く。
放たれた火はすぐそこまで迫っていた。
何故殺してしまったのか?何度自問しても変わらない。他の男に取られるくらいなら、ここで殺して永遠に自分のモノにしたかった。
だが、美しい女はもう二度と戻らない──男のモノには決してならなかったのだ。
【美しい】