今朝同僚が、「〇〇町でキノコ狩りに来てたグループがクマに襲われて、ひとりズタズタで亡くなって、ひとり引きずられて行方不明だって………」
えっ………
『怖い』とも言葉が出なかった。うちの近所でもクマは居る。もうそこら辺まで来ている。キノコ狩りに来ていた人たちには悪いけど、こんなクマクマ騒がれている時に山に入るなんてどうかしてる。熊鈴なんか、今の時代ではもう無意味。美味しいもの持ってる人間が来ましたよーチリンチリン♪ 逆に熊を引き寄せる事になるから持たない方がいいです。特に人の近くまで下りてくるような熊は、人間を怖がるより、狩りする気でいる。
寝ている熊に近寄って写真撮ったり、スナック菓子を投げたりする観光客が居るというニュースを見て、心底腹立たしい。キャンプもやめてほしい。
インタビューを受けた女性が、『熊が出る事は知ってるので、お邪魔してますという気持ちでキャンプしてます、オホホホホ♪』
こういう呑気な観光客が多くて、大変迷惑です。
目を覚ませ!往復ビンタしてやりたい………
………
野生動物は寛容じゃないし、人間の尊厳など無い。そのうち、誰かがクマに引きずられちゃうんだからね………
うちの近所では夕方近くになると、川原で草を燃やす。熊よけのためなんだけど、人里の栗や柿、胡桃に枇杷なんかを食べた熊は、山のドングリなんかもう食べに戻らないんじゃないかと思う。
さっき、仕事から帰って来た時、リスが出てきた。雑木林に住んでるんだと思う。
家からゴミ置き場までの途中の雑木林からは、獣の臭いがする。人間が近寄ったらいけない臭いだ。
その時は、何も通用しない。
結婚した当時、二世帯住宅の2階部分を借りて新婚生活を始めた。南向きの広い窓からは富士山が見える、6畳二間の部屋だった。2階への玄関は1階の玄関の隣にあって、玄関を開けると土間になっていて右手に下駄箱があり、階段を上がると、部屋になっていた。
台所は3畳くらいで洗濯機が置けて、その奥にトイレがあり、洗面所があり、お風呂場になっていた。
子供が生まれて、ハイハイをするようになった頃、階段が危ないから、というのでカギのかかる引き戸とカーテンを付けた。
ある時、うっかり引き戸を閉めるのを忘れて、階段を下りて、玄関へ何かを取りに行き、階段の上を見ると、息子がニッコリ笑ってるのが見えた。『危ない!』と思う間もなく、コロンコロンと息子が転がってきて、どう受け止めたか覚えてないけれど、息子はわたしの胸で大泣き。
その後も3歳くらいの時、『かぁちゃーん!』と、階段を下りるわたしを勢い良く追いかけて来て、ゴロンと転がってくる息子を左足で止めた。
そう言えば、息子がやや喋り始めた頃に、
夕方、突然息子が震えだして泣きだして、わたしにかじりつきながら、「なんか来る!なんか来る!」と、言ってパニックになった。階段から誰かが来るって事らしかった。
わたしは、あれが金縛りというものなか、起き上がる事ができなくて、外はどんどん暗くなって灯りも点けられず、どうにもならず……その後、どうなったのか思いだけない。
たぶん、息子に子機を持って来させて、母に電話したんだと思う。それだけは記憶にある。
あの階段は13段だった。なんだか気持ち悪いと思いながら、数えないようにしようと思いつつ上がり下りしてた。
息子が小学生になった頃、ふと言ったのは、あの家の大きな窓の角の壁のところがいつも暗くて怖くて積み木を投げていた、と。
やっぱり、誰か居たのかな。
そんなことぜったい言うはずもないキャラの夫が、「夜中になると台所を誰か歩いているような気配がする」とも言ってた事があった。
誰か居たな。
でも、家族の誰も怪我すること無く過ごせたんだから、悪い人じゃなかったと思う。
初詣に行く神社へ何でもない日に夫と参拝に行った時のこと、初詣の時には立ち寄らない池に立ち寄ってみた。
池の脇にボックスがあり、『こいのえさ100えん』とあったので100円を入れて鯉の餌を買った。小袋に餌らしきものが入っていて、ひとつまみ池に投げてみた。
餌が池の面に広がって、鯉がワチャワチャ出てくるのを待ったけど、しーん。
はて?
夫と、「かなり深い池なんだよ」と笑って、今度は多めに餌を投げ入れてみた。
しーん。
亀すら居ない。
何も居ないのに、餌が売ってるとはどういう訳か…?
それとも他に生け簀があって、ここで餌を撒くのではなく、他の場所へ行かなければならないのか…?
それとも鯉の巣みたいのがあって、門みたいのが開いてなくて、出てきたくても出てこれないのか…?
それとも、………?
