私は、世にも奇妙な人語を理解し話せる石ころだった。なんてことない川辺になんてことなく転がって、人間の生活をただ眺めていた。
そんなある日、私はひとりの少女に拾われた。少女は私を綺麗に磨き、何だか素晴らしい箱に私を収め、毎日私に話しかけた。どうやら少女は友だちがいないらしい。学校での失敗を私に多く語って聞かせた。
私はある時、意を決して口を開いた。いや、私は石だから口などはなく、何だかよく分からないテレパシーのようなもので少女に話しかけた。当然彼女はとても驚いた。けれど存外はやく、私の不思議を受け入れた。それは、純粋に優しい者の特徴であり、同時に孤独を抱える者のそれでもある。
私は少女に助言をした。なにせ、私はずいぶん長く意思のある石ころをしている。数多の人間を見てきた。人間観察の経験は豊富なのだ。彼女が上手くいかない原因を分析し、私は彼女に実行可能と思われる方法を伝えた。少女はそれに素直に従う。それからしばらくすると、彼女に徐々に友だちが出来始める。私は少女の親でもなんでもないが、まるでそれであるかのような心地で、それを喜んだ。それからも、少女と私の語らいは続いた。
ある時、少女が友だちを家へ招いた。彼女の友だちだからと安心していたが、どうにも素行の悪い者もいたようで、ある少年が私を無造作に掴み、「ただの石ころを大事にしてるなんて、変なやつ!」などと宣った。私から見れば赤子のような少年の言動だ、大目に見よう。ところが、私の意に反して、少女は激昂した。いつも穏やかで、静かに泣く少女の、悲鳴のような声を初めて聞いた。私も周りも驚いて固まる。
「わ、私は怒ってなどないよ、さぁ、みんなに声を荒らげたことを謝るんだ。でないとせっかく出来た友だちが…」と私がテレパシーで伝えれば、少女は「嫌!!」と声を張り上げる。場の空気がさらに怪しくなる。いけない、これはいけない。これでは円滑な関係を結べなくなる。しかし彼女は頑として譲らず、友だちらはそそくさと帰っていった。私はどうしたものかと、ない頭を抱えた。
価値観を傷付けられたから、彼女は激昂したのだと思う。とはいえ、あれはうまくない。
「普通の人間はね、石を大事にしないし、話しかけもしないんだ。彼らと暮らすには、本当の自分を少し隠さねばならない。それが出来ないと人間関係は続かな………いや、すまない」
それよりもまず、私は彼女にお礼を言うべきだった。そこまで自分のことを大事に思ってくれてありがとうと。そのうえで、私は彼女の幸せのために助言がしたい。そう伝えたが、しかし、彼女はそれを受け入れなかった。
少女は引きこもって私とばかり話すようになった。嗚呼、どうしたものか。私はとんでもない間違いをしてしまったのではないか。私は毎日彼女と話しながら、ずっと考えていた。私の存在が、彼女の生活を壊しているのではないかと。私が声をかけなければ、彼女はまっとうに人間社会に溶け込んだのではないかと。
私は意を決した。少女と過ごした十数年は、とても楽しかった、幸せだった。かけがえのない思い出だ。おそらく少女にとってもそうだろう。
だから私はその記憶を___すべて消すことにした。
私は世にも奇妙な石だ。そういう不思議な力を持っているのを知っている。それを誰かに行使する時は、決まって邪な心を持った者に対してだけだった。これからもそれは変わらないと思っていた。なのに、こんな純真な心を持つ少女に使う日が来ようとは。
少女が寝静まった頃、私は少女の精神に自身を繋ぐ。彼女の心の中の景色は、とても混沌としていた。まぁ、人間の心の中なんて大抵こんなものだ。けれど私は少女にずいぶん情がわいてしまったからか、あるのかしれない心が痛んだ。私との記憶をまるっと消してしまうと、それはそれで支障をきたすだろうから、私の位置を人間の言う“イマジナリーフレンド”に置き換えた。これなら不自然ではあるまい。
私は丁寧に丁寧に、彼女の記憶を遡り書き換えて、最後に辿り着いた初めての出会いの記憶をそうしようとして、どうしてか、動けなくなった。はやく、彼女が起きる前に終わらせて、日が昇る前にこの家を出なければならないのに。
もし、私が人の身体を持っていたなら、きっと不様に蹲り、声を殺して泣いて、己の心に引っ張られ、すべてを成すことは叶わなかっただろう。私は私が石で、本当に良かったと思った。
