Yuno*

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【狭い部屋】


自分でも馬鹿な事をしているって、本当は判ってる――



その日バイトも入れず丸々予定を空けていた私は、ちょっとした模様替えも兼ねて朝から部屋の掃除をしていた。
要らない紙類を纏め、普段はフローリングワイパーで適当に済ませている床もしっかり水拭きし、サボりがちだった窓やサッシを磨いて――などとやっていると、ワンルームの狭いアパートにも拘らず何だかんだで半日以上を掃除に費やしてしまった。
しかしここで一休みしてしまうと一気に疲労が押し寄せてくる気がして、そのまま夕食の準備に取り掛かる。

(昨日のうちに買い出し行っといて正解だったな)

調理の合間にダイニングテーブルにクロスを掛け、グラスと銀のカトラリーを二人分並べ花瓶に生けた花を置く。すると引っ越し当初から使い続けてきた古びたダイニングテーブルが、ちょっとしたフレンチ・レストランに大変身を遂げた。
サラダにチーズとパンの盛り合わせ、彼の好きな煮込みハンバーグ――そんなありふれた私の料理もまるでプロの仕事に……は言い過ぎにしても、このセッティングのお陰でいつもより格段に美味しそうに見えるのは紛れもない事実。まして今日は恋人の誕生日、頑張って料理した甲斐があったというものだ。

「演出って、やっぱり大事よね……」

そろそろ良い具合に冷えたであろうシャンパンを冷蔵庫から取り出しグラスに注ぐと、黄金色に煌めく泡と香りが弾けた。

「うん、バースデーディナーとしては上々! やれば出来るじゃない、私」

セッティングや料理の出来栄えを明るい声音で自画自賛してみても、私の心が満たされる事はない。
今夜一緒に過ごすはずだった人物が、私の元へ来る事はもう不可能なのだという事実も、わざわざ二人分の料理なんか用意したところで結局食べるのは自分独りきりなのだという現実も、判り切っていたからだ。

「誕生日、おめでとう」

そう呟いて独り席に着いた私は作業のように料理を口に運びながら、ここに来る事のない恋人、そして彼と共に過ごした日々を思う。
とは言えこれといってドラマチックな展開だとか、波乱があった訳でもない。小さな幸福と、他人にとっては下らない程度のちょっとした不満……そんなごくごく普通の日常の積み重ねこそが、私達の全てだった。
初めて彼を招き手料理を振る舞った時、大喜びしてあっという間に平らげてくれた事。そんな彼を見た自分の方が嬉しくて幸せな気持ちで満たされた事。
柔軟剤の匂いが気に入ったんだと言いながら、どさくさ紛れに後ろから抱き付いてくる事。
二人きりの時は、案外喋らない事。
私が愚痴れば、よしよしと頭を撫でてくれる事。落ち込めば、下手っぴな手品で元気付けようとしてくれた事。
彼が先にシャワーを浴びると、決まって高い方のフックにヘッドを掛けてしまい、後から入る小柄な私はいつも地味に困っていた事。
ネクタイを結ぶのが下手な事。
寝癖だらけの髪を、いつも適当に濡らすだけで済ませる事。
革靴の踵を平気で潰す事。
そして何度それらを注意しても直らない事。
――大好きな所も、正直ちょっと苛々する所も、もう会えない今となっては全てが愛しい。

ここまで思い返して、彼によって与えられてきた沢山の思いと幸せを、改めて実感した。
だが同時にこれからも続いていくと信じていた、彼との暖かく優しい平穏な日々が、実はこんなにも脆く儚いものだったと思い知らされてしまったのだ。
眼からはいつしか涙が溢れ、止めどなく頬を伝い落ちていた。

「……これから先も直接『おめでとう』って言いたかったよ」



死んだ男の誕生日を祝おうなんて、君馬鹿なの?



(え……!?)

ふと何処からか、彼のそんな呆れ混じりの憎まれ口が聞こえた気がして、私はそっと心の中で自嘲する。
自分でも馬鹿な事をしてるって、そんな事本当は判っている。でも……

この狭い部屋にはまだ、彼の物も匂いも思い出も沢山残っているから。もう二度と会えないんだって、頭では判っていても全然受け入れる事が出来ないんだよ。

「私を置いて逝くなんて、馬鹿はそっちじゃん」

涙で滲んだ時計の針は零時に接近し、今日の終わりを告げようとしていた。

6/4/2023, 1:22:20 PM