対人関係のトラウマがある自分は、多分一生、結婚はしないものだと思っていた。しかし、実際は良縁に恵まれ、ついに昨日結婚式をあげるに至った。まるで夢を見ているようだ。
親しい人もない淋しい人生に終止符を打とうとしたあの日、君という友人と出会えたから、君が僕の理解者であってくれたから、今自分は此処にいられる。
結婚式での友人のスピーチに、涙で顔をぐしゃぐしゃにする僕に、伴侶は目を細めて「良い友達をもったね」と言った。まったくそのとおりだ。
友人の紡ぐ言葉は、ひとつひとつ丁寧で、とても心がこもっていて、会場の多くの人が目に涙を湛えた。友人は今、小説家という夢に苦しんでいるが、その支えに、これからも自分がなれたらと思う。友人がずっと隣で、自分を支えてくれたように。
今日はそんな友人の家を、スピーチのお礼の品を持って訪問したのだが、何度インターホンを押しても反応がなかった。LINEも既読がつかない。電話も出ない。友人は出不精だから、もしかしたら、久々の外出で疲れて寝ているのかもしれない。無理に起こすのも忍びないと思った僕は、とりあえず出直すことにした。
玄関の扉が開くと、愛犬が迎えてくれた。その後ろから、パタパタとスリッパの音を響かせて愛しい人が現れる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
愛犬がやたら僕に向かって吠えるのは、朝の散歩をサボったことへの抗議かもしれない。荒ぶる愛犬を宥めるために抱き上げようとした時、伴侶が言った。
「お客様を連れてくるなら、連絡のひとつ入れてほしいわ」
「え?」
見れば、愛犬と伴侶の視線は僕ではなく、その後方に向かっていた。一瞬キョトンとして、遅れて振り返る。しかし、僕の背後には人の姿などどこにもなかった。
死のうと思っていた。他人と同じように生きられない自分に、ほとほと嫌気が差して。しかしそんな時に、私は君と出会った。見ている景色が似ていたからか、少しずつ話すようになり、親しくなった。共に笑い、泣き、苦しみながら、それでもお互い励まし合って、気付けば10年生きていた。
そんな、過ぎ去った日々の宝物のような思い出を、私は君の結婚式のスピーチで語った。残念ながら私に文才はなかったので、会場の人たちをまるごと感動の渦に巻き込むことは出来なかったが、3割くらいは目を潤ませていた。私が友としてのすべてを込めた祝辞を、新郎新婦が笑顔で受け取る。幸せそうな君を見て、私の視界はみるみる歪んだ。「幸せになってね」の声は、さすがに震えた。
そうして式が終わった帰り道。夜の帳が下りてしばらく経った空は、今にも泣き出しそうだった。「傘、持ってくれば良かった」なんてひとり言が夜闇の中に溶けていく。眼の前で踏切の遮断機が下りた。カンカンと鳴り響く音。電車が通過する直前の踏切が、まさかこんなに魅力的だとは知らなかった。
誕生日に君からもらったマグカップを、うっかり手を滑らせて割ってしまった。スマホで通販サイトを探せば、同じものが売っていて、買えない価格ではないのだが、これはそういう問題ではない。このマグカップは“君が私に贈った唯一のもの”。そこに金銭より大事な価値と意味がある。だからこそ…
私は嘘を吐いた。うっかりではない。私は意図的に、マグカップを投身させたのだ。これの価値と意味諸共に、殺そうとした。そうでもしなければ、失恋から立ち直れない気がしたからだ。しかしながら、私は自身の恋心を甘く見ていた。マグカップとしての機能を失い、私の指を切り裂くだけの破片になってさえ、その価値と意味は、変わらず息をしていた。
「月が綺麗ですね」そんな告白をされてみたかった。なんて言ったら笑われるだろうか。学生の時分は微塵も興味がなかった漱石を、ひょんなことから読む機会があった。そしてそれが、大人になった今、何故だかやたら胸に沁みた。
あの頃の私の感性は、どうやら息をしていなかったらしい。文学も芸術も音楽も、楽しいとも好きとも思えなかった。まったくもったいない学生時代を過ごしたと思う。好きなもののひとつもあれば、あの死んだ魚のような目も、幾分マシであったろうに。
「月が綺麗ですね、なんて言われたら冷めますよね。なんでこれがI love youになるのか、意味分かんないです」
隣から聞こえてきた声に、過去に飛ばしていた意識が、今へと引き戻される。見上げれば、今夜は立派な満月だった。
「……そうだねぇ」
私なら嬉しいけど。反論の声は、透明な音になった。ロマンチストである己の露呈を無意識に恐れたからだ。近頃始めた詩を書く趣味も、誰にも言えない。私の周りの人間は、どうにもリアリストが過ぎる。夢想家を個性として受け入れてやろうという気もまるで感じないので、小心者である私の口数は自然と減った。
「君が今の恋人のこと、大好きなのは知ってるわ。でもね、たまには私のことも見てちょうだいな。淋しくて死んでしまうのだから」
なんて、茶化して言えたら良かったのに。実際は、君の薬指の指輪が視界をちらつく度、呼吸が止まって言葉なんて出てこないの。