少女が、河原で遊んでいる。私はそれを見ている。あの日の彼女はもう立派な親となり、娘を伴って私の住まう河原へとやってくる。けれど、それは私を覚えているからではない。なのに、時折、広がる砂利の中を彼女が真剣に見ているような気がして、私は少しだけ、人間のような気持ちになるのだった。
恋人とお別れをした日、私の心の中で強い悲しみの風が吹いた。空は厚い雲に覆われ、次いで怒りの、寂しさの、憎しみの、無力感の風も吹き始めた。それらは融合し、大きくうねる竜巻となって、私の精神の街を破壊した。私にはどうすることも出来なかった。
その竜巻はずいぶん長くそこにあった。けれどそのうち、それは少しずつ小さくなり、つむじ風程度になった。私はその時ようやく動けるようになって、壊れた街の残骸を丁寧に見て回った。それは私が大事にしていた価値観や信じていたもの、常識で、硝子の破片のように尖った思い出は、拾い上げた私の手を傷付けた。
瓦礫の街の真ん中でずっと蹲っていた。もうこの街は、私は、終わりなのだと思った。静かに世界の滅びを待っている気持ちだった。けれど、なかなかそれは訪れない。俯いていた顔をふとあげると、私の形をした影が、せっせと瓦礫を運んでいるのが目に入った。廃墟となった街の片隅に咲く花に感動し、どこからか現れた野良猫に癒やされながら、影はひとり黙々と作業している。私は、そんな影に言った。
「もうこの街は終わりだよ、何をしたって無駄なんだ」
影は私に答えた。
「そうかもしれない。でも、私はこの街が好きだ。諦めたくない」
「勝手にしたらいい」
私はそのまま蹲っていた。影はそのまま作業を続けた。その様子を見ているうち、どうしても言いたくなって私は口を開いた。
「そんな瓦礫ひとつひとつを丁寧に扱っていたら、いつまで経っても片付かないよ。もっと雑に放り投げたらいい」
「それは出来ない。これは、私の大好きだった街の欠片だ。最期まで丁重に扱うのが私の礼儀だ」
「馬鹿らしい」壊れたものに、価値などないのに。
街は本当に少しずつだが片付いていった。開けた場所が増えて、影はそこで猫と日向ぼっこをしていた。何だか気持ちよさそうだ。その視線に影が目ざとく気付き、私に手招きした。私は首を横に振ろうとしたが、気付けば立ち上がって歩き出していた。ずいぶん足を使っていなかったから、筋肉が弱り、ふらついた。それでも何とかその開けた場所へとたどり着き、影の隣に寝そべると、穏やかな太陽と目があった。眩しくて涙が出た。
影がもうひとりの自分なのだと自覚している。自分は諦めたくないのだと、けれどもう、私は頑張りたくもない。この苦しみをこの先何度も味わうことになるのかと思うと、不安でどうにかなりそうで。周りの人間もこんなことを考えているのか、聞くことも出来なかった。口にした途端、湧き出す不安のすべてが具現化してしまうような気がして恐ろしかった。つむじ風は、しぶとく街の片隅で今も吹いていた。
しばらくして、私は影の瓦礫処理に加わった。影は黒くてその表情は見えないが、きっと私を見て笑っていたと思う。ふたりになっても大して作業効率は変わらなかったが、それでも少しずつ瓦礫は片付いていき、ついに建物を建てるところまできた。しかし、まともな材料はない。
影は瓦礫の中からまだ使えそうなものを集め始めた。私は、それらで補えない穴を埋めるための素材を想像し、創造した。此処は私の精神の街。私はこの街の神のようなものであるからそれが可能だ。けれど、崩壊の大きなショックでその力が使えなくなっていたというか、その力の存在さえ忘れていたようだった。とはいえ、魔法のように街を再建するほどの力はなく、結局ふたりで地道に組み立てていくしかなかった。
時間をかけながら、建物ができていく。街が小さく鼓動し、息吹きはじめる。それを見た時、私は影に言った。
「これは君の好きだった街ではないよ」
「そうだね、でも、私はこの街も好きになるよ、きっと」
「馬鹿らしい」
私は笑った。新しい建物たちは私の新しい価値観。それは真新しくまだ慣れないのだけれど、何故か今の私は、それに微かな心地よさを覚えた。
猫を拾った。
最初は拾うつもりなんてなかった。
