学校で色々あって人間不信に陥った俺は、不登校になった。そんな俺に毎日のようにLINEをしてくる幼馴染みがいる。今は大して親しくもないアイツは、学級委員で、先生のお気に入りで、人気者で、成績も良くて、運動も出来て…とにかく俺とは真逆の人間だ。そんなやつが俺をかまうのは、きっと先生にでも頼まれたか、持ち前の善心のためだろう。俺はそれをずっと無視していた。
LINEを無視し続けて数カ月が経ったある日、いつもの時間にLINEが来なかった。ようやく諦めたのかとホッとしたのも束の間、家族からアイツが死んだと知らされた。
葬儀で棺の中のアイツを見ても、意味が分からなかった。どうして、アイツが?両親が離婚して家庭環境が最悪の中でも必死に勉強して、部活も委員会もボランティアも頑張って、友人も恋人も将来の夢もあって、絵に描いたような真っ当な人間だったアイツが、なんで…
しばらく前から白血病だったらしい。そんなこと一言も俺に言わなかった。言ってくれていたら、なんて言い訳は卑怯か。多分アイツは同情で俺の行動を強制するのが嫌だったんだろう。どこまで善人なんだ。使える手段はなんだって使えよ。
世界が不条理に満ちていることは知っていたが、アイツの墓石の前で手を合わせた時、つくづく実感した。俺みたいなクズが生きていて、アイツみたいな未来ある人間が救われない世界が、正しいわけがない。神様なんていなかった。
そして、俺は誓った。もうこんな思いしてたまるかと。この人間不信は、一朝一夕で治るものではない。しかし、それでも、俺のために少しでも心を砕こうという人間がいたなら、邪険に扱うのはもうやめる。人が今生きていられるのは奇跡なんだ。皆いつ死ぬか分からない。言葉を交わせるのは生きているうちだけだ。「ごめん」も「ありがとう」も、土の下に潜ってしまったら、永遠に届かない。
君はもう、泣いたりしないわ。私がいなくなっても。君はずっと強くなったし、何より私よりずっと優しく支えてくれる人ができた。君に私はもう、必要ない。
そんな風に考えてしまうのって、私が勝手に君を生きる理由にしていたせいね。私という風船が、彼岸の空に飛んでいってしまわないための、重しにしていたの、ごめんなさい。そして、今までそれでいてくれて、ありがとう。君はそんなこと、気付いてもいないのだろうけど。
気付いていないといえば、私本当は小説家になりたいわけじゃないの。高校の時の“将来の夢”なんて作文で、なりたいものがなくて適当に書いた夢を、君はずっと信じてくれていたのね。確かに、文章を書くことは好き。でも、仕事に出来るほどじゃあないの。それにね、私、君って読者がひとりいてくれたら、満足だったのよ。いつも君のための物語を書いてた。結婚式のスピーチ。あれが私の最期の作品よ。推敲を重ねてようやく完成した、君を泣かせるための物語。君のために生きていた私のことは、どうか忘れないでね。
遮断機の下りた踏切が、私の人生のゴールになることは、残念ながらなかった。電車が通過している間、内から込み上げてくる何かに必死に耐えながら、ただ身体を強張らせただけの自分が、ひどく情けない。
こうして、あの日マグカップごと殺しきれなかった恋心を己ごと抹消する計画も、生粋の怖がりのせいで失敗に終わった。
私の胸の内の恋慕が、ドス黒く醜い呪いになりかけている。これを一体いつまで、君の前で隠していられるだろうか。君の幸せを願っていたはずなのに、君の穏やかな笑顔を見ると、今は苦しくてたまらない。君にそれをさせるのも、君がそれを向けるのも、私ではないという事実が、積み上げてきた10年を一瞬で塵にしたように思えた。こんな風に考えてしまう私の浅はかさを君が知ったら、きっともう私たちは友人でいられない。私は、それがとても怖かった。
