【朝日の温もり】
会いたい、と夜更けに彼から電話があった。
彼のいつになく暗く沈んだ声音が気になって、承諾した。車で迎えに行くから、着替えて待つ様に言われ訝しみながら準備をしていると、再び携帯が鳴る。
「はい」
『今下に着いたから、用意出来たら降りて来いよ』
「後2、3分で行くから」
『判った』
戸締まりをして部屋を出ると、外気は冷たく、息が白くなった。頭上では青ざめた月が、冷たい光を下界へ注いでいる。空気が澄んでいて、静かな夜だった。
降りて来たのに気付いた彼は、車のエンジンをかけると、助手席のロックを外した。車に乗り込み、滑る様に走り始める。
闇の中、青白い街灯の光とまばらな家の明かりが、ゆっくりと窓辺を通り過ぎてゆく。
ふと、全く見覚えのない道を通っているのに気付いて、車に乗ってから初めて口を開いた。
「何処へ行くの」
「少し遠出。アンタに見せたいものもあるし、まぁ付き合えよ」
前を向いたまま、彼は口許だけで微笑む。
暗がりのせいかも知れないが、ずいぶんその横顔は疲れて見えた。何があったのか気になったけれど、問い質せる雰囲気でもなかった。
「帰るの、朝になるぜ」
「別にいいよ。休みだし」
何処へ連れて行かれるのか見当も付かなかったが、不思議と不安感は無かった。妙に懐かしく感じる、彼の醸し出す雰囲気のせいかも知れない。
自分を呼ぶ彼の声と、コーヒーの香りでぼんやりと眼が覚めた。いつの間にか眠ってしまったらしい。
幾つか夢を見たようだけど、覚えていない……でも彼は側に居た気がする。
遠くで波の音がした。夢の続きかと思いながらも、ようやく意識がはっきりしてきた。
「お早う」
「……お早う」
「ホラ。少し冷めちゃったかも知れんが」
そう言って彼はコーヒーの缶を渡した。礼を言って受け取り、一口飲むと、夢の断片が薄れていく。
「着いたの?」
「ああ」
「ゴメンなさい、運転も代わらずにに寝ちゃって……」
「気にすんな。そもそも行き先言ってねぇんだし」
簡潔に言うと、彼は自分のコーヒーを飲み干した。
辺りはまだ暗く、東の空がようやく青紫色に染まり始めている。どこか海岸の近くなのか、寄せては返す波の音が響いていた。
窓の外の風景を見渡してみる。結構北まで来ているようで、樹木も針葉樹が多い。
「すぐそこが海岸だ。あと10分位で日の出だから、見に行くぞ」
「うん」
コートを手に取り、ドアを開けて外に出た。11月も半ばを過ぎると、夜明け前の空気はかなり冷たく、コートを着ていても寒さで身震いした。吐く息も白く、呼吸をすると澄んだ空気で肺まで浄化されるようだ。
寒そうにしている様子を見ていた彼が、自分のしていたモスグリーンのマフラーを外し、私の首にそっと巻いてくれた。
「その服には合わないが、ねぇよりマシだろ」
「ん、有難う」
車から海岸までは本当に近く、林を抜けてすぐだった。
彼と自分の他には人の姿は見えない。世界中にたった二人しか居ないような……駆け落ちでもして来たような感じで、ただ黙って波打ち際を歩いていた。砂を踏みしめると、サクサクと軽い音がする。
ふと手が触れてしまい、引っ込めようとして逆に彼に掴まれた。
「手……冷てえな」
それだけ言うと、彼は手を離さずにまた歩き始める。
水平線の辺りはもうだいぶ薄紅色になっていた。潮の香りが強いけれど、それも心地良い。
二人はどちらからともなく、砂の上に腰を下ろした。空の色に、そろそろ黄金色が混じり始める。
「私に見せたいものって、これだったんだ」
「ああ。アンタに見せたいって言ったのも勿論嘘じゃねえが、でもきっと、見たかったのは俺の方なんだろうな」
急に連れ出して悪かった、と彼は呟き、髪を撫でた。彼はそのまま自分の肩口に私の頭を引き寄せる。
「一緒に見たいって思ってくれただけで、充分嬉しい」
それは半分本音で、半分嘘だ。