民家は私の家以外にもいくらでもあったのに、どういうわけか毎日私の家の玄関に来て鳴いて仕方ないから飼うことにした。
その野良の虎柄の子猫は、身体がずいぶん小さかったから、チビと名付けた。そのまますぎる。名前をあれこれ考えてやるほど、私は動物に愛着を持っていないのだから仕方ない。しかしながら、チビが、初めて食べた缶詰め餌に感動して出した、みゃうみゃう!という、か弱い身体から出た力強い声がとても印象的で、私はこれをずっと覚えているだろうと、何となく思った。
栄養状態が良くなると、みるみる身体は大きくなった。嗄れていた声も、高く愛らしいものへと変わった。けれど、生まれ持った鋭い目つきと、短く不格好に曲がったしっぽだけは変わらなかった。
古い友人から、なかなか猫が懐かないという話を聞いたことがあって、そういった懸念もあったのだが、初日からチビは私を微塵も恐れることもなく、普通に過ごしていた。2週間も経過すると、餌が気に入らないと私に鋭い眼差しをくれて抗議するようになった。何たる図々しさ…いや、素晴らしい適応能力であろう。
けれど私は、それが嫌いではなかった。だらしないのも、図々しいのも、文句を垂れるのも、人間だったらまったく好ましいと思わないが、猫であるというだけで、すべてが許される気がした。寧ろ、好ましくさえ思う。こんな短期間で、私はすっかり猫に魅了されてしまった。
それから数ヶ月、数年と過ぎ、チビが隣にいるのが当たり前になっていたある日のこと。チビに病が見つかった。治療の甲斐虚しく、みるみる弱っていくチビを見ているのが辛かった。餌をひとりで食べられなくなって、私が匙で少しずつ食べさせた。それも受け付けなくなったら、チビが好んでいた猫用のミルクを少しずつ飲ませ、次には水も少しずつ与え、しかしついに何も受け付けなくなり、私にはしてやれることがなくなった。ただ、傍にいて声をかけ撫でてやることしか出来ない自分が、ひどく無力で情けなかった。
出会って15年ほど過ぎたある朝、チビは目を開けなかった。
毎日泣いて過ごしていたが、私は存外薄情で、数日もすれば飯を喉に通せたし、会社にも行けた。胸の内にブラックホールでも出来てしまったかのような虚無感から逃れるため、仕事に打ち込むしかなかったのかもしれない。
数日、数週間、数ヶ月、数年。時間の経過と共に、悲しみは色褪せていく。忙しくなり、スマホの中のチビを見る機会も減ってきた頃、私は庭で思いがけないものを見つけた。植え込みからちょこっと出ている不格好に曲がった短い虎柄のしっぽ。
「チビ!!」
思わず叫んでいた。もうしばらく呼んでいなかった相棒の名前を。
驚いて植え込みから飛び出してきたのは、チビと同じ虎柄の不格好な尾を持つ猫だった。その猫は逃げ出そうとしたが、私を見て、はたと止まる。
「チビ?」
そんなはずはないのに話しかけていた。トラ猫は私をじっと見つめ首を傾げた。その時しっかりと目が合って、トラ猫についた両眼が丸く穏やかなものであることで、私はようやく猫違いを認めた。途端に、あの、私に文句がある時の、あの鋭い眼差しが、恋しくて堪らなくなった。
突然泣き出した私を訝しみながらも、トラ猫はゆっくりと庭を去っていく。けれど、チラリチラリと、何歩か進むごとに私の方を振り返っていた。
猫には九つの命がある。そんな外国のことわざを知った。九度生まれ変わった猫の物語を近頃読んだ。ファンタジーだが、それがもしも、誰も知らない世界の真実なら、あれから連日私の庭に遊びに来るトラ猫は、もしかしたらチビなのではないかと思う。天国で生まれ変わる時に、目付きの悪さをどうにかしてくれと神様に頼んだのかもしれない。次私に会った時、睨まないでやりたいから、なんて。
ああ、あたしのこと、本当に何も覚えてないんだ。
神様って酷いのね。あたしがあの人に捧げた10年を一瞬でなかったことにしちゃうんだから。
3日前、彼は歩道橋の階段から転げ落ちて頭を打った。救急車で運ばれたけど、なかなか意識が戻らなくて、その間ずっと、時間が許す限りあたしは彼の傍にいた。それでやっと彼が目を覚ました時、手を握っていたあたしになんて言ったと思う?「あなたは、誰ですか?」だって。
