月森

Open App
7/7/2025, 7:36:27 AM

 恋人とお別れをした日、私の心の中で強い悲しみの風が吹いた。空は厚い雲に覆われ、次いで怒りの、寂しさの、憎しみの、無力感の風も吹き始めた。それらは融合し、大きくうねる竜巻となって、私の精神の街を破壊した。私にはどうすることも出来なかった。
 その竜巻はずいぶん長くそこにあった。けれどそのうち、それは少しずつ小さくなり、つむじ風程度になった。私はその時ようやく動けるようになって、壊れた街の残骸を丁寧に見て回った。それは私が大事にしていた価値観や信じていたもの、常識で、硝子の破片のように尖った思い出は、拾い上げた私の手を傷付けた。

 瓦礫の街の真ん中でずっと蹲っていた。もうこの街は、私は、終わりなのだと思った。静かに世界の滅びを待っている気持ちだった。けれど、なかなかそれは訪れない。俯いていた顔をふとあげると、私の形をした影が、せっせと瓦礫を運んでいるのが目に入った。廃墟となった街の片隅に咲く花に感動し、どこからか現れた野良猫に癒やされながら、影はひとり黙々と作業している。私は、そんな影に言った。

「もうこの街は終わりだよ、何をしたって無駄なんだ」
 影は私に答えた。
「そうかもしれない。でも、私はこの街が好きだ。諦めたくない」
「勝手にしたらいい」
 私はそのまま蹲っていた。影はそのまま作業を続けた。その様子を見ているうち、どうしても言いたくなって私は口を開いた。
「そんな瓦礫ひとつひとつを丁寧に扱っていたら、いつまで経っても片付かないよ。もっと雑に放り投げたらいい」
「それは出来ない。これは、私の大好きだった街の欠片だ。最期まで丁重に扱うのが私の礼儀だ」
「馬鹿らしい」壊れたものに、価値などないのに。

 街は本当に少しずつだが片付いていった。開けた場所が増えて、影はそこで猫と日向ぼっこをしていた。何だか気持ちよさそうだ。その視線に影が目ざとく気付き、私に手招きした。私は首を横に振ろうとしたが、気付けば立ち上がって歩き出していた。ずいぶん足を使っていなかったから、筋肉が弱り、ふらついた。それでも何とかその開けた場所へとたどり着き、影の隣に寝そべると、穏やかな太陽と目があった。眩しくて涙が出た。

 影がもうひとりの自分なのだと自覚している。自分は諦めたくないのだと、けれどもう、私は頑張りたくもない。この苦しみをこの先何度も味わうことになるのかと思うと、不安でどうにかなりそうで。周りの人間もこんなことを考えているのか、聞くことも出来なかった。口にした途端、湧き出す不安のすべてが具現化してしまうような気がして恐ろしかった。つむじ風は、しぶとく街の片隅で今も吹いていた。

 しばらくして、私は影の瓦礫処理に加わった。影は黒くてその表情は見えないが、きっと私を見て笑っていたと思う。ふたりになっても大して作業効率は変わらなかったが、それでも少しずつ瓦礫は片付いていき、ついに建物を建てるところまできた。しかし、まともな材料はない。
 影は瓦礫の中からまだ使えそうなものを集め始めた。私は、それらで補えない穴を埋めるための素材を想像し、創造した。此処は私の精神の街。私はこの街の神のようなものであるからそれが可能だ。けれど、崩壊の大きなショックでその力が使えなくなっていたというか、その力の存在さえ忘れていたようだった。とはいえ、魔法のように街を再建するほどの力はなく、結局ふたりで地道に組み立てていくしかなかった。

 時間をかけながら、建物ができていく。街が小さく鼓動し、息吹きはじめる。それを見た時、私は影に言った。
「これは君の好きだった街ではないよ」
「そうだね、でも、私はこの街も好きになるよ、きっと」
「馬鹿らしい」
 私は笑った。新しい建物たちは私の新しい価値観。それは真新しくまだ慣れないのだけれど、何故か今の私は、それに微かな心地よさを覚えた。

