今思えば、私は長い夢を見ていたのかも知れない。君は、死のうとした私が見た夢なのではないか。死にきれなかった私が恋をしたのは、自身が作り出した幻想だったのではないか、なんて。
私はすっかり忘れていた。現実というのが、息をしている限り終わらない悪夢であることを。この夢が醒める前に、さて人間は、どれだけの絶望を味わうことになるのだろう。
まっすぐ家に帰る気になれなかった私は、ただ行く宛もなく夜道を歩いていた。いつもは通らない川沿いの道には、人の気配がまるでない。これは都合が良い。曇天と涙比べをして、完勝してしまったところだ。大の大人が迷子の子どものようにメソメソ泣いている姿は、他人に見られて気持ちの良いものではない。
ふと、空を見上げると、屯していた雲はいつの間にかどこかへ姿を消し、まったく素晴らしい満月が私を見下ろしていた。すると私はいつも、かの文豪が超訳した言葉が脳裏に浮かぶ。
「月が綺麗ですね」
心臓が止まるかと思った。誰もいないと思っていたところで急に聞こえた声に、驚いて涙が引っ込んだ。振り向くと、今通り過ぎたばかりの橋の下に、ひとりの男がいた。月明かりが届きすぎて、私の酷い顔は丸見えだろうが、それでも私は軽く袖で目元を拭い、何事もないように返事をした。
「…立派な満月ですね」
「ええ、まったく」
橋の陰から現れた男は、まるでタイムスリップでもしてきた過去の人だった。書生のような装いに、大きな丸眼鏡。短くも長くもない黒髪が、寝癖なのか天パなのかところどころ跳ねて、年齢を不思議と隠していた。
「お兄さんはこんなところで何を?」
「お兄さんだなんて、嫌だな。そんな歳じゃあないですよ」
右手を後頭部に添えながら、男ははにかむように笑った。
「今日は月が綺麗だったので、お月見をしていたんです」
「風情がありますね」
時間に追われて空を見上げることすら忘れた現代人からは、とてもかけ離れていた。
「そういう、あなたは何を?」
「…出掛けた帰り道です」
初対面の人間に警戒しつつも、嘘を吐く理由もないので、私は正直に話した。
「女性の夜のひとり歩きは危ないですよ。近頃は物騒ですから」
「そうですね。気を付けます」
では、と私が会話を切りあげようとすると、男が続けた。
「もし、あなた、何か困りごとはありませんか?」
ずいぶん唐突だ。
「…いえ、特に」
「先程、泣いておられたでしょう?」
そこはスルーしてよと思った。
「何か心に抱えているものがあるなら、わたしに話してみませんか?初対面なのに?と思われるかもしれませんが、だからこそです。知らないからこそ、話せることもあるでしょう?」
私はジトッと男を見た。
「守秘義務はもちろん守りますよ。名前も何も明かさなくていいです。ただ、あなたが話したいことを話したいように話してくれれば」
「お兄さんは、どうしてそんな慈善活動をしてるんですか?」
怪しさ満点じゃないか。
「はは、慈善活動などではないですよ。わたしはね、作家なんです。人の苦労話を聞くと物語が閃く質の。だから、ね?人助けだと思って。締切がもう目の前なんです…!」
色々疑問はあったが、懇願する男の様子に私はいとも容易く押し負けた。この先、自分が生きていても誰の役にも立てないであろうという虚しい確信をいくらか薄めるために、私は目の前の男を利用することにしたのだ。
3/21/2023, 3:56:42 AM