月森

Open App
8/3/2024, 7:00:17 AM

 ああ、あたしのこと、本当に何も覚えてないんだ。

 神様って酷いのね。あたしがあの人に捧げた10年を一瞬でなかったことにしちゃうんだから。

 3日前、彼は歩道橋の階段から転げ落ちて頭を打った。救急車で運ばれたけど、なかなか意識が戻らなくて、その間ずっと、時間が許す限りあたしは彼の傍にいた。それでやっと彼が目を覚ました時、手を握っていたあたしになんて言ったと思う?「あなたは、誰ですか?」だって。

 あたしのこと、分からないんだって。10年も傍にいたのに何にも。彼と一緒に積み上げてきた人生が、一気に崩れてなくなっちゃった、みたいな。外傷なんてない指先が、胸の内にじわりと湧いた感情のためだけに痺れて、口は乾いて、熱くない汗が滲むのが分かった。

「あたしはね、君の……」

 その時、病室をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開くと、看護師さんがワゴンを押して入ってくる。でも、あたしたちを見た途端、血相を変えて病室を飛び出していった。意識不明だった患者が目覚めてたんだもの、驚くのも当然よね。あたしはあの人に向き直って話し始めた。

「あ、まずは状況説明が先よね。君はね、3日前、歩道橋であたしに急に声をかけられたのに驚いて、階段を踏み外しちゃったの。落ちて頭を打ったせいで記憶が飛んじゃったみたい」
「……」
 彼はあたしを黙って見つめている。まだ意識がはっきりしてないのかもしれない。
「少し、換気しようか」
 あたしは病室の窓を開けた。程よく冷えた風が、あたしの頬を撫で、髪を揺らす。彼にもそれが届いているはずだけど、その表情は一向に晴れなかった。
「心配しなくても大丈夫よ。もし君に何かしら障害が残ったとしても、君の世話はあたしがみんなするから。あたしが君の傍にいるからね」
 あたしはベッドの隣の椅子に座ると、彼の手を握り、目をまっすぐ見つめて言った。でも、彼は訝しむような視線をあたしに投げるだけだった。
「…何言ってるんですか、俺は、」
「ああ、そうよね。今の君は、あたしのこと知らないんだもの。知らない人にそんなこと急に言われても怖いよね、ごめんね。これから少しずつ思い出していけばいいよ。…ううん、思い出せなくたっていい。あたしは君さえいてくれたら、他に何もいらないんだから。これからもふたりで、生きていこうね?」
「だから…っ!!」
ギュッと握りしめた手を、怯えたように彼が振りほどき、そして言った。
「あなたは、誰なんですか…っ!!」

 その時、バタバタと廊下に複数の足音が響く。それがあたしたちのいる病室の前で止まると、蹴破るように扉が開いた。
「警察だ!そこを動くな!」
 物々しい雰囲気を纏った男たちが、ぞろぞろと病室へとなだれ込んでくる。
「…どうされたんですか、刑事さん。此処は病室ですよ。彼の傷に障るでしょう。お静かにお願いします」
 穏やかに言うあたしを、刑事さんたちは鋭く睨んだ。
「男性の妻への殺人、及び男性への殺人未遂、長期に渡るストーカー行為の容疑であんたを逮捕する」
令状が、あたしに突きつけられる。
「…証拠は、揃ってるみたいね」
 防犯カメラも目撃者も証拠品も、それなりに気を付けていたつもりだったけれど、見つかってしまったなら仕方ない。あたしは名残惜しく彼の頬を撫で、耳元で「またね」と告げると、厳つい男たちの隙間を猫のようにすり抜けて、病室の開け放たれた窓の枠へと飛び乗った。
「おい、何を」
 場の空気が一瞬で強張った。此処は5階の病室だから。説得の言葉を探す時間なんて、あたしは与えなかった。
「死ぬのが怖くて、恋なんて出来ないわよ」
 伸ばされた誰の手も、あたしには届かない。あっという間に、呆気なく、あたしは病室から消えてみせた。重力に導かれるまま、迷わず輪廻の輪を目指す。

 来世でまた会いましょう。大丈夫。あたし必ず君を見つけるわ。だって君はあたしの魂の伴侶なんだから。君が人だろうが、動物だろうが、虫だろうが、あたしにはすぐ分かっちゃうんだから。