10/16/2024, 5:26:29 AM

 猫を拾った。
最初は拾うつもりなんてなかった。
民家は私の家以外にもいくらでもあったのに、どういうわけか毎日私の家の玄関に来て鳴いて仕方ないから飼うことにした。

 その野良の虎柄の子猫は、身体がずいぶん小さかったから、チビと名付けた。そのまますぎる。名前をあれこれ考えてやるほど、私は動物に愛着を持っていないのだから仕方ない。しかしながら、チビが、初めて食べた缶詰め餌に感動して出した、みゃうみゃう!という、か弱い身体から出た力強い声がとても印象的で、私はこれをずっと覚えているだろうと、何となく思った。

 栄養状態が良くなると、みるみる身体は大きくなった。嗄れていた声も、高く愛らしいものへと変わった。けれど、生まれ持った鋭い目つきと、短く不格好に曲がったしっぽだけは変わらなかった。

 古い友人から、なかなか猫が懐かないという話を聞いたことがあって、そういった懸念もあったのだが、初日からチビは私を微塵も恐れることもなく、普通に過ごしていた。2週間も経過すると、餌が気に入らないと私に鋭い眼差しをくれて抗議するようになった。何たる図々しさ…いや、素晴らしい適応能力であろう。

 けれど私は、それが嫌いではなかった。だらしないのも、図々しいのも、文句を垂れるのも、人間だったらまったく好ましいと思わないが、猫であるというだけで、すべてが許される気がした。寧ろ、好ましくさえ思う。こんな短期間で、私はすっかり猫に魅了されてしまった。

 それから数ヶ月、数年と過ぎ、チビが隣にいるのが当たり前になっていたある日のこと。チビに病が見つかった。治療の甲斐虚しく、みるみる弱っていくチビを見ているのが辛かった。餌をひとりで食べられなくなって、私が匙で少しずつ食べさせた。それも受け付けなくなったら、チビが好んでいた猫用のミルクを少しずつ飲ませ、次には水も少しずつ与え、しかしついに何も受け付けなくなり、私にはしてやれることがなくなった。ただ、傍にいて声をかけ撫でてやることしか出来ない自分が、ひどく無力で情けなかった。

 出会って15年ほど過ぎたある朝、チビは目を開けなかった。

 毎日泣いて過ごしていたが、私は存外薄情で、数日もすれば飯を喉に通せたし、会社にも行けた。胸の内にブラックホールでも出来てしまったかのような虚無感から逃れるため、仕事に打ち込むしかなかったのかもしれない。
 数日、数週間、数ヶ月、数年。時間の経過と共に、悲しみは色褪せていく。忙しくなり、スマホの中のチビを見る機会も減ってきた頃、私は庭で思いがけないものを見つけた。植え込みからちょこっと出ている不格好に曲がった短い虎柄のしっぽ。

「チビ!!」
 思わず叫んでいた。もうしばらく呼んでいなかった相棒の名前を。

 驚いて植え込みから飛び出してきたのは、チビと同じ虎柄の不格好な尾を持つ猫だった。その猫は逃げ出そうとしたが、私を見て、はたと止まる。
「チビ?」
 そんなはずはないのに話しかけていた。トラ猫は私をじっと見つめ首を傾げた。その時しっかりと目が合って、トラ猫についた両眼が丸く穏やかなものであることで、私はようやく猫違いを認めた。途端に、あの、私に文句がある時の、あの鋭い眼差しが、恋しくて堪らなくなった。
 突然泣き出した私を訝しみながらも、トラ猫はゆっくりと庭を去っていく。けれど、チラリチラリと、何歩か進むごとに私の方を振り返っていた。

 猫には九つの命がある。そんな外国のことわざを知った。九度生まれ変わった猫の物語を近頃読んだ。ファンタジーだが、それがもしも、誰も知らない世界の真実なら、あれから連日私の庭に遊びに来るトラ猫は、もしかしたらチビなのではないかと思う。天国で生まれ変わる時に、目付きの悪さをどうにかしてくれと神様に頼んだのかもしれない。次私に会った時、睨まないでやりたいから、なんて。

