僕は作家だ。自分で言うのもあれだけど、それなりに売れっ子の。色々あってこの職業についたのだが、その辺は今日のところは割愛させてもらう。
「先生って、あの時代遅れな作家のこと、めっちゃ嫌いですよね」
「…何でそう思うの?」
「え〜?だっていつもネットでも雑誌対談でもガチ喧嘩してるじゃないですか」
「へぇ、君にはそう見えるんだ。なら、僕は君に転職をお勧めするよ」
「え、どうしてですか?」
「自分の頭で考えてごらん」
ああ、嘆かわしい。先生を時代遅れな作家だなんて、僕に喧嘩を売っているとしか思えない。しかも、僕が先生のことを嫌っているだって?どうやら君の目は節穴どころじゃない。腐り落ちているようだ。僕のこの、愛情たっぷりの批評を理解出来ないなんて!好きじゃないのに、こんなでかい本棚をひとりの作家の作品で埋め尽くすわけがないだろう!たくさん付箋が貼られて擦り切れた本たちを見ても何も思わないような輩に、編集者が務まるとは到底思えないな!なんて感情を笑顔の裏に丁寧に貼り付けていると、まったく察さない編集が言った。
「近頃、強盗が増えてるみたいですから、先生も気を付けてくださいね。ほら、先生もやしだから」
そう言って無造作に僕の腕を掴んだ。
「馬鹿にするなよ、これくらい振り払える…!」
しかし何度編集の腕を振りほどこうとしても、それは腹立たしいことに叶わなかった。
「心配だなぁ?俺が一緒に住みましょうか?」
「いらない」
「冗談です」
編集との打ち合わせが済んだ水曜の午後は、僕の至福の時間だ。憧れの、僕にとって神様みたいな存在の先生とネットで討論するのだ。しかし僕は、好きだからと言って媚びたり手加減はしない。先生もきっとそれを望んでいると思う。まぁ、傍から見れば喧嘩にしか見えないやりとりではある。でも、僕にとってはこの上なく有意義なものなのだ。
それにしても、今日の最後の一言は痺れた。「雷に撃たれて死にますよ」なんて。先生は、僕を喜ばせる天才じゃあないか?これは先生のデビュー作の主人公の死に様だ。僕はあれが1番気に入っている。
恍惚の時間はあっという間に過ぎ、僕は明日のために就寝する。戸締まりをして電気を消して、さぁ、寝るぞ!となった時、パリン!と何かが割れる音がした。僕の身体が強ばる。近所の野良猫が庭の鉢植えを落として割ってくれたというなら、僕は喜んで許そう。しかし、現実はそうではない。
恐る恐る寝室を出てリビングに向かうと、そこには誰もいなかった。どうやらその隣の倉庫に何者かがいるらしい。控えめな物音がする。ああ、どうしよう。こわい。とりあえず、警察とついでに編集にも電話をしたら、じっとしていろと言われたのだが、あそこには僕の家宝があるんだ。他の何を失っても、それだけは守らなければならない。
物陰に隠れていると、倉庫から黒ずくめの男がひとり出てきた。手には金品がはみ出たバッグを持っている。強盗だ。その中には命より大切な万年筆が含まれていた。
「やめろ!それだけは!!」
自分でも驚くほど大きな声が、反射的に出ていた。強盗はひどく驚き、慌てて玄関を飛び出していく。僕はそれを追いかけた。強盗への恐怖が消えたわけじゃない。あの万年筆を失うことの方が、僕にとっては怖いだけだ。
外は今にも雨が降り出しそうな曇天で、雷も鳴っていた。僕は裸足なのも忘れてコンクリートを駆ける。火事場の馬鹿力のようなものだろうか。普段の鈍足が嘘のような俊足で、僕は強盗に追いつき、そのまま服を掴み転倒させた。弾みで地面へ転げ落ちた万年筆を慌てて拾う。強盗はすぐに立ち上がって逃げ出した。諦めたらしい。
僕は勝ったんだ。勝ちましたよ、先生!この万年筆は、テレビ番組の私物交換企画で先生からいただいた大切なものなのだ。アドレナリンが出まくっているためか、軋む身体も気にせずに、思わず万年筆を空に掲げたその瞬間、目の前が真っ白になった。
雷に撃たれたのだと理解したのは少し遅れてだった。身体の感覚がない。目も開けられない。周りがどうなっているのかも分からない。ただひとつだけはっきりと分かるのは、僕という生命が今終焉を迎えようとしていること。途切れそうになる意識の中で、後悔の洪水が押し寄せる。先生の万年筆を焦がしてしまった。先生の作品をもっと読みたかった。先生ともっとお話したかった。ちょうど100通目になる先生へのファンレターがまだ書きかけだとか、いくらでも溢れてくる。