「死んだら人は星になるなんていうけれど、厳密には違うのよ。確かに人は星になるわ。でもね、それは現世にほっておけないとか忘れられない相手がいる人だけなの。見守り続けるために、星になるのよ。それでね、星になった人は一度だけ他人の願いを叶えられるの。自分の存在を燃や尽くして消えるのと引き換えにね」
「だから、きっと私、死んだら星になるわ」
カーテンを締め忘れた窓から覗く夜空は、とても澄んでいて、まるで星が溢れるようだった。いつかの冬の寒い日に、夜の公園でふたりで泣きながら見上げた空と、その時の君の言葉をふと思い出した。
リビングでつけっぱなしになっているテレビが、昨夜の人身事故のニュースを伝えていた。
「何言ってるんだよ、誰もいないじゃないか」
伴侶の視線を追って振り向いても、そこに人の姿はない。僕はこの手の話がとても苦手だ。子供の頃から、心霊番組を見ただけで腹痛を起こす体質なのだ。
「いるじゃあないの。ほら、そこに」
「だからやめ…」
伴侶が指さしたのは、僕の足元だった。見れば、黒猫がちょこんと座している。
「野良猫?拾ってくるなら連絡してよ。うち、ドッグフードしかないんだから」
「え?あ、ああ…」
気付かなかった。本当に気付かなかった。友人の家からの帰り道のどこかでついてきたのだろうが、全く気配を感じなかった。僕が初めて視線をやると、猫は「にゃあ」と目を細めて鳴いた。伴侶が無遠慮に撫でても、猫は大人しくしていた。ずいぶん人馴れしているようだ。迷い猫かもしれない。
「迷子ちゃんかもね。とりあえず保護して、飼い主さん探してみようか」
「…そうだね」
風呂とご飯を済ますと、僕は一息ついた。猫はまるで僕が飼い主であるかのように、傍に寄り添ってくる。僕が歩けば歩き、止まれば止まる。片時も離れまいとしているようだ。とても甘えん坊…いや、寂しがりなのかもしれない。
「お前の名前はなんて言うんだ?」
猫が名乗れるはずもないのに、僕は尋ねる。
「たま?」
「にゃあ」
「くろ?」
「にゃあ」
「ムギ?」
「にゃあ」
どんな名前を出しても、猫は目を細めて鳴くだけだった。しかし、僕が巫山戯て友人の名前を呼んだ時だけ「……ニャア」と、困ったような、照れくさいような、今までと少し違うトーンで鳴いた気がした。
猫を相手に他愛のない話をしながら、ダラダラ過ごしていると、あっという間に日が傾いた。取り込んだ洗濯物を畳んでいると、唐突に睡魔がやってくる。昨日の疲れもあり、どうにも抗えない僕は、洗濯物を放棄し机に突っ伏した。重くなっていく瞼が閉じる直前に見えたのは、僕を安らかな瞳で見つめる黒猫の姿…
「ただいま〜」
ハッとして目が覚める。同窓会に行っていた伴侶が帰って来たようだ。僕は寝ぼけ眼で出迎えにいこうとした。しかしその時、あの猫がどこにもいないことに気付いた。
「あれ?あの子は…」
周りを見渡しても爆睡している愛犬しか見当たらない。
「何探してるの?」
いつの間にか伴侶はリビングにいた。
「猫だよ。今日拾ってきた。うたた寝してる間にどこか行っちゃったみたい。一緒に探して…」
「猫って、何の話?」
「迷子の黒猫だよ。君が出かける前に、飼い主を探してやろうって話してただろ?」
「え?そんな話してないよ」
「…え?」
僕は慌ててリビングの隅のペットショップの袋を確認した。今日買ってきた猫の餌が入っているはずだ。しかし、中には犬の餌しか入っていなかった。リビングのマットにコロコロをかけても黒い猫毛は一本もつかなかった。
「夢でも見てたんじゃないの?」伴侶に言われて、そうかもしれないと思ったが、さてどこからが夢だったのか。その時、僕のスマホにLINE通知が入った。