8/3/2024, 7:00:17 AM

 ああ、あたしのこと、本当に何も覚えてないんだ。

 神様って酷いのね。あたしがあの人に捧げた10年を一瞬でなかったことにしちゃうんだから。

 3日前、彼は歩道橋の階段から転げ落ちて頭を打った。救急車で運ばれたけど、なかなか意識が戻らなくて、その間ずっと、時間が許す限りあたしは彼の傍にいた。それでやっと彼が目を覚ました時、手を握っていたあたしになんて言ったと思う?「あなたは、誰ですか?」だって。

 あたしのこと、分からないんだって。10年も傍にいたのに何にも。彼と一緒に積み上げてきた人生が、一気に崩れてなくなっちゃった、みたいな。外傷なんてない指先が、胸の内にじわりと湧いた感情のためだけに痺れて、口は乾いて、熱くない汗が滲むのが分かった。

「あたしはね、君の……」

 その時、病室をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開くと、看護師さんがワゴンを押して入ってくる。でも、あたしたちを見た途端、血相を変えて病室を飛び出していった。意識不明だった患者が目覚めてたんだもの、驚くのも当然よね。あたしはあの人に向き直って話し始めた。

「あ、まずは状況説明が先よね。君はね、3日前、歩道橋であたしに急に声をかけられたのに驚いて、階段を踏み外しちゃったの。落ちて頭を打ったせいで記憶が飛んじゃったみたい」
「……」
 彼はあたしを黙って見つめている。まだ意識がはっきりしてないのかもしれない。
「少し、換気しようか」
 あたしは病室の窓を開けた。程よく冷えた風が、あたしの頬を撫で、髪を揺らす。彼にもそれが届いているはずだけど、その表情は一向に晴れなかった。
「心配しなくても大丈夫よ。もし君に何かしら障害が残ったとしても、君の世話はあたしがみんなするから。あたしが君の傍にいるからね」
 あたしはベッドの隣の椅子に座ると、彼の手を握り、目をまっすぐ見つめて言った。でも、彼は訝しむような視線をあたしに投げるだけだった。
「…何言ってるんですか、俺は、」
「ああ、そうよね。今の君は、あたしのこと知らないんだもの。知らない人にそんなこと急に言われても怖いよね、ごめんね。これから少しずつ思い出していけばいいよ。…ううん、思い出せなくたっていい。あたしは君さえいてくれたら、他に何もいらないんだから。これからもふたりで、生きていこうね?」
「だから…っ!!」
ギュッと握りしめた手を、怯えたように彼が振りほどき、そして言った。
「あなたは、誰なんですか…っ!!」

 その時、バタバタと廊下に複数の足音が響く。それがあたしたちのいる病室の前で止まると、蹴破るように扉が開いた。
「警察だ!そこを動くな!」
 物々しい雰囲気を纏った男たちが、ぞろぞろと病室へとなだれ込んでくる。
「…どうされたんですか、刑事さん。此処は病室ですよ。彼の傷に障るでしょう。お静かにお願いします」
 穏やかに言うあたしを、刑事さんたちは鋭く睨んだ。
「男性の妻への殺人、及び男性への殺人未遂、長期に渡るストーカー行為の容疑であんたを逮捕する」
令状が、あたしに突きつけられる。
「…証拠は、揃ってるみたいね」
 防犯カメラも目撃者も証拠品も、それなりに気を付けていたつもりだったけれど、見つかってしまったなら仕方ない。あたしは名残惜しく彼の頬を撫で、耳元で「またね」と告げると、厳つい男たちの隙間を猫のようにすり抜けて、病室の開け放たれた窓の枠へと飛び乗った。
「おい、何を」
 場の空気が一瞬で強張った。此処は5階の病室だから。説得の言葉を探す時間なんて、あたしは与えなかった。
「死ぬのが怖くて、恋なんて出来ないわよ」
 伸ばされた誰の手も、あたしには届かない。あっという間に、呆気なく、あたしは病室から消えてみせた。重力に導かれるまま、迷わず輪廻の輪を目指す。