しかし、そんな不幸の中でも一つの幸福はあった。先生の作品の登場人物のように死ねることだ。まるで自分が先生の作品の一部になれたような錯覚が、本能的な死への恐怖を和らげ、僕を銀幕の特等席へと誘った。先生と僕のダブル主演の走馬灯が上映される中で、僕はゆったりと椅子に身を沈め、重たくなった精神の瞼を穏やかに閉じた。
もしも、天国という場所が本当にあって、そこでもペンが握れるのなら、僕は作家を続けます。いつかまた、こちらで先生とお会いできたその日には、また討論いたしましょうね。
私は小説家である。自分で言うのもなんだが、それなりに有名だ。ここまで登りつめるのに幾多の紆余曲折があり、年月もずいぶんと要した。だというのに、近頃現れた新人が、容易く私の隣に並び、その地位を危うくしたのだ。私には思いつきもしない奇抜な物語を書いてみせる。加えて彼は、己の作風を体現したかのような派手な装いを好んでいた。ああ、これが時代の流れか。私の書く物語は些か古臭い。私は若者についていけない。現代の風潮が肌に合わない。そろそろ筆の折り時かと思った。
そんな時、私の作品に文句をつけているブログ記事がふと目に止まった。しかしながら、こんなことは日常茶飯事である。私はいつも通りスルーを決め込もうとしたのだが、書いた人物の名を見て思わずコメントをしていた。あの新人だった。私は彼よりずっと大人であるから、とても理性的に反論をしてやった。それに新人がまた反論し、私はそれに更に反論する。いつの間にか、文字で殴り合っていた。どうやら彼は、私の作品を細かに読み込んでいるらしい。そう思わせる指摘ばかりで、正直どの発言も反論に苦労した。
いつしか、私たちの喧嘩はファンの間では有名になり、セットとして扱われることが増えた。まったく不名誉だ。私はあんな品のない作品は書かない。よくもここまで下品な内容を書けたものだ。その日、私は喧嘩の最後を「君は神を冒涜しすぎです。いつか天罰が下って、雷に撃たれて死にますよ」なんて言葉で締めくくった。私は無神論者だ。もちろん冗談である。
その翌日のことだった。新人が落雷で落命したニュースがテレビから流れたのは。私を預言者だの神だのと騒ぎ立てる輩もいたが、馬鹿か。私がそんな大層なもののはずがなかろう。私はしがない作家なのだ。それしか取り柄のない、ただの老いぼれだ。
「先生、原稿の進捗はいかがですか?」
「ああ、もう少しで出来上がるよ」
私は万年筆を原稿用紙に走らせ、ラストスパートをかける。そんな私の集中を乱そうとしているのか、はたまたこの程度で私の集中は途切れまいと信じているのか、編集は無遠慮に話しかけてくる。
「新人作家さんのこと、残念でしたね。先生とずいぶん仲が良かったのに」
「は?君の目は節穴かね?どこをどう見たらそう見えるんだ」
「だって、いつも雑誌で対談してたじゃないですか「あれは仕事だからに決まっているだろう!私は大人なんだ、仕事に私情は挟まんよ」
「そうですか。しかし、事故とはいえ、20代は若すぎますよ」
「ああ、そうだな。まるで流星のようにひどいやつだった。願いを唱える間も与えちゃくれない」
「そういえば、先生。前から気になってたんですが、ずいぶん変わった万年筆を使ってますね」
編集が、私の握っているやたら華美な万年筆を見た。
「ああ、これは貰い物だよ。頗る使いにくい。これでなければ、もっと早く原稿をあげられるというのに」
「なら、どうして使ってるんですか」
「…さて、どうしてだろうね」
本棚に丁寧に並べられた本たちが、私をありもしない瞳で見つめている気がした。
私は編集に出来上がった原稿を渡した。
「あとは新作の打ち合わせだったね、さっそく始めようか」
「いえ、先生」
「どうした?」
「困ったことに、私今日は傘を忘れてしまいまして」
「傘?」
「予報によると本日は“ところにより雨”です。今にも降り出しそうなので、大事な原稿を濡らしてしまう前に社に戻りますね。打ち合わせはまた後日」
「…そうか。では、気をつけて」
編集がバタバタと階段を下りていく。まったく忙しない奴だ。私は全開になった窓から外を眺めた。雲ひとつない晴天が寂れた街を見下ろしている。抜けるような青を見上げた私の頬を、生ぬるい雨が伝った。
