夜の十時を過ぎたころ、玄関を激しく叩く音で目が覚めた。
こんな時間に誰だ、と訝しみながらドアを開けると、そこに立っていたのは幼なじみのAだった。
血の気の引いた顔、シャツの袖にべっとりと赤黒い染み。
思わず小さく悲鳴を上げて、一本後ずさってしまう。
いくら幼なじみと言えどーー
「お願い……今日だけ許して。明日になったら、全部話すから」
その声の弱さに、決心がついた。
突き放すことなんてできなかった。
Aを部屋に招き入れ、シャワーを貸す。
不気味だった。何があったんだろう。
明日になったら話すーー
明日まで、待てるだろうか。
静かな夜。窓の外の街灯の明かりが、不気味に揺れて見えた。
⸻
しばらくして、スマホが震えた。
画面に表示された名前を見て、息が止まる。――A。
受話器から聞こえてきたのは、確かにAの声だった。
「お願い。絶対に入れちゃだめ。外にいるのは私じゃない」
思わずソファを振り返る。そこにいたのはシャワーから出た、Aの姿があった。
「どうしたの?」
素直に言えるはずがない。
「ううん、ちょっと仕事の話」
そのとき、窓が叩かれた。
カン、カン、と乾いた音。
外にも、もう一人のAが立っていた。血に濡れ、必死に何かを訴えている。
中のAか、外のAか。
どちらが本物なのか。
どちらを許すべきなのか。
朝になったとき、部屋には誰もいなかった。
ソファは乱れ、床には濡れた靴跡が続いていた。
玄関の外へ伸びるそれは、途中で途切れて消えている。
自分がどちらを選んでいたのか……
こんなことが起きたら、注意して下さい。
霧が街を覆い、路面電車の光だけがぼんやりと通りを照らしていた。
彼は一人、石畳を踏みしめながら言った。
何かイヤな気配がしたのだ。
「誰かいる…?」
答えは返ってこない。
だが、背後の霧の中で微かな足音が重なる。
振り返ると、そこには誰もいない。ただ、壁に映る自分の影がひとつ増えていた。
思わずその場から、逃げ出していた。
あの足音は何?影は何?
考えると、鳥肌が止まらない。
確実に何かがいた。
スマートフォンで街の防犯カメラを確認すると、数秒前まで映っていた人影が、今は画面の中でじっとこちらを見返している。
胸が早鐘を打っている。背筋に冷たいものが流れた。
「誰か…じゃない、あれは自分…でも、違う。」
足音は徐々に近づき、霧の向こうで低い声が囁いた。
「ずっと見ていたよ、君が来るのを」
その瞬間、街の光が全て消え、ただ一人、霧の中に溶けた影と向き合った。
どっちが自分だったのだろうか…
誰か、教えて下さい
灰色の空が落ちてきそうな、廃墟の都市をひとりで歩いていた。
崩れたビルの谷間は無音で、風すら息をひそめていた。
不気味さだけが、静かに漂う。
だがそのとき、微かに届いたのは、乾いた「足音」。
その場にいるのは、自分しかいないはずだった。
思わず振り返る。
だが、誰もいない。
残業調査員である俺は、探査機を取り出した。
過去の残響を拾うはずのセンサーが、未来からの振動を検知していた。
「……まだ歩いていない誰かの足跡」
次の瞬間、遠くの通りで、コツ…コツ…と響いた。
それは近づき、ビルの影を越え、瓦礫を踏みしめ、こちらへやって来る。
姿はない。
けれど足音だけが、確実に世界を震わせていた。
やがて足音は目の前で止まり、沈黙が訪れる。
誰だ?誰かが、確実にここにいる。
探査機の表示は、赤く点滅しているのがその証拠だった。
存在確認:背後。
背後?
さっき振り返った時には誰もーー
振り返る勇気は、もうなかった。
ただ後ろから、遠い足音が遠くで響いていた
人工気候制御衛星〈アウロラ〉が、初めて「秋」を降らせた。
赤銅色の葉が、重力に従うように大気中で舞い落ちていく。
だが、それらは本物の葉ではなく、微細なプログラムの断片だった。
人々は空を見上げ、季節を疑似体験する。
それは四季がなくなった世界の話。
「秋の訪れ」とは、すでに自然現象ではなく、都市が選んだ演出にすぎなかった。
ただ一人の観測者だけが、それに気づいていた。
葉のひとひらに、誰も書き込んだはずのないコードが混じっていることを。
〈帰還まで、あと一年〉
それは、地球外で漂う何者かのメッセージだった。
白と黒だけの森。
そこは木々も草も動物も人も、すべて影の輪郭だけで存在していた。
歩くたびに、自分の影は森の影に溶け込み、まるで未来の予兆を映すかのように揺れる。
ある日、森を歩いていると、ふと濃い黒の塊が揺らめきながらこちらに近づいてきた。
人の影のようでもあり、動物の影のようでもあるが、どちらでもない、未知の存在だ。
白い光が差し込むと、その影は一瞬だけ立体になり、細い手のような形でこちらに触れようと伸びた。
恐怖よりも不思議な好奇心が勝り、彼は影に手を伸ばした。何かが生きているような、温かい感触。
触れた瞬間、森の影が波のように広がり、周囲の木々や動物の影が揺れ出した。
まるで森全体が目覚めたかのように。
影の塊は微かに形を変え、こちらを見つめているように感じられた。
目があるわけではないのに、確かに視線を感じた。
彼は一瞬たじろいだ。
その時、影の塊は静かに動き、森の奥へと導くように進み始めたのだ。
好奇心に抗えず、こちらも足を進めると、やがて森の中心に小さな白い光の泉があらわれた。
彼は思わず息を飲んだ。
影の塊は泉の上で揺れ、光に吸い込まれる。
その瞬間、微かな声のようなものが耳に届いた。
言葉ではない、感情だけの声。
恐れ、期待、孤独、喜びが溢れる。
森のすべての影が一斉にささやくような、不思議な合唱だった。
光が消えると、影の塊も泉も跡形もなくなった。
しかし、森を抜ける途中で自分の影を見ると、微かにその塊の形が残っていた。
その塊には触れられなかった。
だが、確かに何かが交わった証だ。
森は再び静かになり、影たちは揺れながらも元の輪郭に戻った。
白黒の森は変わらない。しかし、ほんの一瞬、ありえない出会いが現実と幻想の境界を揺らしたのだった。
この森を訪れる際には、気をつけて。
謎の塊が、次に何をするかはその時次第のようだ。