彼女にとって大切なものとは──。
「あら、帰ってきてたの?」
仕事が終わったから診療所へ顔を出してみれば、案の定彼女はまだ仕事中。嬉しそうに、しかし患者の世話で忙しいのか顔をこちらに向けてくるだけ。数日ぶりの再会なのだ、もう少し喜んでくれてもいいものを。
暇を持て余した結果、柱に背を預け彼女の仕事ぶりを眺める。
患者の男の手を握り、「早く良くなりますように」と祈る彼女を見た瞬間、胸がちりちりと焦げついた。
男は嬉しそうに鼻の下を伸ばしているではないか……彼女は私の女だというのに!
殺気が漏れ出ていたのか、彼女は私の方を見て驚いた顔をした。嫉妬の炎はおさまらず、私は彼女の手を引き、薬を調合する部屋へと半ば強引に連れ込む。
「ちょ、ちょっと!一体どうしたっていうのよ?あなた、凄く怖い顔──」
言葉を遮り唇を重ねた。とても乱暴に、舌を絡め息継ぎの間すら与えないように。彼女が私に溺れるように。
気づくと、私は彼女の膝枕で頭を撫でられていた。
「ん……私は一体……」
「お疲れなんじゃないかしら?途中で倒れてしまったわよ」
息継ぎをするのを忘れて自分が倒れてしまったことに気づく。なんたる不覚。
「ねぇ、あなた……あんなに激しく求めてくるなんて、何かあったの?」
言葉に詰まる。
彼女は医師だ。患者の面倒をみるのは当然の務めであって、手を握ったのは単純に労りと優しさだというのに……いい歳した大人の男がガキっぽく妬いてしまっただなんて。気恥ずかしくてとても言えない。
「まぁ、言いたくないのならそれでいいわ。医師の私は仕事に誇りを持っているから、一番なんて決められないけど……」
ちらり、上からの視線に気づき見上げると彼女は頬を染めていた。
「女としての私は……あなた以外を選ぶなんてありえないわ。絶対離さないから、覚悟してね?」
嫉妬も恥ずかしさも何もかも、吹っ飛ばす彼女の決意……ああ、今夜は眠れそうにないな?
【大切なもの】
小高い丘にて、一人酒を飲んでいた──
端から見たら一人かもしれないが、傍にはミタマ[御霊]。姿は見えないが、美しい歌人である女を従えて月見をしている。人気のないところで密に逢瀬をしているような気分だった。
「今宵も良い月だ」
「まぁ、坊や。また口説いているのかしら?」
「坊や呼びはやめろ」
「あらあら、ごめんなさいね」
朧月のように淡く灯った光──彼女は笑った。
不思議なことに、月とこれだけで酒が美味い。
「今夜は星も輝いてとても綺麗ね。溢れて転がってきやしないかしら?」
「何を馬鹿なことを」
星を金平糖か何かと思っているのか。若干幼い子供のような彼女を鼻で笑った。
「ふふ、あなたには遊び心が足りないようね」
「どうとでも」
盃傾けると、一滴残さず飲み干した。
星は嫌いだ……群れて、煌めいていて、忙しない。
「この先、星の数程出会いはあるわ。坊やにとって、それが大切なものになりますように……」
──彼女の言葉が遠くで聞こえる。
愛おしむように、撫でるように、ひどく優しく。
遠い昔に失くした母がいたら、このような心地だっただろうか?
ああ、今宵は何やら忙しない。
心地良いのに、体が熱い。
【星が溢れる】
「さっさと帰れ」
師匠の見舞いに行くと、そんな言葉が飛んできた。
いつものように、眉間に皺を寄せて険しい顔しているのかと思えば、そうでもない。
咳き込んで辛そうだけど、どこか安らかな顔をしていた。
「なんだよ、せっかく見舞いに来たってのに」
「そんなもの頼んでない」
私は大人になった。結婚して子供も産まれた。なのに師匠とのこういうやりとりは相変わらずだ。
風邪をこじらせたと聞いた。でもそれだけじゃないのを私は知っている。
師匠は、昔から毒を呷っていた。直接問いただしたことはないけれど、ひょっとしたら私を拾う前からかもしれない。
毒の何が良いのかわからない。毒は体に毒だろうに。きっと師匠のことだから、罪悪感とかあるのだろうなとは推測できる。
それか、毒でも飲まないとやってられない……とか?