何を抱え疲れ切っているのだろうと、本当は気になって仕方ない。話して解決する訳でもないのに、話して欲しいと思う自分が居るのも事実だ。
実際はこうしていつも、黙って側に居る事しか出来なくても――今の無口で何処か儚い彼は、自分にだけ見せてくれるものだと思いたかった。
「ああ、日の出だ」
彼が海の向こうを指差した。
紅に染まった東の空、太陽が金色の光で夜を飛ばしている。広大な海原と、何処までも拡がる空。雲がごく薄くたなびいている。
「綺麗……! 私、水平線から朝日が昇るのを見たの初めて」
「そうか。なら連れて来た甲斐あったな」
眩しさに眼を細めながら、自然が描き出す壮大なショーを眺めた。情景は一瞬も止まる事なく刻々と変化し、やがて朝が完成した。
「この景色、私一生忘れないと思う。連れて来てくれて、有難う」
「俺も、多分忘れない」
「多分かぁ。……ねぇ、気分落ち着いた? 少しの間でも、街から離れたかったんでしょ?」
「!?」
彼は驚いたように眼を見張ったが、すぐには何も答えなかった。
けれどふと困った様な、少し寂し気な笑みを浮かべて囁く。
「適わないな、アンタには。でも……アンタと一緒に居ても沈黙が苦にならない理由が、今少し判った気がする」
そんな事を言われるとは思わず、つい俯いた。自分はそんなに賢い女じゃない。
励ませば良いのか、気を紛らわせれば良いのか――判らないから、何も言えず口をつぐんでしまうだけだ。
「たまにあるんだ、知り合いなんて誰も居ない……そんな場所に行きたくなる事。でも何故だか判らないけど、今回はアンタと行きたかった」
「私と?」
「悪くなかったぜ、駆け落ちみたいで」
「何それ」
「はは、ホント何言ってんだかな。……そろそろ戻るか、何処かでメシにしよう」
「……うん」
差し延べられた手を借りて、立ち上がる。
彼のもう片方の手がゆっくりと私の腰に回され、優しく包み込む様に抱き締めてきた。
「また、誘っても良いか……?」
ぼそっと呟く彼の声に、心臓が鷲掴みされる気がした。その淡々とした声の奥は、何処までも暗くて……彼の背に腕を回し、何度も頷いて縋り付かずにはいられなかった。
こんなに側に居ても、彼が遠くへ……手の届かない所へ行ってしまうのじゃないか? いつからか私の中で密やかに、絶えずその思いが渦巻いていて不安だったから。
だけど例え束の間でも、彼が共に行こうと言ってくれるなら――
「連れてって……」
背に受けた朝日の温もりが、不安を僅かに打ち消してくれる。こんな駆け落ちごっこなら悪くないなと、彼の腕の中で眼を閉じた。
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あ~昨日のお題、間に合わなかった!
でも折角なのでUPします。
【狭い部屋】
自分でも馬鹿な事をしているって、本当は判ってる――
その日バイトも入れず丸々予定を空けていた私は、ちょっとした模様替えも兼ねて朝から部屋の掃除をしていた。
要らない紙類を纏め、普段はフローリングワイパーで適当に済ませている床もしっかり水拭きし、サボりがちだった窓やサッシを磨いて――などとやっていると、ワンルームの狭いアパートにも拘らず何だかんだで半日以上を掃除に費やしてしまった。
しかしここで一休みしてしまうと一気に疲労が押し寄せてくる気がして、そのまま夕食の準備に取り掛かる。
(昨日のうちに買い出し行っといて正解だったな)
調理の合間にダイニングテーブルにクロスを掛け、グラスと銀のカトラリーを二人分並べ花瓶に生けた花を置く。すると引っ越し当初から使い続けてきた古びたダイニングテーブルが、ちょっとしたフレンチ・レストランに大変身を遂げた。
サラダにチーズとパンの盛り合わせ、彼の好きな煮込みハンバーグ――そんなありふれた私の料理もまるでプロの仕事に……は言い過ぎにしても、このセッティングのお陰でいつもより格段に美味しそうに見えるのは紛れもない事実。まして今日は恋人の誕生日、頑張って料理した甲斐があったというものだ。