なんだろう。
袋の中の餌全部を池にばらまいてみた。
しーん。
辛抱強く待たなければならないのか?
しーん。
住んでるのは鯉じゃないのか?
子供が餌をやらないと、だめなんじゃないのか?
そもそも鯉1匹も居ないのに餌のみ売ってるって、どういうことか。
家の鯉のための、お持ち帰りのための餌なのか。
そもそも、そもそも、餌が売ってるからと言って鯉が出てくるとは限らない。【池に鯉が住んでます】とも、どこにも書いてない。
これは何かの教訓めいたものなのかもしれない。。そう思った。
これで怒るか、笑うか、どこかにカメラでもあって監視されてるのかも。。
とにかく謎。
若いカップルなら「鯉なんていないじゃ〜ん」と、手を繋いで笑って帰るところなんたろうけど、
中年夫婦、無言で餌を池に投げてるうちに、なんだかうっすら怖くなった。
それにしても、鯉いないのに餌袋はかなり置いてあった。餌だけ投げ入れられてるからなのか池は濁ってたし、きっと文句言う人が居ないんだと思う。
なんだか腑に落ちないまま池を後にした。
無言だった夫が、「あの箱の餌全部買わないと……、だったのかもよ」と。
「そんな訳あるかい?」
あの袋の餌、全部買って池に投げ入れたら何か出てくるのか。そりゃすごい。
ずっと無言だった夫もすごい。お互い喋ると、ずっと池の話しになりそうだから、その後はわたしも黙ってた。
池って、怖いし。
秋の訪れをしんみり楽しめるような気分のまま、人生を終わらせられるなら、それに越した事はないと思う。
わたしがある先生のカウンセリングに同席していた頃、相談者は女子高生の両親だった。その女子高生は被害者だった。言葉には出来ないほどの集団暴力を受け、人生を終わらせるか他に方法はないのか、これからの人生をどうすればいいのか…、それくらいの相談内容だった。
被害者だと思っていたその女子高生は、実は、自分がされたと同じ事を女友達にしていて加害者でもあった。恋愛関係のもつれからの仕返しの、仕返しだったと言う。
事実が分かるにつれて、結局裁判する事となり、先生からは、「これ以上は貴女の精神が持たないと思うから、席を外してください」と、言われ、その後その案件がどうなったかは分からない。
カウセリングルームは、いつも清潔で窓には淡い色のカーテンがかかっていて、外からの風と臭いやら香りやらが入ってきて、短い毛足の絨毯は柔らかい桃色で、そこに固めの座布団を敷いて正座して話しを聴いた。
秋には金木犀の香りも入って来た。
わたしは、自分が感じた事は、その場では言えない。と、いうか決して言葉にしても、表情に出してもならず。顔色を買えてもいけない。心に残してもいけない。
カウンセリングが終わったあと、先生だけに感じたまま思うままを話す事が許された。どう思うかなんて、なかなか言葉にする事が出来なかった。
ただただ、【世の中は広い】。そう思った。悲惨で凄惨で悲しい辛い事は、今この瞬間も裏の裏で密かに処理されている。
わたしが、見て聴いた事などほんのわずかな隙間から覗いた事に過ぎない。
こんな長閑な場所に住む事になって、
たまに、あの日々が、ふつと蘇ってくる。
【あの内容について、今後、何かを思ってもいけない】、と言われたのに。
汚れ仕事なのだ。信仰を持つということは。神様を信じると言うことは。
汚い場所を指し示されて、『お前が見るのだ、お前が聴くのだ』と。
だから、、、なのだ。
世の中を、嘆いているだけでは、とうていその意味など見つかるはずがない。
来年の手帳に、自分の名前と、家族の誕生日と友達の誕生日と、夫との記念日と、大切にしている日と、印を付けた。
昨夜はお腹が激痛で、腸が破けるかと思った。貧血なのか気を失いかけたのか、トイレでしゃがみ込んで、『ありがたいな』と思った。何の痛みも苦しみも知らずにいたら、わたしはただただ、【幸せだ】と思うだけか、幸せだと思う事さえしなかっただろう。『ありがたい』などとは思わなかっただろう。
精神的に苦しんだ日々がもったいなくて、『もっと、こんなふうに考えていたら』、とか思った事もあるけれど、
あの日々がなかったら、到底、苦しむご家族の話しを聴きに行ったりする事など出来なかっただろうと思う。人間は、いろんな事で訳が分からなくなってしまう。
この旅の、理由も分からないままなのか、理由が分かっているのか、ではずいぶん違う。
どのように死んだとて、【生きている】の延長線上なんだから何も変わらない。
還る場所はあるけれど、そこが目的地じゃない。
旅は終わらない、ずっと続く。
生きている時と同じように、ずっと。
しかも、それを選んだのは、自分自身である、という大変厳しいものだ。