 前世で君とした約束を果たす、その日まであたしは…

4/27/2024, 2:06:19 AM

私たちの目に見えている善悪は、果たして真実なのか。

文明の発展は、確かに私たちの生活を豊かにしたのかもしれない。けれど、同時に流れる時間を加速させ、人間本来の能力を退化させてしまった。否応なく忙しさに囚われた我々は、無自覚のうちに想像力を放棄させられている。




大衆が見たのは、世界を守るヒーローが、世界を滅ぼす姿だった。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがある。その名の通り、今ある世界を消し去るスイッチだ。神が作ったものなのか、誰かが発明したものなのか、どのように世界が消えるのか。詳細は誰も知らない。けれど、それが本物であると誰もが信じている。そして、それを手に入れようとしている組織と、その悪事を阻止する孤高のヒーローが、この世界には存在している。ヒーローの素性は誰も知らない。どこからともなく現れて、組織が作り出した怪物を倒すとすぐに去っていくのだ。彼は何も語らない。それをクールだなんだと持て囃す人々が、ヒーローグッズなどを作って商売している。人間とは本当に逞しい。

そうして彼らは、この世界を彼が必ず守ってくれると、何の根拠もなく信じている。人々の生活と笑顔を守る、善良で寡黙なヒーロー…

そんなもの、本当はどこにも存在しないのに。






世界白紙スイッチが、ついに発見された。それは組織のボスの手中にあった。都市のど真ん中。怪物たちを引き連れた男が、高笑いしながら言った。

「ふはははは!これで!世界を滅ぼせる!我が一族を辱めた蛮族を根絶やしに!」

男がスイッチのガラスケースを外した時、いつものごとくヒーローはやってきた。ボスへの行く手を阻む怪物たちを次々と薙ぎ倒し、まっすぐにスイッチを目指す。そしてついにふたりは対峙した。

上空を飛ぶヘリが彼らの姿をテレビ中継している。避難した人々は、固唾を呑んでそれを見守った。ふいにヒーローがヘリの方へ片手を掲げた。手のひらから出たビームがヘリに迫る敵の攻撃を粉砕し、塵が宙を舞う。中継ヘリは慌てて反転し、撤退していった。

人っ子一人、怪人一匹いなくなった街中で、しばらくふたりは沈黙して睨みあっていたが、その静寂を破ったのは、ふたり同時だった。

「「もういやだ!!!」」

綺麗にハモった。

男とヒーローが、急に顔を覆って泣き出したのだ。

「僕は!この世界が好きなんだ!一族の悲願なんて知ったことか!一部の蛮族のためにすべてを消そうだなんて馬鹿げてる!」

「私は!この世界が嫌いなんだ!人間なんて大嫌いだ!愛猫のミィちゃんがいなければ世界なんて守ってない!」

「だから、僕はこのスイッチを破壊する!善良な人間たちを理不尽に消されてたまるか!蛮族は怪物で対処する!一族は説得する!この世界は絶対に僕が守る!」

「だけど、ミィちゃんはもういない…昨日虹の橋を渡った。完治しない病だった。ミィちゃんが何をしたって言うんだ…あんな優しい猫がどうして若くして死ななきゃならない…!こんな理不尽な世界、まるごと消し去ってやる!!」

ふたりは同時に走り出し取っ組み合いになった。

「そのスイッチを寄こせ!」
「いやだ!」

すると、空からバラバラと音が近付いてくる。懲りずにやってきた中継ヘリだった。まるで喧嘩するようにスイッチを奪い合っている光景をリポーターはこう伝えた。

「今まさに、ヒーローが私たちを守るために、世界を滅ぼそうとしている男からスイッチを取り返そうとしています!…おや、あの無口なヒーローがどうやら何か話しているようです!ここからでは聞き取れませんが、おそらく敵を説得しているのでしょう!まさしくヒーローの鏡です!」

街中を転げ回り格闘した末、スイッチを手にしたのはヒーローだった。中継を見ていた人々が歓喜の声をあげる。地に伏した男は絶望した顔でヒーローを見上げていた。

ヒーローは中継ヘリに向かって初めて微笑んだ。
そして高らかに掲げたスイッチを__________力強く押し込んだ。




世界は何も変わらなかった。人々は今まで通り、自由で不自由な、真っ直ぐで歪な世界を生きている。スイッチの発動後に変わったことといえば、ヒーローグッズで商売をする者がいなくなったこと。件の組織が今は怪物を使って世界の治安を守る組織に生まれ変わったこと。そして、すべての記憶を失った人間がひとり生まれたこと。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがあった。それを求めた悪の組織とそれを守ったヒーローもいた。けれど、今はそのどちらも存在しない。もともと、世界を滅ぼせるスイッチなど存在しなかったのだ。人々が信じていたそれの実態は、スイッチを押した者の記憶を綺麗さっぱり消す装置だった。使った者の世界を白紙にする。ゆえにそう名付けられたのだろう。忘れることを救いとした誰かが作ったそれは、まだ世界のどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