「演出って、やっぱり大事よね……」
そろそろ良い具合に冷えたであろうシャンパンを冷蔵庫から取り出しグラスに注ぐと、黄金色に煌めく泡と香りが弾けた。
「うん、バースデーディナーとしては上々! やれば出来るじゃない、私」
セッティングや料理の出来栄えを明るい声音で自画自賛してみても、私の心が満たされる事はない。
今夜一緒に過ごすはずだった人物が、私の元へ来る事はもう不可能なのだという事実も、わざわざ二人分の料理なんか用意したところで結局食べるのは自分独りきりなのだという現実も、判り切っていたからだ。
「誕生日、おめでとう」
そう呟いて独り席に着いた私は作業のように料理を口に運びながら、ここに来る事のない恋人、そして彼と共に過ごした日々を思う。
とは言えこれといってドラマチックな展開だとか、波乱があった訳でもない。小さな幸福と、他人にとっては下らない程度のちょっとした不満……そんなごくごく普通の日常の積み重ねこそが、私達の全てだった。
初めて彼を招き手料理を振る舞った時、大喜びしてあっという間に平らげてくれた事。そんな彼を見た自分の方が嬉しくて幸せな気持ちで満たされた事。
柔軟剤の匂いが気に入ったんだと言いながら、どさくさ紛れに後ろから抱き付いてくる事。
二人きりの時は、案外喋らない事。
私が愚痴れば、よしよしと頭を撫でてくれる事。落ち込めば、下手っぴな手品で元気付けようとしてくれた事。
彼が先にシャワーを浴びると、決まって高い方のフックにヘッドを掛けてしまい、後から入る小柄な私はいつも地味に困っていた事。
ネクタイを結ぶのが下手な事。
寝癖だらけの髪を、いつも適当に濡らすだけで済ませる事。
革靴の踵を平気で潰す事。
そして何度それらを注意しても直らない事。
――大好きな所も、正直ちょっと苛々する所も、もう会えない今となっては全てが愛しい。
ここまで思い返して、彼によって与えられてきた沢山の思いと幸せを、改めて実感した。
だが同時にこれからも続いていくと信じていた、彼との暖かく優しい平穏な日々が、実はこんなにも脆く儚いものだったと思い知らされてしまったのだ。
眼からはいつしか涙が溢れ、止めどなく頬を伝い落ちていた。
「……これから先も直接『おめでとう』って言いたかったよ」
死んだ男の誕生日を祝おうなんて、君馬鹿なの?
(え……!?)
ふと何処からか、彼のそんな呆れ混じりの憎まれ口が聞こえた気がして、私はそっと心の中で自嘲する。
自分でも馬鹿な事をしてるって、そんな事本当は判っている。でも……
この狭い部屋にはまだ、彼の物も匂いも思い出も沢山残っているから。もう二度と会えないんだって、頭では判っていても全然受け入れる事が出来ないんだよ。
「私を置いて逝くなんて、馬鹿はそっちじゃん」
涙で滲んだ時計の針は零時に接近し、今日の終わりを告げようとしていた。
【失恋】
学生時代の恋人と四年前に別れて三十路もとうに越えた。今更他の女と一から付き合う気も、何なら結婚にも興味が失せていた。
そんな俺がまさか、恩ある先輩の許嫁に懸想する日が来るなど余りにも荒唐無稽で、想定外の事態に我ながら戸惑うばかりだ。
先輩の許嫁は、俺が勤務する会社の現社長の末娘。自分とはそもそも育ちも生きる世界も違い過ぎて、成就など端から望むべくもない。
何よりも先輩が、彼女の事をそれはそれは宝物のように大事にしている。彼が言うには、幼馴染みだったが故に彼女への思いを自覚するのが遅く、随分ぞんざいに扱ってしまった時期があるらしい。先輩は今でもその事を深く後悔していて、こんな自分を見限らずにいてくれた彼女を、必ず幸せにすると心に誓ったのだそうだ。
初めて先輩から彼女を紹介された時、先輩は幼馴染みとは言えよくこんな清楚でお淑やかなお嬢様をぞんざいに扱えたなと驚いた。