「また……呷ってたのか」
植物片を見つけた。師匠は黙っている。
もう既に体はぼろぼろだ。もしかしたら、心もずっと前から駄目なのかもしれない。
「馬鹿師匠……やっと死ねるって顔、するなってんだ」
私の好きな赤い瞳は、言葉とは裏腹に優しく、安らかに細められていた。
いやだよ、もっと一緒にいたいのに。
【安らかな瞳】
遠く遠く、誰も俺を知ってる人がいない街へ行きたくて。がむしゃらに自転車のペダルを漕いだ。
夕方。これから塾の時間だから、きっと先生と親には怒られるとわかっていた。それでもあらゆるモノから逃れたくて、衝動を止められなかった。そういう感情、思春期の……なぁ、あるだろう?
日が落ちて、辺りはすっかり暗くなった。
足は疲れたし、腹はへるし。スマホを見ると不在着信の嵐だった。LINEでメッセージも来ていた。
『何処いるんだ』?
『帰って来い』?
知らねーよ。
俺だって何でこんなことしてるのかわからない。
野球でもできそうな公園の広場に自転車を止めて、芝生に寝転がった。夜桜が散ってなかなか風情があるなとにやにやしていると、「何してんだ?」と声を掛けられ跳ね起きる。
まさかこんな時間に自分以外に公園をぶらぶらしてる奴がいるなんて。見ると、自分と同じくらいの歳の男子だった。
そいつも塾をサボったらしく、意気投合。夜桜を見ながら話をした。
学校がめんどいとか親がウザいとか、だいたい愚痴だ。そいつも、今度転校することになって面倒だの何だの言っていた。
見ず知らずの他人だから言えたのかもしれない。
その後はどちらからともなく帰るわ、と言って別れた。
桜が散り終わって、新年度が始まった。
相変わらず塾をサボったりして怒られていた俺は、ホームルームの時間まで暇だったから、机に肘をついてあくびをしていた。
「おぅ、サボり野郎じゃん」
上から声を掛けられ視線を上げると、公園で出会ったもう一人のサボり野郎がにやりと笑っていた。
「あー!お前!うちの学校に転校してきたのかよ?!」
「な!偶然だよなぁ」
まさかのサボり同士の再会だった。
俺と奴はお互いに顔を見合わせてへへっと笑った。
この春からは退屈しないですむかもな?
【遠くの街へ】
一番最初に毒を呷ったのはいつだったろうか?
おそらく十歳かそこらだった。
師を殺した同業者に毒で始末されかけたところ、俺の体は毒を受け入れた。
だが、全く効かないわけではなかった。手は震え、幻覚を見た。師が呼んでいる声が聞こえ宛もなく徘徊することも。
毒に溺れれば多幸感を容易く得られることもあり、次第にのめり込み手放せなくなっていた。
「──師匠、師匠」
弟子の声で眠りから覚める。
上体を起こすが視界はぼやけていて、弟子の顔が昔焦がれた女に見えた。
「また酒飲んでただろ……夜更かしなんかしてるから起きられないんだぞ!」
ああ、確かに昨夜は酒と共に毒を呷っていたな。
「顔色が悪いな師匠?って、いつものことか」
「ああ」
まだ寝ぼけた振りをして弟子の手を引くと、腕の中にすっぽりと収まる。触れたところから伝わる体温、どくんと脈打つ心の臓。
これが、生きている証。愚かしくも毒から抜け出せない俺の拠り所だ。
現実から逃れた先……夢から覚めた処で待っている者が今、この腕に。
ゆえに離さない、絶対に。
【現実逃避】