 来世でまた会いましょう。大丈夫。あたし必ず君を見つけるわ。だって君はあたしの魂の伴侶なんだから。君が人だろうが、動物だろうが、虫だろうが、あたしにはすぐ分かっちゃうんだから。

 前世で君とした約束を果たす、その日まであたしは…

4/27/2024, 2:06:19 AM

私たちの目に見えている善悪は、果たして真実なのか。

文明の発展は、確かに私たちの生活を豊かにしたのかもしれない。けれど、同時に流れる時間を加速させ、人間本来の能力を退化させてしまった。否応なく忙しさに囚われた我々は、無自覚のうちに想像力を放棄させられている。




大衆が見たのは、世界を守るヒーローが、世界を滅ぼす姿だった。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがある。その名の通り、今ある世界を消し去るスイッチだ。神が作ったものなのか、誰かが発明したものなのか、どのように世界が消えるのか。詳細は誰も知らない。けれど、それが本物であると誰もが信じている。そして、それを手に入れようとしている組織と、その悪事を阻止する孤高のヒーローが、この世界には存在している。ヒーローの素性は誰も知らない。どこからともなく現れて、組織が作り出した怪物を倒すとすぐに去っていくのだ。彼は何も語らない。それをクールだなんだと持て囃す人々が、ヒーローグッズなどを作って商売している。人間とは本当に逞しい。

そうして彼らは、この世界を彼が必ず守ってくれると、何の根拠もなく信じている。人々の生活と笑顔を守る、善良で寡黙なヒーロー…

そんなもの、本当はどこにも存在しないのに。






世界白紙スイッチが、ついに発見された。それは組織のボスの手中にあった。都市のど真ん中。怪物たちを引き連れた男が、高笑いしながら言った。

「ふはははは!これで!世界を滅ぼせる!我が一族を辱めた蛮族を根絶やしに!」

男がスイッチのガラスケースを外した時、いつものごとくヒーローはやってきた。ボスへの行く手を阻む怪物たちを次々と薙ぎ倒し、まっすぐにスイッチを目指す。そしてついにふたりは対峙した。

上空を飛ぶヘリが彼らの姿をテレビ中継している。避難した人々は、固唾を呑んでそれを見守った。ふいにヒーローがヘリの方へ片手を掲げた。手のひらから出たビームがヘリに迫る敵の攻撃を粉砕し、塵が宙を舞う。中継ヘリは慌てて反転し、撤退していった。

人っ子一人、怪人一匹いなくなった街中で、しばらくふたりは沈黙して睨みあっていたが、その静寂を破ったのは、ふたり同時だった。

「「もういやだ!!!」」

綺麗にハモった。

男とヒーローが、急に顔を覆って泣き出したのだ。

「僕は!この世界が好きなんだ!一族の悲願なんて知ったことか!一部の蛮族のためにすべてを消そうだなんて馬鹿げてる!」

「私は!この世界が嫌いなんだ!人間なんて大嫌いだ!愛猫のミィちゃんがいなければ世界なんて守ってない!」

「だから、僕はこのスイッチを破壊する!善良な人間たちを理不尽に消されてたまるか!蛮族は怪物で対処する!一族は説得する!この世界は絶対に僕が守る!」

「だけど、ミィちゃんはもういない…昨日虹の橋を渡った。完治しない病だった。ミィちゃんが何をしたって言うんだ…あんな優しい猫がどうして若くして死ななきゃならない…!こんな理不尽な世界、まるごと消し去ってやる!!」

ふたりは同時に走り出し取っ組み合いになった。

「そのスイッチを寄こせ!」
「いやだ!」

すると、空からバラバラと音が近付いてくる。懲りずにやってきた中継ヘリだった。まるで喧嘩するようにスイッチを奪い合っている光景をリポーターはこう伝えた。

「今まさに、ヒーローが私たちを守るために、世界を滅ぼそうとしている男からスイッチを取り返そうとしています!…おや、あの無口なヒーローがどうやら何か話しているようです!ここからでは聞き取れませんが、おそらく敵を説得しているのでしょう!まさしくヒーローの鏡です!」

