女児を抱えて走る。
早く、一刻も早く、医者に診せねばならない。殺しに使う毒の知識ばかり学んで、薬のことはからきしだったことを後悔する。
雪深い森の中を、簑を着て駆けた。
途中で女児の様子を確認するが、息は荒く、体が熱い。この寒さでやられたのだろう……小さな体でよく耐えたものだ。放っておけば弱って死ぬ……焦燥感に駆られた。
子供一人死んだところで、どうということはない。だが、この女児が息絶えるのだけは避けたかった。彼女の面影のある瞳を、失くしたくなかった。
幸い、夜までに医者のところに滑り込むことができた。薬を与え、布団に寝かそうと抱き上げると、しがみつく小さな手。
「いかないで……」
なんと弱々しい声。
守れるだろうか……この小さな命を。奪うばかりで与えることを知らない自分に。
そっと抱き締めたまま座り、壁にもたれかかる。外を駆けていた時よりも熱は幾分落ち着いている……今は微熱といったところか。
じんわりと伝わる体温が、今は女児の生きている証。
「何処へも行かない……お前を置いては、何処へも」
声が届いたのか、女児は目を閉じ眠りについた。寝息を確認すると、一気に疲れが押し寄せる。
明朝には下がっているだろう。だから今夜は、もう少しだけ……この微熱という安堵を抱き締めさせてくれないか。
【微熱】
夏。
青い海、白い砂浜、かわいい彼女。
控えめに言って最高なんだが、めちゃくちゃ腹が立つ……だって、知らない男が水着姿の彼女を見てる。おい、じろじろ見るな。俺の彼女だぞ??
「一緒に泳ごうよ!」
男共の視線に気づかないのか、彼女は無邪気に俺に手を振る。ダメだ、もうダメだ。我慢の限界。
ずかずかと彼女に近寄ると、自分のパーカーを強引に羽織らせた。
「わっ、な、何?!これから泳ぐのに」
「ダメに決まってんだろ!俺以外に肌を晒してんじゃねーよ!」
手を引いてパラソルの方へと戻る。せっかくの海なのに、と膨れる彼女。ご機嫌取りはあとで考える。なんなら殴られてもいい。
俺は今、太陽の下……開放的になった輩から彼女を守る戦いの最中なんだから。
【太陽の下】
くい、とセーターの袖を引っ張る……それが私と奴の秘密の合図。
奴は軽く屈んで顔を近づけてくる。あとは私が背伸びをして頑張るだけだ。身長差がありすぎるのも問題だな。
音を立てずに触れるだけのキスをすると、奴はにやにやと笑った。
「今日は積極的だね?」
「うるさい、ボケ。何でいつも私からするみたいになってんのさ」
離れてポケットから煙草とライターを出す。
「煙草、好きだね君は。まだ未成年だと思うんだが」
「アンタそういうとこだぞ」
「人が嫌いなのを知ってて吸うのは性格がよろしくない」
「人のこと言えないでしょうが」
静かな言い合いの後、煙草を燻らし緩く息を吐く。学校だけど屋上だからバレやしないだろう、そう思っている。
そもそも、何がどうしてこうなった──?
私は元々こんな男は好きじゃない。好きじゃないのに付き合ってる。
自信満々な態度も、この国では眩しすぎるフラクスンブロンドの髪も、太陽でキラキラ光る宝石のような金眼も、艶やかな唇も。
一目見ると惹き寄せられてしまうのは何故?
「君が少しでも好いてくれていて嬉しいよ」
意地悪そうに微笑む奴が嫌いだ。なのに……
「ねぇ、こっちを向いて」
セーターの袖を引っ張られる。最初にそうしたのはどちらからだっただろうか?
「やだよ、ばーか」
秘密の合図はされる方もちょっと恥ずかしい。
【セーター】
落ちていく。
手を離したから、落ちていく。
深い闇へ落ちていく──
あのまま駆け落ちでも何でもして、二人で逃げればよかったのに。逃げたのは俺一人だけだった。
彼女の胸に突き立てた短刀からじわじわと闇が広がって、体が蝕まれるようだ……
「許さない」
そう、責め立てる声が聞こえた。
「嘘つき」
彼女の泣き顔が脳に焼きついて消えない。
その綺麗な瞳に魅入られて、初めて欲しいと思った人を。まさか己の手で命を散らしてしまう日が来るなんて。
俺の行き先は地獄だろう。もう二度とあの柔らかい日々へ戻れはしない。
春を失って季節は終わりを告げた。吹き荒ぶ風は彼女の泣き声すら消して。
桜の花びらが舞う中、搔き抱いた冷たい春を美しいと思った……あの感情を何と呼ぶのか、俺は今もわからずに落ちていく──
【落ちていく】
『夫婦』
「今日はいい夫婦の日らしいわね」
「あ?」
妻がにこにこ微笑みながら話しかけてきたっていうのに、柄の悪い返事をしてしまった。今は武具の手入れで忙しかった、そうだ、仕方ない。
「あ、興味ないって顔してる」
つまらなさそうに言われた。だろうな。
十一月二十二日、語呂合わせで『いい夫婦の日』
……だからどうした。そんなことより俺は手入れが終わったら明日の朝餉の仕込みをしたい。ちらりと横目で妻を見ると、こちらを睨みつけているような……
「な、なんだよ」
「別にぃー?」
「何拗ねてんだよ。話なら聞いてただろ」
「そうじゃなくって!」
隣に座る妻。髪につけた花の香りにドキッとする。
「夫婦らしいこと……したいなぁ、って」
まさか妻の口からそんな誘いの台詞が出るとは思わなかった。仰け反ってしまいそうなのを耐える。
「んだよ、それ……かわいすぎるだろ」
武具なんか放り投げ……はしないが、今日はもうやめた。妻しか見えない。肩を掴んで抱き寄せると頬を染めるのがかわいい。たまらない。
「何笑ってるの?」
「別に?いい夫婦の日も悪くないな……って思っただけだ」
ゆっくりと唇を重ねて、さあ、どうしようか?