ああ、あたしのこと、本当に何も覚えてないんだ。
神様って酷いのね。あたしがあの人に捧げた10年を一瞬でなかったことにしちゃうんだから。
3日前、彼は歩道橋の階段から転げ落ちて頭を打った。救急車で運ばれたけど、なかなか意識が戻らなくて、その間ずっと、時間が許す限りあたしは彼の傍にいた。それでやっと彼が目を覚ました時、手を握っていたあたしになんて言ったと思う?「あなたは、誰ですか?」だって。
あたしのこと、分からないんだって。10年も傍にいたのに何にも。彼と一緒に積み上げてきた人生が、一気に崩れてなくなっちゃった、みたいな。外傷なんてない指先が、胸の内にじわりと湧いた感情のためだけに痺れて、口は乾いて、熱くない汗が滲むのが分かった。
「あたしはね、君の……」
その時、病室をノックする音が聞こえた。返事をする間もなく扉が開くと、看護師さんがワゴンを押して入ってくる。でも、あたしたちを見た途端、血相を変えて病室を飛び出していった。意識不明だった患者が目覚めてたんだもの、驚くのも当然よね。あたしはあの人に向き直って話し始めた。
「あ、まずは状況説明が先よね。君はね、3日前、歩道橋であたしに急に声をかけられたのに驚いて、階段を踏み外しちゃったの。落ちて頭を打ったせいで記憶が飛んじゃったみたい」
「……」
彼はあたしを黙って見つめている。まだ意識がはっきりしてないのかもしれない。
「少し、換気しようか」
あたしは病室の窓を開けた。程よく冷えた風が、あたしの頬を撫で、髪を揺らす。彼にもそれが届いているはずだけど、その表情は一向に晴れなかった。
「心配しなくても大丈夫よ。もし君に何かしら障害が残ったとしても、君の世話はあたしがみんなするから。あたしが君の傍にいるからね」
あたしはベッドの隣の椅子に座ると、彼の手を握り、目をまっすぐ見つめて言った。でも、彼は訝しむような視線をあたしに投げるだけだった。
「…何言ってるんですか、俺は、」
「ああ、そうよね。今の君は、あたしのこと知らないんだもの。知らない人にそんなこと急に言われても怖いよね、ごめんね。これから少しずつ思い出していけばいいよ。…ううん、思い出せなくたっていい。あたしは君さえいてくれたら、他に何もいらないんだから。これからもふたりで、生きていこうね?」
「だから…っ!!」
ギュッと握りしめた手を、怯えたように彼が振りほどき、そして言った。
「あなたは、誰なんですか…っ!!」
その時、バタバタと廊下に複数の足音が響く。それがあたしたちのいる病室の前で止まると、蹴破るように扉が開いた。
「警察だ!そこを動くな!」
物々しい雰囲気を纏った男たちが、ぞろぞろと病室へとなだれ込んでくる。
「…どうされたんですか、刑事さん。此処は病室ですよ。彼の傷に障るでしょう。お静かにお願いします」
穏やかに言うあたしを、刑事さんたちは鋭く睨んだ。
「男性の妻への殺人、及び男性への殺人未遂、長期に渡るストーカー行為の容疑であんたを逮捕する」
令状が、あたしに突きつけられる。
「…証拠は、揃ってるみたいね」
防犯カメラも目撃者も証拠品も、それなりに気を付けていたつもりだったけれど、見つかってしまったなら仕方ない。あたしは名残惜しく彼の頬を撫で、耳元で「またね」と告げると、厳つい男たちの隙間を猫のようにすり抜けて、病室の開け放たれた窓の枠へと飛び乗った。
「おい、何を」
場の空気が一瞬で強張った。此処は5階の病室だから。説得の言葉を探す時間なんて、あたしは与えなかった。
「死ぬのが怖くて、恋なんて出来ないわよ」
伸ばされた誰の手も、あたしには届かない。あっという間に、呆気なく、あたしは病室から消えてみせた。重力に導かれるまま、迷わず輪廻の輪を目指す。
来世でまた会いましょう。大丈夫。あたし必ず君を見つけるわ。だって君はあたしの魂の伴侶なんだから。君が人だろうが、動物だろうが、虫だろうが、あたしにはすぐ分かっちゃうんだから。
前世で君とした約束を果たす、その日まであたしは…
8/3/2024, 7:00:17 AM