街中を転げ回り格闘した末、スイッチを手にしたのはヒーローだった。中継を見ていた人々が歓喜の声をあげる。地に伏した男は絶望した顔でヒーローを見上げていた。

ヒーローは中継ヘリに向かって初めて微笑んだ。
そして高らかに掲げたスイッチを__________力強く押し込んだ。




世界は何も変わらなかった。人々は今まで通り、自由で不自由な、真っ直ぐで歪な世界を生きている。スイッチの発動後に変わったことといえば、ヒーローグッズで商売をする者がいなくなったこと。件の組織が今は怪物を使って世界の治安を守る組織に生まれ変わったこと。そして、すべての記憶を失った人間がひとり生まれたこと。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがあった。それを求めた悪の組織とそれを守ったヒーローもいた。けれど、今はそのどちらも存在しない。もともと、世界を滅ぼせるスイッチなど存在しなかったのだ。人々が信じていたそれの実態は、スイッチを押した者の記憶を綺麗さっぱり消す装置だった。使った者の世界を白紙にする。ゆえにそう名付けられたのだろう。忘れることを救いとした誰かが作ったそれは、まだ世界のどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

その後、すべてを忘れたヒーローは、新たな人生を歩みだした。愛猫の記憶はすっかり消えてしまったが、自暴自棄になって世界を滅ぼすよりはマシだろうと、雲の上できっと、愛された猫は思っている。

8/27/2023, 9:09:10 PM

いっそ、君が死んでくれたら良かった。
なんて思ってしまう僕は、酷いやつだなと、我ながら思う。

長年付き合ってきた彼女と別れた。彼女に好きな人が出来たから。僕の知らないところで、彼女はとっくに結婚していた。それを知って僕が愕然としていると、彼女が言った。

「これからは、仲の良い友だちとしてよろしくね」と。

僕たち、今まで何をしていたのだろう。相手の何を見ていたのだろう。恋人がいないと馬鹿にされる世の中に急かされて、お互いに手頃だったから付き合っていただけなのか。

僕は彼女を愛していた。結婚になかなか踏み切れなかったのは、持病のせいだ。彼女に負担をかけるのが怖かった。それでも、何とかやっていける道を探していたけれど、それは恐らく遅すぎた。

彼女は僕を愛していた、のかは分からない。しかし少なくとも、付き合っている間は僕はそう感じていた。前の男で酷い目にあって、男性恐怖症だと言っていたから、中性的な僕とは付き合いやすかったのかもしれない。そんな傷付いた彼女を大事にしたくて、彼女の望みには応えるようにしたし、彼女が嫌がることはしなかった。大切に、大切に、付き合ってきたはずだけれど、彼女には何か足りなかったらしい。

僕には何の言葉もなく、他の男と付き合っていた。彼女が男性恐怖症を克服できたことを喜びたいのに、僕はもう、善人でいられる気がしなかった。

悪びれることもなく、これからは友だちとして付き合えだなんて。僕が今、どんな気持ちでいるのか想像もしてくれないらしい。それくらい、彼女は僕のことを優しい人間だと勘違いしている。






雨が降る。恐ろしく風のない夜。
僕は彼女らの新居の前にいた。手にはバールと縄を持っている。僕は監視カメラも気にせずに、堂々と歩いた。僕がこれから何をしても、刑務所に入れられる心配はないからだ。彼女のように無防備な窓ガラスを、僕はバールで割って家へ侵入。そのまま寝室を目指し、ふたりを絞殺……することはなかった。僕はただ、新品の建物を眺めながら、雨に佇む。

雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を覆って、
「    」と溢した。

持ってきた縄は、彼女らのためのものではない。
これは僕のための縄なのだ。バールはただの護身用だ。


さて、彼女は翌朝、どんな顔をするのだろう。
僕は何も期待しないで、手頃な樹木に己の命を預けた。

Next