あたしのこと、分からないんだって。10年も傍にいたのに何にも。彼と一緒に積み上げてきた人生が、一気に崩れてなくなっちゃった、みたいな。外傷なんてない指先が、胸の内にじわりと湧いた感情のためだけに痺れて、口は乾いて、熱くない汗が滲むのが分かった。
「あたしはね、君の……」
その時、病室をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開くと、看護師さんがワゴンを押して入ってくる。でも、あたしたちを見た途端、血相を変えて病室を飛び出していった。意識不明だった患者が目覚めてたんだもの、驚くのも当然よね。あたしはあの人に向き直って話し始めた。
「あ、まずは状況説明が先よね。君はね、3日前、歩道橋であたしに急に声をかけられたのに驚いて、階段を踏み外しちゃったの。落ちて頭を打ったせいで記憶が飛んじゃったみたい」
「……」
彼はあたしを黙って見つめている。まだ意識がはっきりしてないのかもしれない。
「少し、換気しようか」
あたしは病室の窓を開けた。程よく冷えた風が、あたしの頬を撫で、髪を揺らす。彼にもそれが届いているはずだけど、その表情は一向に晴れなかった。
「心配しなくても大丈夫よ。もし君に何かしら障害が残ったとしても、君の世話はあたしがみんなするから。あたしが君の傍にいるからね」
あたしはベッドの隣の椅子に座ると、彼の手を握り、目をまっすぐ見つめて言った。でも、彼は訝しむような視線をあたしに投げるだけだった。
「…何言ってるんですか、俺は、」
「ああ、そうよね。今の君は、あたしのこと知らないんだもの。知らない人にそんなこと急に言われても怖いよね、ごめんね。これから少しずつ思い出していけばいいよ。…ううん、思い出せなくたっていい。あたしは君さえいてくれたら、他に何もいらないんだから。これからもふたりで、生きていこうね?」
「だから…っ!!」
ギュッと握りしめた手を、怯えたように彼が振りほどき、そして言った。
「あなたは、誰なんですか…っ!!」
その時、バタバタと廊下に複数の足音が響く。それがあたしたちのいる病室の前で止まると、蹴破るように扉が開いた。
「警察だ!そこを動くな!」
物々しい雰囲気を纏った男たちが、ぞろぞろと病室へとなだれ込んでくる。
「…どうされたんですか、刑事さん。此処は病室ですよ。彼の傷に障るでしょう。お静かにお願いします」
穏やかに言うあたしを、刑事さんたちは鋭く睨んだ。
「男性の妻への殺人、及び男性への殺人未遂、長期に渡るストーカー行為の容疑であんたを逮捕する」
令状が、あたしに突きつけられる。
「…証拠は、揃ってるみたいね」
防犯カメラも目撃者も証拠品も、それなりに気を付けていたつもりだったけれど、見つかってしまったなら仕方ない。あたしは名残惜しく彼の頬を撫で、耳元で「またね」と告げると、厳つい男たちの隙間を猫のようにすり抜けて、病室の開け放たれた窓の枠へと飛び乗った。
「おい、何を」
場の空気が一瞬で強張った。此処は5階の病室だから。説得の言葉を探す時間なんて、あたしは与えなかった。
「死ぬのが怖くて、恋なんて出来ないわよ」
伸ばされた誰の手も、あたしには届かない。あっという間に、呆気なく、あたしは病室から消えてみせた。重力に導かれるまま、迷わず輪廻の輪を目指す。
来世でまた会いましょう。大丈夫。あたし必ず君を見つけるわ。だって君はあたしの魂の伴侶なんだから。君が人だろうが、動物だろうが、虫だろうが、あたしにはすぐ分かっちゃうんだから。
前世で君とした約束を果たす、その日まであたしは…
私たちの目に見えている善悪は、果たして真実なのか。
文明の発展は、確かに私たちの生活を豊かにしたのかもしれない。けれど、同時に流れる時間を加速させ、人間本来の能力を退化させてしまった。否応なく忙しさに囚われた我々は、無自覚のうちに想像力を放棄させられている。
大衆が見たのは、世界を守るヒーローが、世界を滅ぼす姿だった。
この世界には、世界白紙スイッチなるものがある。その名の通り、今ある世界を消し去るスイッチだ。神が作ったものなのか、誰かが発明したものなのか、どのように世界が消えるのか。詳細は誰も知らない。けれど、それが本物であると誰もが信じている。そして、それを手に入れようとしている組織と、その悪事を阻止する孤高のヒーローが、この世界には存在している。ヒーローの素性は誰も知らない。どこからともなく現れて、組織が作り出した怪物を倒すとすぐに去っていくのだ。彼は何も語らない。それをクールだなんだと持て囃す人々が、ヒーローグッズなどを作って商売している。人間とは本当に逞しい。