その後、すべてを忘れたヒーローは、新たな人生を歩みだした。愛猫の記憶はすっかり消えてしまったが、自暴自棄になって世界を滅ぼすよりはマシだろうと、雲の上できっと、愛された猫は思っている。

8/27/2023, 9:09:10 PM

いっそ、君が死んでくれたら良かった。
なんて思ってしまう僕は、酷いやつだなと、我ながら思う。

長年付き合ってきた彼女と別れた。彼女に好きな人が出来たから。僕の知らないところで、彼女はとっくに結婚していた。それを知って僕が愕然としていると、彼女が言った。

「これからは、仲の良い友だちとしてよろしくね」と。

僕たち、今まで何をしていたのだろう。相手の何を見ていたのだろう。恋人がいないと馬鹿にされる世の中に急かされて、お互いに手頃だったから付き合っていただけなのか。

僕は彼女を愛していた。結婚になかなか踏み切れなかったのは、持病のせいだ。彼女に負担をかけるのが怖かった。それでも、何とかやっていける道を探していたけれど、それは恐らく遅すぎた。

彼女は僕を愛していた、のかは分からない。しかし少なくとも、付き合っている間は僕はそう感じていた。前の男で酷い目にあって、男性恐怖症だと言っていたから、中性的な僕とは付き合いやすかったのかもしれない。そんな傷付いた彼女を大事にしたくて、彼女の望みには応えるようにしたし、彼女が嫌がることはしなかった。大切に、大切に、付き合ってきたはずだけれど、彼女には何か足りなかったらしい。

僕には何の言葉もなく、他の男と付き合っていた。彼女が男性恐怖症を克服できたことを喜びたいのに、僕はもう、善人でいられる気がしなかった。

悪びれることもなく、これからは友だちとして付き合えだなんて。僕が今、どんな気持ちでいるのか想像もしてくれないらしい。それくらい、彼女は僕のことを優しい人間だと勘違いしている。






雨が降る。恐ろしく風のない夜。
僕は彼女らの新居の前にいた。手にはバールと縄を持っている。僕は監視カメラも気にせずに、堂々と歩いた。僕がこれから何をしても、刑務所に入れられる心配はないからだ。彼女のように無防備な窓ガラスを、僕はバールで割って家へ侵入。そのまま寝室を目指し、ふたりを絞殺……することはなかった。僕はただ、新品の建物を眺めながら、雨に佇む。

雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を覆って、
「    」と溢した。

持ってきた縄は、彼女らのためのものではない。
これは僕のための縄なのだ。バールはただの護身用だ。


さて、彼女は翌朝、どんな顔をするのだろう。
僕は何も期待しないで、手頃な樹木に己の命を預けた。

8/26/2023, 1:00:23 AM

僕たちは、向い合せでいると思っていた。
お互いにお互いを、まっすぐ見つめ合ってきたから、長く付き合えたのだと。

でも、それは違ったらしい。
僕たちは向かい合っていたけれど、お互いを見てはいなかった。お互いの瞳の中に映る、己を見ていたのかもしれない。

僕は君を知っていると思ったが、存外君のことを知らなかった。君もまた同じく。

ふたり手を繋いでいた頃は、お互いの考えることが分かったのに。実際は分かっている気でいただけだった。

そう、思わざるを得ない。

君から受けた、たった一度の不信を、僕は許せなかった。驚いた。大概のことは諦めて許してきた自分が、明確に君に対して怒ったのである。いや、正確にはこれはただの防衛反応であり、それを引き起こしたのは強い悲しみと己への落胆のためなのだけど。