「あー、もしもし?次の作品のことなのだがね。死んだ作家が天国でも作家をしている話はどうだろう?」
特別な存在があるから、人生というキャンバスに色が付くのだと思います。希望と絶望に欺かれながら、濃淡がついていくのです。
いつか先生はおっしゃいました。「人間は誰でもくだらなくて卑しいものだ。だからこそ、美しい」と。ならば先生、わたくしの、この幾重にも色を塗り重ねた末に真闇に染まったキャンバスも、美しいと褒めて下さいますか。
ずっとずっと昔にさ、僕が書くことを「バカみたい」と君が嗤ったから、それから僕は、書くことをやめられなくなったんだ。君が笑ってくれるその日まで、死ぬまで、いや、死んでもきっと来世でも、君のための物語を書き続けるよ。だから、もしも生まれ変わってまた巡り会えたその時は、また友達として、傍にいてもいいですか。
今思えば、私は長い夢を見ていたのかも知れない。君は、死のうとした私が見た夢なのではないか。死にきれなかった私が恋をしたのは、自身が作り出した幻想だったのではないか、なんて。
私はすっかり忘れていた。現実というのが、息をしている限り終わらない悪夢であることを。この夢が醒める前に、さて人間は、どれだけの絶望を味わうことになるのだろう。
まっすぐ家に帰る気になれなかった私は、ただ行く宛もなく夜道を歩いていた。いつもは通らない川沿いの道には、人の気配がまるでない。これは都合が良い。曇天と涙比べをして、完勝してしまったところだ。大の大人が迷子の子どものようにメソメソ泣いている姿は、他人に見られて気持ちの良いものではない。
ふと、空を見上げると、屯していた雲はいつの間にかどこかへ姿を消し、まったく素晴らしい満月が私を見下ろしていた。すると私はいつも、かの文豪が超訳した言葉が脳裏に浮かぶ。
「月が綺麗ですね」
心臓が止まるかと思った。誰もいないと思っていたところで急に聞こえた声に、驚いて涙が引っ込んだ。振り向くと、今通り過ぎたばかりの橋の下に、ひとりの男がいた。月明かりが届きすぎて、私の酷い顔は丸見えだろうが、それでも私は軽く袖で目元を拭い、何事もないように返事をした。
「…立派な満月ですね」
「ええ、まったく」
橋の陰から現れた男は、まるでタイムスリップでもしてきた過去の人だった。書生のような装いに、大きな丸眼鏡。短くも長くもない黒髪が、寝癖なのか天パなのかところどころ跳ねて、年齢を不思議と隠していた。
「お兄さんはこんなところで何を?」
「お兄さんだなんて、嫌だな。そんな歳じゃあないですよ」
右手を後頭部に添えながら、男ははにかむように笑った。
「今日は月が綺麗だったので、お月見をしていたんです」
「風情がありますね」
時間に追われて空を見上げることすら忘れた現代人からは、とてもかけ離れていた。
「そういう、あなたは何を?」
「…出掛けた帰り道です」
初対面の人間に警戒しつつも、嘘を吐く理由もないので、私は正直に話した。
「女性の夜のひとり歩きは危ないですよ。近頃は物騒ですから」
「そうですね。気を付けます」
では、と私が会話を切りあげようとすると、男が続けた。
「もし、あなた、何か困りごとはありませんか?」
ずいぶん唐突だ。
「…いえ、特に」
「先程、泣いておられたでしょう?」
そこはスルーしてよと思った。
「何か心に抱えているものがあるなら、わたしに話してみませんか?初対面なのに?と思われるかもしれませんが、だからこそです。知らないからこそ、話せることもあるでしょう?」
私はジトッと男を見た。
「守秘義務はもちろん守りますよ。名前も何も明かさなくていいです。ただ、あなたが話したいことを話したいように話してくれれば」
「お兄さんは、どうしてそんな慈善活動をしてるんですか?」
怪しさ満点じゃないか。
「はは、慈善活動などではないですよ。わたしはね、作家なんです。人の苦労話を聞くと物語が閃く質の。だから、ね?人助けだと思って。締切がもう目の前なんです…!」
色々疑問はあったが、懇願する男の様子に私はいとも容易く押し負けた。この先、自分が生きていても誰の役にも立てないであろうという虚しい確信をいくらか薄めるために、私は目の前の男を利用することにしたのだ。