しかし俺は、彼女の纏う何処か影のある佇まいが自棄に気になる。彼女自身はその影を当時『誰と居ても拭えない孤独感』だと表現していた。一般的なお嬢様のイメージとは掛け離れた、その寂し気な感じが気掛かりで堪らない。
自分としては、ちょっと世間知らずの妹が放っておけないような気持ちでいたつもりだが、この時点で俺はもう恋に落ちていたのだろう。
そんな二人の挙式目前、身の程知らずにも一度だけ彼女に募る思いを告げた事があった。
勿論、結婚を控えたご令嬢には迷惑でしかないと判っていた。叶う事のない恋心に自分なりのけじめを着けるつもりの、言わばさっさと失恋する為の自分勝手な告白だった。
貴女が先輩を大切に思っている事は知っているから、返事など要らない。二度と口にもしないと言う俺に対し、彼女は深々と頭を下げてあまつさえ礼を言ったのだ。
今まで近付いてきた男性からは、社長である父や役員に名を連ねる兄達に取り入る為の道具としか扱われて来なかった。自分には人としての魅力がないのだとずっと思っていた。
だから応える事は出来ずとも、何の柵もない貴方の真っ直ぐな言葉と気持ちが嬉しかった。有難うございます、と俺に微笑むのだ。
いっそあの場で冷たくあしらってくれていたら諦めも着いたものを。そう恨む気持ちをほんの少し抱いた時もあったけれど……結局けじめなど着けられぬまま、今でも俺は密かに彼女を思い続けている。
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※俺=2023/4/8 お題【これからも、ずっと】の『俺』
先輩=2023/5/13 お題【子供のままで】の『俺』
【いつまでも降り止まない、雨】
さっきまであんなに晴れてたのに
急な夕立と思い本屋の軒先へ駆け込んで、取り敢えずハンカチで濡れた頭と服を軽く払う。
通りを行き交っていた人々も、突然の雨に駆け足で私の前を通り過ぎて行き、瞬く間に人気は全く無くなっていた。
出掛ける時の空は快晴で、まさか雨が降るなんて思いもよらなかった。
買い出しに行った帰りに、滝の様な雨に降られてしまったのだ。
軒先から空を見上げ、溜め息を吐く。
それでも夕立ならこうして少し待っていれば雨足も弱まって、そんなに濡れずに帰れるだろうと、私は走って帰るのを諦めた。
だが予想に反して雨の勢いは衰えず、雨雲は益々濃くなるばかりだ。
「どうしよう、ちっとも止まないんだけど……」
ポツリと呟き、しばらく思案してから決心したように自分の住むアパートがある方角を見据えた。
普段ならこの辺りからアパートまで歩いて約5分。雨足と荷物の量を考えて走っても、同じ位の時間で着けるだろう。きっと見るも無残な位全身ずぶ濡れになるだろうが、幸い独り暮らしだ。すぐシャワーを浴びて冷えにさえ気を付ければ良いだけの事だし、もう今日は出掛ける予定も無い。
覚悟を決めて、私が軒先を飛び出そうとしたその時。
「あれ、どうした? こんな所に突っ立って」
その声に振り向くと、そこには古ぼけたビニール傘を差した恋人が立っていて、驚いた。いつもならこの時間はまだ仕事中のはずなのだ。
厳密に言うなら定時はとうに過ぎているのだが、最近繁忙期である彼はずっと残業続きだった。
「そっちこそどうして? 仕事は?」
「強制終了。倒れられても困るからって、今週から二人ずつ交替で早く上がる事になってね。それより君はこんな所で―――」
何してるの? と続けるつもりだったであろう彼の言葉は、困った様な笑みに変わった。
「雨宿りだよね。どう見ても」
「うん……晴れてたし雨降ると思わなかったから、傘持って来てなくて」
そんな私に、彼は「ホラ」と自分が差していた傘を少し傾けた。
「入んなよ、送ってくから」
「良いの?」
「そりゃ勿論。あ、報酬は晩ご飯ね。手料理で!」
「お安い御用。じゃあ、お願いしちゃおうかな」
私が即了承すると、彼は満面の笑みを浮かべた。