渦巻く黒に飲み込まれそうだ。
過ごしてきた日々に嘘偽はないのに、まるでそれは、波打ち際で運良く波を避け続けた砂城だった。

僕たちは今、分岐点に立っている。
本当の本心を語るべき時が来た。
これまでの自分を、真実としたいなら。

ああ、どうか、どうか、
僕たちがお互いに、
誠実でありたいと願っていますように。

8/20/2023, 10:19:46 PM

 どうやら私は長くないらしい。

 100歳まで生きたいなんて思っていなかったが、30代で死ぬ想定もしていなかったから、何だか困惑する。

 日に日に少しずつ身体の自由がなくなっていくことに、私はあと数年耐えられるだろうか。ああ、きっと無理だ。私はひどい怖がりだから。

 自然災害に、疫病、戦争。世界を不幸が飲み込もうとしている。そんな世の中を、この脆弱な肉体では生きていける気がしない。いつも父が言っていた。これからは「弱い人間は生きていけない」世界になるのだと。つまり私は、死ぬべき人間であるのだと。少しでも生きたい人間に有限資源を譲ることくらいしか、死にゆく私が他人に出来る親切は、もうないだろう。

 いざ眼の前に死が迫れば、私は多くの未練を浮かべると思ったのに、実際は何も浮かばなかった。私は、家族や友人に対して、諦めしか持っていなかったのだ。誰かを強く想うことが出来なかった。強いて言うなら、それが未練だろうか。そういう強い気持ちがあったなら、己の命をもっと丁寧に扱えた気がする。

 

 身の回りの整理をしていると、学生時代の写真と手紙を見つけた。それは、少し変わった水瓶座の友人からのものだった。私とはまるで真逆のひどく活動的で、独断専行の目立つ人間だったが、何故か私は彼女のことがわりと好きだった。クラスで浮いている者同士だったからか、私たちはよくつるむようになって、お互いの足りない部分をフォローし合った。そこには、本来簡単に生まれるであろう恋愛感情も依存もなく、私が思うに、彼女ほど純粋に“友人”だった人間はいない。

 しかし、私は不調が現れてから連絡をとらなくなった。誰かと関わろうという気持ちを一切なくしてしまったのだ。それからもう長い年月が経つ。彼女はもう、私のことを覚えていないだろう。高校の3年間だけの付き合いだったのだから、当然だ。

 片付けの手を止めてはいけない。私はその後もテキパキと私物を捨て続けた。そうして最後に残ったのは、彼女との写真と手紙だけだった。私を忘れてしまった人間から、過去にもらった言葉を、私はお守りのように扱った。

「私は君がどうあろうと、君の味方だし、親友だよ」

 誰でも使う言葉なのかもしれない。上辺だけのものかもしれない。実際そういう人間を多く見てきたから、私は人の言葉を簡単には信じられないのだけれど、彼女の言葉は信じても良いと思えた。忘れられた言葉だとしても。信じるとは、裏切られても良いと思えることなのだから。









 準備が整った。あとは、己の臆病を宥めるだけだ。深呼吸をした後、震える足で椅子に上る。垂れ下がる輪っかになった縄に両手をかける。いざそこに首を通そうとした瞬間、聞き慣れないけたたましい音が私の鼓膜を揺らした。

 無音の世界に唐突に鳴り響いた爆音に、私の心臓が飛び上がる。振り向けば、遺書と共に並べておいたスマホが震えていた。私はそれが着信であると気付くのに少し時間がかかった。何せ私はスマホを買ってから、誰とも通話していない。自分のスマホの着信音も音量も知らずにいた。

 画面を見ると、見知らぬ番号だった。死ぬ間際に迷惑電話なんて、つくづく格好がつかない。無視することは容易だったはずなのに、何を思ったのか、私は椅子を降りてスマホをとっていた。人生最期で初めての、通話ボタンをスワイプした。

「もしもし…」

 電話口から聞こえてきたのは、弱者を食い物にする邪な詐欺師の声でもなく、これから私を迎えに来るであろう死神のそれでもなかった。何年経とうと忘れもしない彼女の声が、電子機器を通して私に届く。

 私は、スマホを何度も買い換えたが、番号を変えることはなかった。それは面倒だったからとも言えるが、本当に他人との関わりが絶ちたい人間のすることでは、多分ない。私は私の奥底にある気持ちを、あえて見ないようにしていたのだと、認めざるを得なかった。

 どうして、このタイミングで。死にたいという真っ黒な感情に満たされていた胸の内に、微かに残っていた生きたいという光が、弱々しくも鼓動しているのを感じてしまった。それが彼女の声を聞いて、大きくなってしまったことも。
 
 此岸にさよならを言う前に、一目君に会いたいだなんて、ああ、私はそう強く思ってしまった。

Next