そうして彼らは、この世界を彼が必ず守ってくれると、何の根拠もなく信じている。人々の生活と笑顔を守る、善良で寡黙なヒーロー…
そんなもの、本当はどこにも存在しないのに。
世界白紙スイッチが、ついに発見された。それは組織のボスの手中にあった。都市のど真ん中。怪物たちを引き連れた男が、高笑いしながら言った。
「ふはははは!これで!世界を滅ぼせる!我が一族を辱めた蛮族を根絶やしに!」
男がスイッチのガラスケースを外した時、いつものごとくヒーローはやってきた。ボスへの行く手を阻む怪物たちを次々と薙ぎ倒し、まっすぐにスイッチを目指す。そしてついにふたりは対峙した。
上空を飛ぶヘリが彼らの姿をテレビ中継している。避難した人々は、固唾を呑んでそれを見守った。ふいにヒーローがヘリの方へ片手を掲げた。手のひらから出たビームがヘリに迫る敵の攻撃を粉砕し、塵が宙を舞う。中継ヘリは慌てて反転し、撤退していった。
人っ子一人、怪人一匹いなくなった街中で、しばらくふたりは沈黙して睨みあっていたが、その静寂を破ったのは、ふたり同時だった。
「「もういやだ!!!」」
綺麗にハモった。
男とヒーローが、急に顔を覆って泣き出したのだ。
「僕は!この世界が好きなんだ!一族の悲願なんて知ったことか!一部の蛮族のためにすべてを消そうだなんて馬鹿げてる!」
「私は!この世界が嫌いなんだ!人間なんて大嫌いだ!愛猫のミィちゃんがいなければ世界なんて守ってない!」
「だから、僕はこのスイッチを破壊する!善良な人間たちを理不尽に消されてたまるか!蛮族は怪物で対処する!一族は説得する!この世界は絶対に僕が守る!」
「だけど、ミィちゃんはもういない…昨日虹の橋を渡った。完治しない病だった。ミィちゃんが何をしたって言うんだ…あんな優しい猫がどうして若くして死ななきゃならない…!こんな理不尽な世界、まるごと消し去ってやる!!」
ふたりは同時に走り出し取っ組み合いになった。
「そのスイッチを寄こせ!」
「いやだ!」
すると、空からバラバラと音が近付いてくる。懲りずにやってきた中継ヘリだった。まるで喧嘩するようにスイッチを奪い合っている光景をリポーターはこう伝えた。
「今まさに、ヒーローが私たちを守るために、世界を滅ぼそうとしている男からスイッチを取り返そうとしています!…おや、あの無口なヒーローがどうやら何か話しているようです!ここからでは聞き取れませんが、おそらく敵を説得しているのでしょう!まさしくヒーローの鏡です!」
街中を転げ回り格闘した末、スイッチを手にしたのはヒーローだった。中継を見ていた人々が歓喜の声をあげる。地に伏した男は絶望した顔でヒーローを見上げていた。
ヒーローは中継ヘリに向かって初めて微笑んだ。
そして高らかに掲げたスイッチを__________力強く押し込んだ。
世界は何も変わらなかった。人々は今まで通り、自由で不自由な、真っ直ぐで歪な世界を生きている。スイッチの発動後に変わったことといえば、ヒーローグッズで商売をする者がいなくなったこと。件の組織が今は怪物を使って世界の治安を守る組織に生まれ変わったこと。そして、すべての記憶を失った人間がひとり生まれたこと。
この世界には、世界白紙スイッチなるものがあった。それを求めた悪の組織とそれを守ったヒーローもいた。けれど、今はそのどちらも存在しない。もともと、世界を滅ぼせるスイッチなど存在しなかったのだ。人々が信じていたそれの実態は、スイッチを押した者の記憶を綺麗さっぱり消す装置だった。使った者の世界を白紙にする。ゆえにそう名付けられたのだろう。忘れることを救いとした誰かが作ったそれは、まだ世界のどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。
その後、すべてを忘れたヒーローは、新たな人生を歩みだした。愛猫の記憶はすっかり消えてしまったが、自暴自棄になって世界を滅ぼすよりはマシだろうと、雲の上できっと、愛された猫は思っている。