月森

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私たちの目に見えている善悪は、果たして真実なのか。

文明の発展は、確かに私たちの生活を豊かにしたのかもしれない。けれど、同時に流れる時間を加速させ、人間本来の能力を退化させてしまった。否応なく忙しさに囚われた我々は、無自覚のうちに想像力を放棄させられている。




大衆が見たのは、世界を守るヒーローが、世界を滅ぼす姿だった。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがある。その名の通り、今ある世界を消し去るスイッチだ。神が作ったものなのか、誰かが発明したものなのか、どのように世界が消えるのか。詳細は誰も知らない。けれど、それが本物であると誰もが信じている。そして、それを手に入れようとしている組織と、その悪事を阻止する孤高のヒーローが、この世界には存在している。ヒーローの素性は誰も知らない。どこからともなく現れて、組織が作り出した怪物を倒すとすぐに去っていくのだ。彼は何も語らない。それをクールだなんだと持て囃す人々が、ヒーローグッズなどを作って商売している。人間とは本当に逞しい。

そうして彼らは、この世界を彼が必ず守ってくれると、何の根拠もなく信じている。人々の生活と笑顔を守る、善良で寡黙なヒーロー…

そんなもの、本当はどこにも存在しないのに。






世界白紙スイッチが、ついに発見された。それは組織のボスの手中にあった。都市のど真ん中。怪物たちを引き連れた男が、高笑いしながら言った。

「ふはははは!これで!世界を滅ぼせる!我が一族を辱めた蛮族を根絶やしに!」

男がスイッチのガラスケースを外した時、いつものごとくヒーローはやってきた。ボスへの行く手を阻む怪物たちを次々と薙ぎ倒し、まっすぐにスイッチを目指す。そしてついにふたりは対峙した。

上空を飛ぶヘリが彼らの姿をテレビ中継している。避難した人々は、固唾を呑んでそれを見守った。ふいにヒーローがヘリの方へ片手を掲げた。手のひらから出たビームがヘリに迫る敵の攻撃を粉砕し、塵が宙を舞う。中継ヘリは慌てて反転し、撤退していった。

人っ子一人、怪人一匹いなくなった街中で、しばらくふたりは沈黙して睨みあっていたが、その静寂を破ったのは、ふたり同時だった。

「「もういやだ!!!」」

綺麗にハモった。

男とヒーローが、急に顔を覆って泣き出したのだ。

「僕は!この世界が好きなんだ!一族の悲願なんて知ったことか!一部の蛮族のためにすべてを消そうだなんて馬鹿げてる!」

「私は!この世界が嫌いなんだ!人間なんて大嫌いだ!愛猫のミィちゃんがいなければ世界なんて守ってない!」

「だから、僕はこのスイッチを破壊する!善良な人間たちを理不尽に消されてたまるか!蛮族は怪物で対処する!一族は説得する!この世界は絶対に僕が守る!」

「だけど、ミィちゃんはもういない…昨日虹の橋を渡った。完治しない病だった。ミィちゃんが何をしたって言うんだ…あんな優しい猫がどうして若くして死ななきゃならない…!こんな理不尽な世界、まるごと消し去ってやる!!」

ふたりは同時に走り出し取っ組み合いになった。

「そのスイッチを寄こせ!」
「いやだ!」

すると、空からバラバラと音が近付いてくる。懲りずにやってきた中継ヘリだった。まるで喧嘩するようにスイッチを奪い合っている光景をリポーターはこう伝えた。

「今まさに、ヒーローが私たちを守るために、世界を滅ぼそうとしている男からスイッチを取り返そうとしています!…おや、あの無口なヒーローがどうやら何か話しているようです!ここからでは聞き取れませんが、おそらく敵を説得しているのでしょう!まさしくヒーローの鏡です!」

街中を転げ回り格闘した末、スイッチを手にしたのはヒーローだった。中継を見ていた人々が歓喜の声をあげる。地に伏した男は絶望した顔でヒーローを見上げていた。

ヒーローは中継ヘリに向かって初めて微笑んだ。
そして高らかに掲げたスイッチを__________力強く押し込んだ。




世界は何も変わらなかった。人々は今まで通り、自由で不自由な、真っ直ぐで歪な世界を生きている。スイッチの発動後に変わったことといえば、ヒーローグッズで商売をする者がいなくなったこと。件の組織が今は怪物を使って世界の治安を守る組織に生まれ変わったこと。そして、すべての記憶を失った人間がひとり生まれたこと。

この世界には、世界白紙スイッチなるものがあった。それを求めた悪の組織とそれを守ったヒーローもいた。けれど、今はそのどちらも存在しない。もともと、世界を滅ぼせるスイッチなど存在しなかったのだ。人々が信じていたそれの実態は、スイッチを押した者の記憶を綺麗さっぱり消す装置だった。使った者の世界を白紙にする。ゆえにそう名付けられたのだろう。忘れることを救いとした誰かが作ったそれは、まだ世界のどこかにあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

その後、すべてを忘れたヒーローは、新たな人生を歩みだした。愛猫の記憶はすっかり消えてしまったが、自暴自棄になって世界を滅ぼすよりはマシだろうと、雲の上できっと、愛された猫は思っている。

4/27/2024, 2:06:19 AM