「ホント!? やった、言ってみるもんだなぁ。……さ、そうと決まれば行こう!」
上機嫌で子供の様に笑う彼を見て、雨に降られて何となく沈んでいた私の心はいつの間にか浮上している。止まない雨を、これ程喜んだ事はない。
「ホラ、早く入って」
「うん」
相合い傘って、生まれて初めてかも。
うっかりそう思ってしまった私は少し照れ臭い様な、くすぐったい様な気持ちで差し向けられた傘に入る。
こうして彼と一緒に歩き出した私は、並んで歩けるのが嬉しくてつい彼の横顔を見ていた。
雨の日も晴れの日も、こんな風にずっと2人でこの先歩いて行けたら……そう思いながら。
アパートに到着すると、私は彼を先にバスルームへ向かわせた。
流石に足元だけは濡れてしまったが、雨宿り中に彼が来てくれたお陰で私はほとんど濡れていない。ならば、彼がシャワーを使う間に『報酬』の準備をしてしまった方が良いと思ったのだ。
「あ、忘れてた」
その前に着替えとバスタオルを用意しなければと、洗面所に向かった。
付き合い始めて5ヶ月弱。いつの間にか部屋には彼の着替えや生活用品が増え、今では2~3日泊まっても全く支障が無い程になっている。
着替えとタオルを持って行きカゴに入れておくと、シャワーを浴びている彼に扉越しに声を掛けた。
「着替えとタオル、カゴの中に入ってるから」
「おー、判った」
そして私は脱ぎ捨てられたワイシャツを拾い上げる。
「このシャツと靴下洗濯するから、新しいの着てね」
そう告げると、先刻まで着ていたシャツと靴下を洗濯機に入れ、次にスーツを手に取った。洗う訳にはいかないので、乾くかどうかは微妙だが、取り敢えず干すしかない。
「あれ?」
上着の形を整えようとした時、片側がずぶ濡れな事に気付いた。いくら1つの傘を2人で使ったとは言え、この濡れ方は不自然だ。
しかしすぐに、その原因に思い当たった。
スーツが濡れている片側は、私が並んで歩いていた反対側だったのだ。
私はほとんど濡れていない―――それは彼が傘の大部分を私に差していたという事に他ならない。
部屋に着いた時にすぐに気付けなかった自分を悔い申し訳ないと思いつつも、私はこの然り気無い優しさが嬉しかった。
そして自分が彼に大事に思われているのだと、素直に信じた。服が濡れるのも構わず、彼の想いの証である上着を胸に抱いて再び声を掛ける。
「今日は送ってくれて有難う」
「ん? 急にどうしたの」
「まだお礼を言ってなかったな、と思っただけ」
「どういたしまして。はは、真面目か」
「……すぐご飯用意するね」
あんな雨の中、私を見付けてくれて有難う。傘に入れてくれて、雨から守ってくれて有難う。キミの恋人で居られて……私は幸せだよ。
恥ずかしくて、面と向かっては言えそうもないけど。
その代わり、今日は彼の好きなチキン南蛮にしようと決めて、キッチンに戻った。
【逃れられない呪縛】
覚えちまった、アンタの甘ったるい香水の匂い。
ふとそんな事をアンタの髪を撫でながら呟いてしまった自分が、女々しく思えて嫌になる。
これが最後と思いつつも未だ離れ難いのは、あくまでもこの何処か懐かしい匂いのせいであって、決して愛しているからではない。そう思い込もうと無理矢理打ち消した。
「嬉しい。会えなくなっても、この香りがある限り……何処かでこの香りが漂う度、私を思い出してくれるんでしょう?」
嬉しいと言いながら泣き笑いのような、諦めにも似た表情だった。
『思い出す』とは、一度は忘れる事の証の言葉だからだろうか。
「さあな。そんな高価な香水身に着けてる奴に、そうそう行き合う事も無いだろうよ」
「成る程……きっとそうして、私は貴方に忘れ去られてゆくのかも知れない」
馬鹿な女だ。忘れず思い続けるなら『思い出す』必要など何処にある、という単純な話なのだが。
アンタの香りが、俺を縛る。
自分から離れておきながら、今でも呪いのようにアンタの気配をずっと探している。